2015年9月22日火曜日

新約聖書原典「コリントの人々への手紙一」11章の翻訳(私訳)


コリントの人々への手紙  

11章


1.わたしがキリストに見習う者であるように、あなたがたもわたしに見習う者となりなさい。
2.あなたがたが、わたしのあらゆることについて心に留めてくださり、わたしがあなたがたに委ねておいたとおり、教えをしっかりと守っていることを、わたしはほめたいと思います。3.しかし、わたしはあなたがたにこのことを知っていてほしいのです。すなわち、すべて、男の頭はキリスト、また、女の頭は男、キリストの頭は神であるということです。4.だれでも男が祈ったり預言したりする場合、その頭にかぶりものをすれば、自分の頭を辱めることになります。5.しかし、だれでも女が祈ったり預言したりする場合、頭に覆いを掛けなければ、自分の頭を辱めることになります。それは髪を剃るのに等しいからです。6.もし、女が覆いを掛けないのなら、髪を切ってしまいなさい。女にとって髪を切ったり剃ったりするのが恥ずべきことなら、覆いを掛けなさい。7.男は神の似姿でありまた栄光なのですから、頭に覆いを掛けるべきではありませんが、女は男の栄光なのです。8.というのは、男が女に属するのではなく、かえって、女が男に属するからです。9.男が女のために創造されたのではなく、かえって女が男のために創造されたからです。10.この故に、女は天使たちのために、頭に権威を帯びるべきです。11.けれども、主にあっては、女は男なしには存在せず、男も女なしには存在しないのです。12.というのは、女が男から生じたように、同様に男も女によって生まれるからです。しかし、すべてのものは神から出ています。13.あなたがた、自分たちで判断しなさい。女が覆いをかぶらないで神に祈ることがふさわしいことでしょうか。14.自然界の秩序自体が、あなたがたに教えているではありませんか。すなわち、男が髪を長く伸ばすと、それは彼にとって恥ですが、15.女が髪を長く伸ばすと、それは彼女にとって誉れとなるのです。16.(これらのことに対して)異論があると考える人がいても、このような習慣はわたしたちにはありませんし、神の諸教会にもありません。
17.しかし、次のことを命じるに当たっては、ほめるわけにはいきません。すなわち、あなたがたが共に集まっているのは、教会をより良くするためではなく、より悪くするためです。18.まず、第一に、あなたがたが教会に集う時、あなたがたの間に分裂があると聞いています。わたしも多少、感じています。19.あなたがたの間に分派があるのも、あなたがたの間で適任者を明らかにするためには必要なことでしょう。20.しかし、あなたがたが(教会に)一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはなりません。21.それぞれが、食事のとき、自分の晩餐を先に食べるので、飢えている人がいるかと思えば、酔っている人がいるという始末だからです。22.あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじて、貧しい人たちを辱めているのですか。あなたがたになんと言いましょうか。あなたがたをほめましょうか。このことでは、ほめるわけにはいきません。
23.わたし自身、主から受けたことを、あなたがたにも伝えたのです。すなわち、主イエスは、引き渡されようとしていた夜、パンを取り、24.感謝の祈りをささげ、裂いて言われました。『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしを思い起こすため、このように行いなさい』。25.また、食事の後、杯も同じようにして言われました。『これは、わたしの血による新しい契約の杯である。飲むたびにわたしを思い起こすため、このように行いなさい』。26.このパンを食べ、この杯を飲むたびに、あなたがたは主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

27.ですから、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、主の杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになるのです。28.人は自分自身を吟味し、そうしてからパンを食べ、杯から飲みなさい。29.(主の)体をわきまえないで食べたり飲んだりする者は、飲み食いして自分の身に裁きを招くのです。30.このために、あなたがたの中の多くの者たちは弱くなったり病気になったりして、大勢の者たちが死んでいるのです。31.しかし、自分自身をわきまえているなら、裁かれることはないでしょう。32.しかし、裁かれる場合、それは、この世と共に罪に定められないための主による懲らしめなのです。33.そういう訳ですから、わたしの兄弟たちよ、食事のために集まる場合は、互いに待ち合わせなさい。34.飢えた人がいるなら、(自分の)家で食べなさい。裁きのために集まるということにならないために。それ以外のことは、わたしが行ったとき指示することにしましょう。





κοιμῶνται ἱκανοί (多くの人々が眠りについているのです)30
「多くの人々が死んでいるのです」。 κοιμῶνται の本来の意味は「眠る」だが、パウロは死を眠りと考えていた。



2015年9月17日木曜日

新約聖書原典「コリントの人々への手紙一」10章の翻訳(私訳)


コリントの人々への手紙  

10章


1.兄弟たちよ、あなたがたには知らないでいてほしくありません。すなわち、わたしたちの先祖たちはみな雲の下にあって、みな海を通って行き、2.みな雲の中と海の中でモーセに従うバプテスマを受けました。3.そして、みな同じ霊の食物を食べ、4.みな同じ霊の飲み物を飲みました。彼らは、同行する霊の岩から飲んだのですが、この岩とはキリストだったのです。5.しかし、神は、彼らの多くの者たちをみこころに適う者とはなさらず、彼らは荒野で倒されてしまいました。
6.これらのことは、わたしたちを戒めるために起こったのであって、かの人たちが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼる者とならないためです。7.彼らの中のある者たちのように、偶像崇拝者となってはいけません。こう書かれているように。『民は座って食べ、飲み、立って踊った』。8.彼らの中のある者たちが不品行を行って、一日に二万三千人が倒れたように、不品行を行わないようにしょう。9.彼らの中のある者たちが試みて蛇によって滅びたように、わたしたちはキリストを試みないようにしよう。10.彼らの中のある者たちが不平を言って、滅びの天使によって滅ぼされたように、不平を言ってはいけません。11.これらのことは、それらの人々への見せしめとして起こったのであって、時代の終りに直面しているわたしたちに対する警告のために書かれたのです。12.ですから、立っていると思う人は、倒れないように気をつけなさい。13.あなたがたが受けている試練で、人間に耐えられないものはありません。神は真実です。神はあなたがたを耐えられない試練にあうことを許されず、試練と共に耐えることのできる逃れの道をも設けてくださいます。
14.そういうわけですから、わたしの愛する人たちよ、偶像礼拝を避けなさい。15.わたしは分別のある人たちに話すように話しています。あなたがたは、わたしが言うことを判断してください。16.わたしたちが祝福する祝福の杯、それは、キリストの血にあずかることではありませんか。わたしたちが裂くパン、それは、キリストの体にあずかることではありませんか。17.パンは一つですから、わたしたちは大勢いても一つの体です。皆が一つのパンを共にいただくからです。18.肉のイスラエルのことを考えてみてください。供え物を食べる人たちは祭壇にあずかる人たちではありませんか。19.さて、わたしが言っていることはどういうことでしょうか。偶像に供えられた物とは何ですか。あるいは、偶像とは何ですか。20.彼らが捧げているものは悪霊どもに対してであって、神に[捧げているの]ではありません。わたしは、あなたがたに悪霊どもの仲間になってほしくないのです。21.あなたがたは主の杯と悪霊どもの杯(の両方)を飲むことはできません。主の食卓と悪霊どもの食卓(の両方)にあずかることはできません。22.それとも、わたしたちは、主にねたみをおこさせているのでしょうか。わたしたちは主より強い者なのでしょうか。

23.すべてのことは許されていますが、すべてが益となるわけではありません。すべてのことは許されていますが、すべてが(人を)建てあげるわけではありません。24.だれでも、自分の利益を求めず、他の人の利益を求めなさい。25.食料市場で売られているものはみな、良心に問うことをしないで食べなさい。26.『地と、それに満ちているものは主のもの』だからです。27.もし、あなたがたが信仰を持たない人々から(食事に)招かれ、行きたいのなら、あなたがたの前に出されるものを、良心に問うことをしないで何でも食べなさい。28.もし、ある人があなたがたに、「これは犠牲としてささげられたものです」と言えば、知らせてくれたその人のために、また、良心のためにも食べてはいけません。29.わたしが言う良心とは、自分の良心ではなく、他人の良心のことです。どうしてわたしの自由が、他人の良心によって決められるのでしょうか。30.わたしが感謝して共に食べるのに、どうして、わたしが感謝していることのために非難されるのでしょうか。31.ですから、食べるにも、飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光のために行いなさい。32.ユダヤ人たちやギリシア人たち、また、神の教会に対しても、あなたがたは人の躓きとならないようにしなさい。33.それは、彼らが救われるために、わたしが、自分の利益を求めないで多くの人々の利益を求めて、すべてのことにおいてみんなの人を喜ばせているように。





★「食料市場で売られているものは」(25)
τὸ ἐν μακέλλῳ πωλούμενον (肉市場で売られている肉)



2015年9月9日水曜日

新約聖書原典「コリントの人々への手紙一」 9章の翻訳(私訳)


コリントの人々への手紙  

9章


1.わたしは自由ではないのでしょうか。わたしは使徒ではないのでしょうか。わたしは、わたしたちの主イエスを見ていないのでしょうか。あなたがたは、主によるわたしの働きの実ではないのでしょうか。2.わたしは、他の人たちにとっては使徒でないにしても、あなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたが主と共にあることが、わたしが使徒であることのしるしです。3.わたしを批判する人たちへの、わたしの弁明はこうです。4.わたしたちには、食べたり飲んだりする権利がないのでしょうか。5.わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者の妻を連れて歩く権利が全くないのでしょうか。6.それとも、わたしとバルナバだけが、働かずにいる権利を持たないのでしょうか。7.自分でお金を払ってまで、兵士となる者がいるでしょうか。ぶどう園を造りながら、その実を食べない者がいるでしょうか。また、群れを飼いながら、その乳を飲まない者がいるでしょうか。8.わたしがこう言うのは、人間の考えからでしょうか。律法もこう言っているではありませんか。9.モーセの律法にこう書かれています。『穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはならない』。神が気にかけておられるのは、牛のことでしょうか。10.それとも、確かにわたしたちのために言っておられるのでしょうか。わたしたちのために書かれたのです。『耕す者が希望をもって耕し、脱穀する者が分け前にあずかる希望をもつのは当然である』と。11.わたしたちが、あなたがたに霊のものをまいたのなら、わたしたちが、あなたがたから肉のものを刈り取るのは、ひどいことでしょうか。12.他の人たちが、あなたがたからのこの権利にあずかっているとすれば、わたしたちはなおさらではありませんか。しかし、わたしたちは、この権利を用いないで、むしろ、すべてのことを我慢しています。それは、キリストの福音になんの妨げも与えないようにするためです。13.あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人たちは、神殿から下がるものを食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇に(供えられたものに)あずかることを。14.このように、主も福音を宣べ伝える人々が、福音によって生活するようにと命じられたのです。
15.しかし、わたし自身は、これらの(権利の)どれをも用いたことがありません。自分もそうありたいために、このように書いているのではありません。そうなるよりは、死んだ方がまだましです。だれも、わたしのこの誇りを奪うことはできません。16.たとい、わたしが福音を宣べ伝えても、それはわたしにとって誇りにはなりません。その必要に迫られているからです。もし、わたしが福音を宣べ伝えないなら、それはわたしにとって災いです。17.わたしが自発的にそれを行っているなら、わたしは報われます。しかし、自発的でないにしても、それは務めだと信じています。18.では、わたしの報酬とは何ですか。それは、福音を宣べ伝える場合に無報酬で福音を与え、福音に伴うわたしのこの権利を用いないようにということです。
19.わたしはすべての人から自由の身ですが、すべての人に対して自分自身を奴隷として仕えてきました。それは、より多くの人々を得るためです。20.ユダヤ人たちに対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人たちを得るためです。律法の下にある人々に対しては、わたし自身は律法の下にはありませんが、律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人々を得るためです。21.律法のない人々に対しては、わたし自身は、神の律法のない者ではなく、むしろ、キリストの律法に従う者ですが、律法のない者のようになりました。律法のない人々を得るためです。22.弱い人々に対しては、弱い者のようになりました。弱い人々得るためです。すべての人々に対して、すべてとなりました。なんとかして幾人かでも救うためです。23.福音のために、わたしはどんなことでもします。わたしも福音に共にあずかるようになるためです。

24.あなたがたは知らないのですか。競技場で走る人たちはみな走りますが、賞を得るのは一人だけだということを。だから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい。25.競技をする人はみな、何事にも節制します。その人たちは、朽ちる冠を得るためにそうしますが、あなたがたは朽ちない冠を得るためにそうするのです。26.ですから、わたしは目標のないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。27.むしろ、自分の体を打ちたたきながら奴隷として服従させているのです。そうでないと、他の人たちに宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者となるかも知れないのです。






2015年9月6日日曜日

新約聖書原典「コリントの人々への手紙一」 8章の翻訳(私訳)


コリントの人々への手紙  

8章


1.さて、偶像に犠牲としてささげた肉については、わたしたちは、皆が知識を持っていることを知っています。『知識は(人を)ごう慢にするが、愛は(人を)建てあげる』。2.もしだれかが、何かを知っていると思うなら、その人は、知らなければならないことすら、まだ知らないのです。3.しかし、もしだれかが神を愛しているなら、その人は神に知られているのです。4.そこで、偶像に犠牲としてささげた食物についてですが、この世界には偶像なる神は存在せず、また、唯一の神以外にいかなる神も存在しないことをわたしたちは知っています。5.『多くの神々、多くの主が存在する』とのように、もし本当に、天にも地にも神々が存在すると人々が言っても、
6.わたしたちには、父であられる唯一の神がおられ、万物はこのかたから出て、わたしたちはこのかたに帰って行くのです。
また、唯一の主であられるイエス・キリストがおられ、万物はこのかたによって存在し、わたしたちもこのかたによって存在しているのです。

7.しかし、この知識が、全ての人にあるわけではありません。ある人たちは、偶像を用いてきた今までの習慣によって、偶像への犠牲のささげものとして食べているので、彼らの良心は弱くなり、けがされています。8.しかし、食物がわたしたちを神にささげるのではありません。たとえ食べなくても不足するわけではなく、食べてもあり余るわけではありません。9.あなたがたのこの(自由な)権利が、弱い人たちのつまずきにならないように注意しなさい。10.この知識を持っているあなたが、偶像が祭られた神殿で食卓に着いているのをある人が見た場合、その人の良心は弱いのに、勇気づけられて、偶像に犠牲としてささげた肉を食べるようにならないでしょうか。11.そうなると、弱い人は、あなたの知識によって滅びることになるのです。キリストはこの兄弟のためにも死なれたのです。12.こうして、あなたがたが兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、あなたがたはキリストに対して罪を犯すのです。13.もし、食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、わたしの兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を食べません。





2015年9月2日水曜日

新約聖書原典「コリントの人々への手紙一」7章の翻訳(私訳)


コリントの人々への手紙  

7章


1.あなたがたが(手紙で)書いてきたことについてですが、女に触れないのは、男にとっては良いことです。2.しかし、不品行を避けるために、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。3.夫は妻に義務を果たし、同様に、妻も夫に義務を果たしなさい。4.妻は自分の体を自由にはできず、それができるのは夫です。同様に、夫も自分の体を自由にはできず、それができるのは妻です。5.互いに拒んではいけません。ただ、あなたがたが祈りに専念するために合意の上で少しの間離れ、再び一緒にいようとする場合は別です。それは、サタンがあなたがたの自制心のないのに乗じて、あなたがたを誘惑しないためです。6.わたしは譲歩のつもりでこう言っていて、命令のつもりで言っているのではありません。7.わたしはみんなに、わたし自身のようになってほしいのです。しかし、各自は神から自分の賜物をいただいています。ある人はこのように、他の人はあのように。
8.未婚の人たちと未亡人の人たちに言いますが、わたしのように(一人のままで)いられるなら、それがよろしい。9.しかし、自制できなければ、結婚しなさい。情欲で燃え上がるよりは、結婚する方がましだからです。10.結婚している人たちに命じます。これはわたしが言うのではなく、主が言われるのです。妻は夫と別れてはいけません。11.もし別れたのなら、結婚しないでいるか、夫と復縁しなさい。夫も妻を離縁させてはいけません。12.その他の人たちには、主ではなくわたしが言うのですが、ある(信者である)兄弟に信仰を持たない妻がいて、彼女が夫と一緒に住むことに同意しているのなら、夫は彼女と離縁してはいけません。13.また、(信者である)妻に信仰を持たない夫がいて、夫が彼女と一緒に住むことに同意しているのなら、彼女は夫と離縁してはいけません。14.信仰を持たない夫は、妻によって聖別され、信仰を持たない妻は、兄弟によって聖別されているからです。そうでなければ、あなたがたの子供たちは、汚れた者ということになりますが、現に聖なる者なのです。15.しかし、信仰を持たない相手が離縁していくなら、離縁させなさい。兄弟や姉妹は、こういうことに縛られてはいけません。神はあなたがたが平和でいるようにと召されたのです。16.婦人よ、あなたが夫を救えるかどうか、どうしてわかりますか。夫よ、あなたが妻を救えるかどうか、どうしてわかりますか。
17.ただ、主が各自に分け与えてくださったように、神が各自を召してくださったように歩みなさい。わたしはどの教会でも、そのように命じています。18.割礼のある者が召された場合、(その跡を)消してはいけません。割礼のない者が召された場合、割礼を受けてはいけません。19.割礼があってもなくても、それは問題ではありません。大切なのは神の戒めを守ることです。20.各自は、召された時の召しの状態のままでいなさい。21.奴隷が召しを受けた場合、気にしてはなりません。ただし、自由になることができるなら、むしろ(その機会を)利用しなさい。22.主によって召しを受けた奴隷は、主によって解放された自由人なのですから。同様に、召しを受けた自由人は、キリストの奴隷なのです。23.あなたがたは代価を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。24.兄弟たちよ、各自は召されたままの状態で、神の御前にとどまっていなさい。
25.乙女たちについて、わたしは主からの命令を受けていませんが、主から憐みを受けている信仰者として意見を述べましょう。26.さて、わたしはこうするのが良いと考えています。苦難が間近に迫っているので、人は現状でいるのが良いと思います。27.あなたが妻を得ているなら、解こうとしてはいけません。あなたが妻から解かれているなら、妻を求めてはいけません。28.しかし、あなたが結婚しても、罪を犯すのではありません。また乙女が結婚しても、罪を犯すのではありません。ただ、この人たちはその身に苦労を背負うことになるでしょう。わたしとしては、あなたがたを(これらのことから)遠ざけたいのです。29.兄弟たちよ、わたしがこう言うのは、時が縮まっているからです。今後は、妻のある者たちはない者のように、30.また、泣く者たちは泣かない者のように、喜ぶ者たちは喜ばない者のように、買う者たちは持たない者のように、31.世にかかわる者たちは、かかわりのない者のようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。32.わたしはあなたがたを、思い煩うことのない者とさせたいのです。未婚の男性は主のことに心を用いて、どうにかして主を喜ばせようとします。33.しかし、既婚の男性はこの世のことに心を用いて、どうにかして妻を喜ばせようと、34.(心が)分散してしまいます。また、未婚の女性と乙女は、身も心も清くあろうとして、主のことに心を用います。しかし、既婚の女性は、この世のことに心を用いて、どうにかして夫を喜ばせようとします。35.わたしがこう言うのは、あなたがた自身の益のためであって、あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろ、あなたがたが上品な生活をして、主に余念なく忠実に仕えるためなのです。
36.もし、ある人が、自分の(引き取って養育をしている)乙女に対し、体裁が悪いと思いつつも、適齢期を過ぎようとしていて、そうなるべきだと思うなら、彼が望むことをしなさい。それは罪を犯すのではありません。二人は結婚しなさい。37.しかし、自分の心の内に固く決心し、自分の欲求に権利を持ちながらも、強制ではなく、自分の(相手の)乙女をそのままにしておこうと自分の心に決めた人は、そうするのが良いでしょう。38.このように、自分の(相手の)乙女と結婚する人は良いことをするのですが、結婚しない人はさらに良いことをするのです。

39.妻は、自分の夫が生きている期間は縛られていますが、夫が死ねば自由となり、望む人と再婚できますが、(それができるのは)主にある人に限られます。40.わたしも神の霊をいただいていると思っていますので、わたしの意見では、彼女はそのままでいる方がずっと幸せなのです。






★「女に触れないのは」γυναικὸς μὴ ἅπτεσθαι· (7:1)
「結婚しないこと」の意

★「奴隷が召しを受けた場合、気にしてはなりません。ただし、自由になることができるなら、むしろ自由になりなさい」(7:21)

21節の後半の訳に注意してください。この部分を、新共同訳では真逆に訳しています。下記がその訳です。
自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい」(新共同訳 コリント一 7:21)

口語訳、新改訳では、ほぼ筆者と同様に訳しています。はたしてどちらの訳が正しいのでしょうか。原典は次のように言っています。

ἀλλʼ εἰ καὶ δύνασαι ἐλεύθερος γενέσθαι, μᾶλλον χρῆσαι (21の後半)

神の召しを受けた奴隷(クリスチャンに呼び出された奴隷)は、その家の主人から自由になることは、かならずしも保障されていないが、主人の恩寵によって自由になる選択の権利が与えられたならば、自由になる権利を用いなさい、という意味です。上記の μᾶλλον χρῆσαι は、「その権利、機会をむしろ用いなさ い」という積極的な意味をもつ。

★36~38の翻訳について
この部分の翻訳には主な翻訳を比較すると、三つの翻訳の違いがあることに気づく。それは、36の冒頭に現れる「ある人」と「乙女」との関係についてである。以下の三つの訳の違いに注意。

①「ある人」ー未婚の、ある男。 「乙女」ー未婚の、ある男の情熱の対象となっている乙女ーーー口語訳、新共同訳、筆者、

②「ある人」ー乙女を持つ父親。 「乙女」ーある父親のもとにいる婚期が過ぎようとしている娘。---新改訳。

③「ある人」ー未婚の、ある男。 「乙女」ー未婚のある男が結婚をしようとする、婚期が過ぎようとしている乙女。ーーーkjv、筆者

以上の訳の違いは原典の36節にある τὴν παρθένον αὐτοῦ  と ἐὰν ᾖ ὑπέρακμος  をどのように訳すかで、上記のように三つの翻訳の違いとなる。
τὴν παρθένον αὐτοῦ (彼の乙女を)ーーー(ある人の相手の乙女)か(ある人乙女)なのか。
ἐὰν ᾖ ὑπέρακμος (強い情熱を抱くなら・婚期を過ぎるかもしれない)。この場合いずれも訳しうるが、「ある人」「乙女」のどちらを主語とするかによって訳が異なる。筆者は後の方の解釈をとる立場です。