2010年3月10日水曜日

新約聖書原典「ヨハネによる福音書」6章の翻訳(私訳)

ヨハネによる福音書 

6章


1.それらの後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう側へ行かれた。2.また、多くの群衆もイエスについてきた。イエスが病気の人たちに行われた数々のしるしを目撃したからである。3.そこでイエスは山に登られ、弟子たちと共にそこにお座りになった。4.さて、ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。
5.そこでイエスは目を上げ、多くの群衆がご自分のもとに来ているのをご覧になり、フィリポに言われた。「この人たちが食べるためのパンをどこで買って来ようか」。6.しかし、これはイエスがフィリポを試すために言われたのであって、ご自分では何をしようとしておられたかを知っておられたのである。7.フィリポはイエスに答えた。「二百デナリオンデナリオンは労働者1日分の賃金》のパンでも、それぞれが少しずついただいても彼らには足りないでしょう」。8.イエスの弟子たちの中の一人で、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。9.「ここに、大麦のパン五つと二匹の魚を持っている少年がいます。しかし、これほど大勢では、それらが何になりましょう」。10.イエスは弟子たちに、人々を座らせなさいと言われた。さて、その場所には多くの草が生えていた。それで、男の人たちは座ったが、その数は五千人ほどであった。11.そこでイエスはそれらのパンを取り、感謝をささげて、座っている人たちに与えられた。また同じように魚も欲しいだけ与えられた。12.さて、みんなが満たされたので、イエスは弟子たちに、「余ったかけらを集めなさい、何も無駄にしないように」と言われた。13.そこで集めたところ、人々が五つの大麦のパンを食べて満腹して余ったかけらは、十二のかごにいっぱいになった。14.そこで人々はイエスのなされたしるしを見て、「まことにこの方は、この世に来られている預言者だ」と言っていた。15.そこでイエスは、彼らがやって来て、ご自分を力ずくで王にしようとしていることを知って、再びご自分お一人で山へ退かれた。
16.夕方になったので、イエスの弟子たちは湖畔に下りて行った。17.そして小舟に乗り込み、湖の向こう側のカファルナウムに行こうとしていた。すでに暗くなっていたが、まだイエスは彼らのところに来ておられなかった。18.また強い風が吹いていて湖は荒れていた。19.彼らが四キロから五キロメートルほど漕ぎ出したところ、湖の上を歩いて小舟に近づいてこられるイエスを見て、彼らは恐れた。20.しかしイエスは彼らに言われた。「わたしだ、恐れることはない」。21.そこで弟子たちは喜んでイエスを小舟に迎え入れた。そしてすぐに、小舟は彼らが行こうとしていた地に着いた。
22.次の日、湖の反対側にとどまっていた群衆は、そこには小舟一そうの他は何もなく、イエスがその弟子たちと一緒に小舟には乗り込まず、弟子たちだけが立ち去ったことに気づいた。23.ほかの数そうの小舟がティベリアスから、主が感謝の祈りをささげ、人々がパンを食べた場所に近づいて来た。24.そのとき群衆は、イエスもその弟子たちもそこにいないことを知ったので、彼らもそれらの小舟に乗り込み、イエスを探すためカファルナウムへ行った。25.そして、湖の向こう岸でイエスを見つけて言った。「先生、いつここへおいでになったのですか」。
26.イエスは答えて彼らに言われた。「よくよくあなたがたに言うが、あなたがたがわたしを探すのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満足したからだ。27.朽ち果てる食物のためにではなく、永遠の命に至るいつまでも残る食物、すなわち人の子があなたがたに与える食物のために働きなさい。父であられる神が、この人の子を承認されたのだから」。28.そこで彼らはイエスに言った。「神の業を行うために、わたしたちは何をすればよいのですか」。29.イエスは答えて彼らに言われた。「神が遣わされた者を信じること、それが神の業である」。
30.すると彼らはイエスに言った。「では、わたしたちがあなたを見て、信じることができるように、あなたはどんなしるしを行ってくださいますか。何をしてくださいますか。31.わたしたちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は天からのパンを彼らに与えて食べさせられた』と書かれているように」。32.そこでイエスは彼らに言われた。「わたしは心を込めてあなたがたに言っておく。天からのパンをあなたがたに与えるのはモーセではなく、わたしの父があなたがたに天からのまことのパンを与えるのである。33.神のパンとは、天から降りてきて、この世に命を与える者のことだからである」。34.そこで彼らはイエスに対して言った。「主よ、わたしたちにいつもそのパンをください」。35.イエスは彼らに言われた。「わたしが、その命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決していつどんな時も渇くことがない。
36.しかし、わたしは『あなたがたは[わたしを]見たのに信じない』と言ったが、37.父がわたしに与えてくださる人はみな、わたしのもとへ来る。そしてわたしのもとへ来る人を、わたしは決して追い出したりはしない。38.わたしが天から下って来たのは、自分のしたいことをするためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためである。39.わたしを遣わされた方のみこころとは、(父が)わたしに与えてくださった者が一人も滅びることがなく、その人を終わりの日に復活させることである。40.わたしの父のみこころとは、子を見て、彼を信じる者がすべて永遠の命を持つこと、また、わたしがその人を終わりの日に甦らせることだからである」。
41.さて、イエスが「わたしは天から下って来たパンである」と言われたので、ユダヤ人たちはイエスのことでつぶやきだし、42.そして言った。「これはヨセフの息子イエスではないか。我々はその父も母も知っているではないか。それなのに、どうして今、彼は『天から下って来た』と言うのか」。43.イエスは答えて彼らに言われた。「互いにつぶやき合うのはやめなさい。44.わたしを遣わされた父が、その人を引き寄せるのでなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない。そしてわたしもその人を終わりの日に甦らせよう。45.預言者の書に、『すべての人は、神に教えられた者となるであろう』と書かれてあり、父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。46.父を見た者はだれもいない。神のもとから来た者だけが、父を見たのである。47.わたしは心をこめてあなたがたに言っておく。信じる者は永遠の命を持っている。48.わたしは命のパンである。49.あなたがたの先祖たちは荒野でマナを食べたが、死んでしまった。50.これは天から下って来たパンである。これを食べる者はだれも死ぬことはない。51.わたしは天から下って来た、生きたパンである。このパンを食べるならば、だれでも永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世が生きるためのわたしの肉のことである」。
52.そこでユダヤ人たちは、「この人はどのようにして[自分の]肉を我々に与えて食べさせることができるのか」と、互いに言い争った。53.そこでイエスは彼らに言われた。「わたしは心をこめてあなたがたに言っておく。あなたがたが、もし人の子の肉を食べず、その血を飲まないならば、自分自身の内に命はない。54.わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は永遠の命を持ち、わたしもその人を終わりの日によみがえらせよう。55.わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物である。56.わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしの内にとどまり、わたしもその人の内にとどまる。57.わたしを遣わされた父が生きておられ、わたしも父によって生きているように、わたしを食べるその人も、わたしによって生きる。58.これは天から下って来たパンで、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は永遠に生きる」。
59.これらのことは、カファルナウムの会堂でイエスが教えておられるときに語られた。
60.すると、イエスの弟子たちの内の多くの者がこれを聞いて言った。「これは不快な言葉だ。だれがこんな言葉を聞いていられようか」。61.イエスは彼の弟子たちが、この事でつぶやいているのを知って、彼らに言われた。「こんなことが、あなたがたを躓かせるのか。62.それではもし人の子が、以前いた所へ上るのをあなたがたが見るならば(どうなるだろうか)。63.(人を)生かすのは霊で、肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。64.しかし、あなたがたの中には信じない者たちもいる」。(こう言われたのは)イエスは初めから、信じない者たちが誰であるか、またご自分を裏切る者が誰であるかを知っておられたからである。65.そして言われた。「だから、わたしはあなたがたに、『父が子に与えてくださったのでなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのである」。

66.このことがあってから、イエスの弟子達の多くが後へ離れて行き、もはやイエスと行動を共にしなくなった。67.そこでイエスは十二人に言われた。「あなたがたも去って行きたいのか」。68.シモン・ペテロがイエスに答えた。「主よ、わたしたちは誰のところへ離れ去りましょうか。永遠の命の言葉を持っておられるのはあなたです。69.わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」。70.イエスは彼らに答えられた。「あなたがた十二人を選んだのはわたしではなかったか。それなのに、あなたがたの中の一人は悪魔である」。71.イエスはイスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは十二人の中の一人で、イエスを引き渡そうとしていたからである。

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●「自然の中で聴く聖書」ヨハネによる福音書 6章



οὐδεὶς δύναται ἐλθεῖν πρός με ἐὰν μὴ ᾖ δεδομένον αὐτῷ ἐκ τοῦ πατρός.、(65)
『父が子に与えてくださったのでなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』(私訳)

この言葉は口語訳では「父が与えてくださった者でなければ、わたしに来ることはできない」。新共同訳では「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」と訳している。
δεδομένον(デドメノン) は δίδωμι の完了、受動態、分詞、単数、主格である。確かにこの言葉には allow, permit  (許す)という意味もあるが、六章全体に貫かれているイエスの思想(37,39,44,65)は giveと訳したほうが思想の一貫性として良いように思われる。したがって『与えてくださった』と訳す方が自然である。
οὐδεὶς(ウーデイス) は「誰一人、だれも…ない」という意味である。この言葉を訳すか、訳さないかで、イエスの言われた意味の深さが違ってくる。