2017年6月21日水曜日

新約聖書原典「ペトロの手紙二」1章の翻訳(私訳)

ペトロの手紙 二 


1章


1.イエス・キリストの僕、また使徒であるシメオン・ペトロから、わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を獲得した人々へ、
2.恵みと平安が、神とわたしたちの主イエスを知ることによって、増し加えられますように。
3.命と敬虔に関わることは、すべて主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられるのですが、それはご自分の栄光と卓越した力によって、わたしたちを召してくださった方を知ることにより与えられます。4.その栄光と卓越した力によって、わたしたちに尊くすばらしい約束が与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲で腐敗したこの世における本性から逃れ、神に属する性質にあずかるようになるためです。5.ですから、あなたがたは力の限りを尽くして、あなたがたの信仰に徳を、徳に知識を、6.知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に敬虔を、7.敬虔に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。8.これらのものがあなたがたに備わり、増し加わるとき、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるのです。9.これらを持ち合わせていない者は目の見えない者、近視の者、以前の自分の罪が清められたことを忘れている者です。10.ですから、兄弟たちよ、あなたがたの召しと選びとを確かなものとし、さらに熱心に行うよう努めなさい。これらのことを行う人々は、決して過ちを犯すことがありません。11.というのは、こうして、わたしたちの主であり、救い主であられるイエス・キリストの永遠の御国に入る道があなたがたに豊かに与えられるからです。
12.ですから、わたしは、あなたがたがすでに知り、今、持っている真理に固く立ってはいるけれど、これらのことについて、あなたがたに絶えず思い起こさせようとしているのです。13.わたしがこの幕屋にいる限りは、あなたがたを思い起こさせて奮い立たせることが正しいことであると考えます。14.わたしたちの主イエス・キリストもわたしに示してくださったように、わたしのこの幕屋を脱ぎ去るときが近いことをわたしは知っています。15.わたしがこの世を去った後も、あなたがたがこれらのことをいつでも思い起こせるよう、わたしはこれからも努めましょう。

16.わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とをあなたがたに知らせたとき、わたしたちは巧みな作り話に倣うことはしませんでした。それどころか、わたしたちは、かの荘厳な出来事の目撃者なのです。17.イエスが、父である神から誉れと栄光をお受けになられたとき、荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者」と、このような声が彼にもたらされました。18.わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天からもたらされたこの同じ声を聞いたのです。19.また、わたしたちは、いっそう確実な預言の言葉を持っています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るまでは、この預言の言葉を暗い場所を照らす灯として、それにしっかり目をとめていなさい。20.はじめに、このことを知っておくべきです。すなわち、聖書の預言は、すべて(預言者)自身の解釈により成ったものではないということです。21.なぜなら、預言は、決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊によって導かれ、神からのことばを語ったものだからです。


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●「自然の中で聴く聖書」Ⅱペトロの手紙 1章


★『聖書の預言は、すべて(預言者)自身の解釈により成ったものではないということです。』20節

この読み方は、ギリシア語原典の釈義にかなっている。今日の多くの訳では、預言の解釈においては、それを読み解くのに、読者の自由な解釈をそこに持ち込んではならない、といういわば二次的な意味での「何人もー解釈してはならない」に重点が置かれたものとなっている。しかし、本来の意味は、それを書いた預言者が、神から受けた預言を、預言者自身の解釈を加えて書いたものではないという大前提を語っているのである。今日の二次的な読み方は、キリスト教歴史の中で、中世の教会において、「聖書の解釈は教会が下した解釈に従うべき」という考えを継承してきた教会の影響がいまだ残っているのかもしれない。



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