2014年1月29日水曜日

新約聖書原典「ヨハネの黙示録」1章の翻訳(私訳)


ヨハネの黙示録 


1章


1.イエス・キリストの黙示。この黙示は、神がすぐにも起こらねばならない事をその僕たちに示すために、キリストにお与えになり、キリストがご自分の天使を遣わして、その僕ヨハネに示されたものである。2.彼は神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たことを証しした。3.この預言の言葉を朗読する者と、これらを聞いて、そこに書かれていることを守る者たちは幸いである。時が近づいているからである。
4.ヨハネから、アジアにある七つの教会へ。今おられ、かつてもおられ、やがて来られる方から、また御座の前におられる七つの霊から、5.また、証人であり、忠実な方、死者たちの中から最初によみがえられた方、地の王たちの支配者であられるイエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。わたしたちを愛してくださり、その血によってわたしたちの罪からわたしたちを解放してくださった方に、6.また、わたしたちを、王に、またご自身の父であられる神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が[永遠から]永遠にあるように、アーメン。
7.見よ、彼は雲を伴って来られる。
すべての目、また彼を刺し通した者たちはだれでも彼を見るだろう。
地の人々はみな、彼のことで嘆き悔やむだろう。然り、アーメン。
8.神であられる主、今おられ、かつてもおられ、やがて来られる方、全能なる方が言われる。「わたしはアルファであり、オメガである」。
9.わたしヨハネは、あなたがたの兄弟であり、イエスにある苦しみと御国と忍耐とにあずかる者として、神の言葉とイエスの証しのために、パトモスと呼ばれる島にいた。10.主の日に、わたしは御霊に支配されて、わたしの後ろでラッパのような大きな声を聞いた。11.その声はこう言った。「あなたが見ていることを、書物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会へ送りなさい」。12.わたしは自分に語った声の主を見ようと振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。13.燭台の真ん中に人の子のような方がいて、足まで垂れる衣を着、胸に金の帯を締めておられた。14.その方の頭と髪の毛は、白い羊毛のようで雪のように白く、その目は火の炎のようであった。15.また、その両足は炉で精錬されたしんちゅうに似ており、その声は大水の音のようであった。16.その右手に七つの星を持ち、その口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔はその力によって輝く太陽のようであった。
17.わたしがその方を見たとき、死人のようになってその方の足もとに倒れた。すると、その方の右手がわたしの上に触れて言った。「恐れることはない。わたしは初めの者で、終わりの者である。18.生きている者で、死んだことはあるが、見よ、永遠に生きている者である。わたしは死とハデスとの鍵を持っている。19.だから、あなたが見た事、起きている事、また今後起ころうとしている事を書きとめなさい。20.あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台の秘密はこうである。七つの星は七つの教会の御使いたちで、七つの燭台は七つの教会である」。



●自然の中で聴く聖書『ヨハネの黙示録』1章





2014年1月27日月曜日

新約聖書原典「ヨハネの手紙第三」の翻訳(私訳)

ヨハネの手紙


1.長老(のわたし)から、愛するガイオへ。わたしはあなたを真に愛しています。
2.愛する者よ、わたしはあなたのいのちが健やかなように、あらゆることについて、あなたが恵まれ、健やかであるようにと祈っています。3.兄弟たちが来てくれて、あなたが真理によって歩いていると証ししてくれているので、わたしは非常に喜んでいます。そのとおり、あなたは真理によって歩いています。4.わたしの子供たちが真理によって歩いているのを聞くこと、これにまさる喜びはありません。
5.愛する者よ、あなたは兄弟たちに、それも、よその人たちに対しても尽くしているとすれば、それは真実な行いです。6.彼らはあなたの愛を、教会の面前で証ししたのです。どうか彼らを、神のみ旨にかなった者として送り出してくださるように。7.彼らは御名のために出て来た人たちであって、異邦人たちからは何も受け取っていないのです。8.ですから、わたしたちは、真理のために共に働く者となるために、こういう人たちを温かくもてなすべきなのです。
9.わたしは教会へ少しばかり書きましたが、彼らの頭になりたがっているディオトレフェスは、わたしたちを受け入れません。10.ですから、わたしが行ったら、悪意にみちた言葉でわたしたちを中傷するその行いを気づかせようと思います。彼はこれらの行いに満足しないで、兄弟たちを受け入れないばかりか、受け入れようとする人たちの邪魔をして、教会から追い出しているのです。
11.愛する者よ、悪を見習わないで、善を見習いなさい。善を行う者は神から出ていて、悪を行う者は神を見たことがないのです。12.デメトリオについては多くの人たちと、真理そのものによっても証しされています。わたしたちもまた証しします。そして、あなたは、わたしたちの証しが真実であることを知っています。

13.あなたに書くことはまだ沢山ありましたが、(これ以上)インクとペンであなたに書こうとは思いません。14.すぐにでもあなたに会って、直接お話ししたいと望んでいます。15.平安があなたにありますように。(こちらの)友人たちが、あなたによろしくと。(そちらの)友人たちお一人お一人によろしく言ってください。


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「自然の中で聴く聖書」ヨハネの手紙 Ⅲ


★「よその人たち」(6節)の  ξένους (クセヌース)は、「外国人たち」とか「旅人たち」とも訳せる。



2014年1月24日金曜日

新約聖書原典「ヨハネの手紙第二」の翻訳(私訳)

ヨハネの手紙


1.長老(のわたし)から、選ばれた婦人とその子供たちへ。わたしはあなたがたを真に愛しています。わたしだけではなく、真理を知っている人々もみなそうです。2.それはわたしたちの内にとどめている真理によるのであり、その真理はいつまでもわたしたちと共にあるでしょう。
3.父であられる神と、父の御子であられるイエス・キリストから、恵みと憐れみと平安とが、真理と愛の内にわたしたちと共にありますように。
4.わたしは、あなたの子供たちが、わたしたちが父から受けた戒めどおりに真理の内を歩いているのを見て、大変喜びました。5.婦人よ、今、あなたにお願いします。わたしがあなたに書いているのは、新しい戒めのようなものではなく、わたしたちが初めから持っていた戒めで、わたしたちが互いに愛し合うようになるためです。6.この愛とは、わたしたちが父の戒めにそって歩くことです。この戒めとは、あなたがたが初めから聞いていたとおり、愛の内を歩くことです。
7.なぜなら、多くの惑わす者たちが世に出て来たからです。彼らはイエス・キリストが肉体をとって来られたことを告白しません。こういう人は惑わす者で、反キリストです。8.自分自身に気をつけていなさい。それは、わたしたちが働いて得たものを失うことなく、充分な報酬をいただくようになるためです。9.だれでも、キリストの教えを飛び越えて、これにとどまらない者は、神を持たない。教えにとどまる者こそ、父と御子とを持つのです。10.この教えを携えないで、あなたがたのところへ来る者がいれば、その人を家に迎え入れることも、挨拶をすることもしてはいけません。11.その人に挨拶を言う者は、その人の悪い行いに加わることになるのです。

12.わたしはまだ、あなたがたに書くことが沢山ありますが、紙とインクで書こうとは思いません。あなたがたのところへ行って、直接お会いして話したいと希望しています。それは、わたしたちの喜びが満たされるようになるためです。13.選ばれたあなたの姉妹の子供たちが、あなたによろしく。


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「自然の中で聴く聖書」ヨハネの手紙 Ⅱ


  ★愛とは、御父の戒めに沿って歩くことであり(6前半)、戒めとは愛の内を歩くことである(6後半)。愛(ἀγάπη・アガペー )と戒め(ἐντολή・エントレー)の関係が見事に集約された言葉です。ちなみにἐντολή(戒め)は νόμος(律法)と区別して私は訳しています。 




2014年1月22日水曜日

新約聖書原典「ヨハネの手紙第一」5章の翻訳(私訳)


ヨハネの手紙  

5章


1.「イエスはキリストである」と信じる者はみな、神から生まれています。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた人をも愛します。2.わたしたちが神を愛し、その戒めを行う時にはいつも、それによって、わたしたちは神の子供たちを愛しているのだということを知るのです。3.神の愛とは、その戒めを守ることです。そして、その戒めは難しいものではありません。4.なぜなら、神から生まれた者はみな、世に勝っているからです。世に勝つ勝利こそが、わたしたちの信仰です。5.世に勝つ者とは誰のことですか。「イエスは神の子である」と信じている者ではありませんか。6.この方こそ、水と血とによって来られた方、イエス・キリストです。水によるだけでなく、水と血とによって来られました。それを証ししてくださる方は御霊です。御霊は真実な方だからです。7.証しする方は三者です。8.御霊と水と血です。この三者は一つとなります。9.わたしたちが人々の証しを受け入れるのであれば、神の証しはさらに優っています。なぜならそれは、神の証しであって、ご自分の御子について証ししているからです。10.神の御子を信じる者は、その人の内には証しがあります。神を信じない者は、神を偽り者としているのです。神が、ご自分の御子について証しされたその証しを信じていないからです。11.そして、その証しとはこうです。すなわち、神はわたしたちに永遠の命を与えてくださり、その命は御子の内にあるということです。12.御子を持つ者は命を持ち、神の御子を持たない者は命を持たない。
13.わたしがこれらのことをあなたがたに書いたのは、神の御子の名を信じるあなたがたに、永遠の命にあずかっていることを知ってもらうためです。14.わたしたちが神に対して持っている確信はこれです。すなわち、わたしたちが神のみ旨にそって求めるなら、神はなんでもわたしたちの願いを聞いてくださるということです。15.また、もし、わたしたちが願うことを神は聞いて下さると知っているなら、わたしたちが願った願いごとは(すでに)神によってかなえられていると知るのです。16.もし誰かが、死に至ることのない罪を犯している自分の兄弟を見たなら、(神に)願いなさい。そうすれば神はその人に命をお与えになります。これは死に至ることのない罪を犯している者たちに対してです。死に至る罪もあります。これについては、願いなさいとは言いません。17.不義の行為は、すべて罪です。死に至らない罪もあります。
18.神から生まれている者はみな、罪を犯さないことをわたしたちは知っています。神からお生まれになった方がその人自身を守ってくださるので、悪い者がその人に触れることはありません。19.わたしたちは神から出ていますが、全世界は悪の中に置かれているのをわたしたちは知っています。20.わたしたちは、神の御子が来られて、わたしたちに真実な方を知るための知恵を与えてくださったことを知っています。わたしたちは真実な方の内におり、御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ真実な神、永遠の命なのです。21.子供たちよ、偶像から自分を守りなさい。

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「自然の中で聴く聖書」/ ヨハネの手紙Ⅰ・5章1~12節
「自然の中で聴く聖書」/ ヨハネの手紙Ⅰ・5章13~21節




2014年1月20日月曜日

新約聖書原典「ヨハネの手紙第一」4章の翻訳(私訳)

ヨハネの手紙  

4章


1.愛する者たちよ、すべての霊を信じることをしないで、それらの霊が神から出たものかどうかを調べなさい。なぜなら、多くの偽預言者たちが世に出て来ているからです。2.このことによって、あなたがたは神の霊を見分けます。すなわち「イエス・キリストは肉体をとって来られた」と告白する霊はすべて、神から出たものです。3.イエスを告白しない霊はすべて、神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはかねてより、「それが来る」と聞いていましたが、今、すでに世にいるのです。
4.子供たちよ、あなたがたは神から出ている者です。あなたがたは彼らに勝利しているのです。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者より優ったお方です。5.彼らは世から出ているので、世から出ていることを語り、世は彼らの言うことを聞くのです。6.わたしたちは神から出ている者です。神を知っている者は、わたしたちの言うことを聞きます。神から出ていない者は、わたしたちの言うことを聞きません。このことによって、わたしたちは、真理の霊と偽りの霊とを見分けるのです。
7.愛する者たちよ、わたしたちは互いに愛し合おうではありませんか。なぜなら、愛は神から出ているからです。愛する者はみな、神から生まれ、神を知っています。8.愛さない者は、神を知りません。神は愛だからです。9.このことによって、神の愛がわたしたちの内に表されました。すなわち、神はご自分のひとり子をこの世に遣わされました。それは、わたしたちがその方によって生きるようになるためです。10.わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛してくださって、わたしたちの罪を償うために、ご自分の御子を遣わしてくださいました。ここに愛があります。11.愛する者たちよ、神がこのようにわたしたちを愛してくださったのなら、わたしたちも互いに愛し合うべきです。12.神を見た者はかつて、だれもいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内に完成されているのです。13.神はご自分の霊をわたしたちに分け与えてくださいました。このことによって、わたしたちが神の内にとどまっており、神もまたわたしたちの内にとどまっておられることが分かります。14.わたしたちは、御父が御子をこの世の救い主としてお遣わしになったことを見て、証ししています。15.だれでも、「イエスは神の子である」と告白するなら、神はその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまるのです。16.また、わたしたちは、神がわたしたちの内に持っておられる愛を知り、また信じています。

神は愛です。愛の内にとどまる者は神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。17.こうして、愛はわたしたちの内に完成されるのです。それは、わたしたちも、あの方と同じように、この世に生きているので、裁きの日に確信が持てるようになるためです。18.愛には恐れがありません。むしろ、完全な愛は恐れを取り除きます。というのは、恐れは刑罰を伴い、恐れる者は愛において完成されていないからです。19.わたしたちが愛するのは、神が最初にわたしたちを愛してくださったからです。20.だれでも、神を愛していると言いながら、自分の兄弟を憎むなら、その人は偽り者です。目に見える自分の兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができないからです。21.神を愛する者は、自分の兄弟をも愛すべきです。わたしたちはこの戒めを神から授かっているのです。


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「自然の中で聴く聖書」ヨハネの手紙Ⅰ・4章1~11節
「自然の中で聴く聖書」ヨハネの手紙Ⅰ・4章12~21節
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★「神から出ている」ἐκ τοῦ θεοῦ ἐστιν :1,2,3,4,6,7節   「世から出ている」ἐκ τοῦ κόσμου εἰσίν  :5節 1~7節は「神から出ている人」を「世から出ている人(霊)」と対比。
★私たちが愛し合うのは、神の私たちへの愛が前提となっている。(8節~)

★「とどまる」μένω :12,13,15,16節 「神が私たちの内にとどまる」「私たちが神の内にとどまる」。




2014年1月17日金曜日

新約聖書原典「ヨハネの手紙第一」3章の翻訳(私訳)

ヨハネの手紙  

3章


1.わたしたちが神の子と呼ばれるために、御父はどんなに大きな愛をわたしたちにくださったことか、よく理解していなさい。わたしたちはすでに神の子です。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。2.愛する者たちよ、わたしたちは今や神の子です。しかし、わたしたちがどうなるのかまだ明らかではありません。御子が現われるとき、わたしたちが御子に似る者となることを知っています。なぜなら、わたしたちは御子をありのままに見るからです。3.この望みを持っている者はみな、御子が清くあられるように、この方によって自分を清くします。4.罪を犯す者はみな、不法をも行うのです。罪は不法です。5.あの方が現われたのは、罪を取り除くためであるとあなたがたは知っています。御子の内には罪がありません。6.御子の内にとどまる者はみな、罪を犯しません。罪を犯す者はみな、御子を見たことも知ったこともないのです。7.幼子たちよ、だれからもあなたがたは惑わされてはいけません。あの方が正しい方であられるように、義を行う者は正しいのです。8.罪を犯す者は悪魔から出ているのです。なぜなら、悪魔は初めから罪を犯し続けているからです。神の御子が現われたのは、悪魔の業を滅ぼすためだったのです。9.神から生まれた者はみな、罪を犯しません。なぜなら、その人の内に神の種がとどまっているので、罪を犯すことができないからです。その人は神から生まれているのです。10.これによって、神の子たちと悪魔の子たちとの違いは明らかです。義を行わない者はみな、神から出たのではありません。自分の兄弟を愛さない者も同じです。
11.なぜなら、あなたがたが初めから聞いている命令は、わたしたちが互いに愛し合うことだからです。12.カインのようになってはいけません。彼は悪から出ていたので、自分の兄弟を殺したのです。どんな理由で殺したのでしょうか。彼の行いが悪く、自分の兄弟の行いが正しかったからです。

13.兄弟たちよ、世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。14.わたしたちは死から出て、命に移っていることを知っています。なぜなら、わたしたちは兄弟たちを愛しているからです。愛さない者は、死の内にとどまっているのです。15.自分の兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたも知っているとおり、人を殺す者はみな、自分の内に永遠の命をとどめてはいないのです。16.あの方が、わたしたちのためにご自分の命をお捨てになったので、それよって、わたしたちは愛を知ったのです。わたしたちもまた、兄弟たちのために命を捨てるべきです。17.この世の富を持ちながら、自分の兄弟が事欠くのを見て、憐れみの心を閉ざす人に、どうして神の愛がその人の内にとどまるでしょうか。18.子供たちよ、言葉や口先で愛するのではなく、行いと真実とをもって愛そうではありませんか。19.それによって、わたしたちは自分が真理から出た者であることを知って、神の御前で確信を持つことができるでしょう。20.たとえわたしたちの心が責められても、神はわたしたちの思いよりも大きく、すべてをご存知だからです。21.愛する者たちよ、わたしたちは自分の心が責められないなら、神に対して確信が持てます。22.わたしたちが求めるものはなんでも、神からいただくことができます。なぜなら、わたしたちは神の戒めを守り、神の御前に喜ぶことを行っているからです。23.神の戒めとはこれです。すなわち、わたしたちが、神の子イエス・キリストの名を信じること、またイエスがわたしたちに命じられたように、わたしたちも互いに愛し合うことです。24.神の戒めを守る者は神の内にとどまり、神もまたその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまっておられることは、神がわたしたちに賜った御霊よって知るのです。


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「自然の中で聴く聖書」ヨハネの手紙Ⅰ 3章1~12節
「自然の中で聴く聖書」ヨハネの手紙Ⅰ 3章13~24節
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καὶ ἐσμέν (1)「私たちは~です」、現在形が使用することにより、「わたしたちは(すでに)神の子どもたちです」という現在の状態を表している。ただし、原典では「すでに」に相当する言葉はない。

νῦν τέκνα θεοῦ ἐσμεν (2) νῦν (今)。「今(すでに)わたしたちは神の子どもたちです」は、1節のテキストにさらに νῦν(今)を加えることで「今すでに」というように1節より一歩進んで現在の「今」を強調するかたちになっていることに注意。




2014年1月13日月曜日

新約聖書原典「ヨハネの手紙第一」2章の翻訳(私訳)

ヨハネの手紙  

2章


1.わたしの子供たちよ、わたしがこれらのことをあなたがたに書いているのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。またもし誰かが罪を犯すなら、わたしたちには御父のそばに仲保者であられる義なるイエス・キリストがおられます。2.この方こそわたしたちの罪のための、いや、わたしたちの為ばかりでなく、全世界の罪の為の、贖いの犠牲なのです。
3.わたしたちが神の戒めを守るならば、そのことによってわたしたちが神を知っていることを知るのです。4.「神を知っている」と言う者が、神の戒めを守らないなら、その人は偽り者であって、その人の内には真理はありません。5.しかし神の言葉を守るなら、その人の内に神の愛がまさしく完成されているのであり、それによってわたしたちが神の内にいることが分かります。6.「神の内にとどまっている」と言う者は、イエスが歩まれたようにその人も同じように歩まねばなりません。
7.愛する者たちよ、わたしはあなたがたに新しい戒めを書いているのではなく、初めからあなたがたが持っていた昔からの戒めを書いているのです。この昔からの戒めとは、あなたがたがすでに聞いた言葉です。8.わたしはもう一度、新しい戒めをあなたがたに書いています。その戒めはイエスにとっても、あなたがたにとっても真実です。闇は過ぎ去り、真の光がすでに現われているからです。9.「光の内にいる」と言いながら、自分の兄弟を憎む者は、今もなお闇の内にいるのです。10.自分の兄弟を愛する者は、光の内にとどまっていて、その人の内にはつまずきがありません。11.しかし、自分の兄弟を憎む者は、闇の中にいて闇の中を歩いているのであって、その人は自分がどこに行くのかが分からないのです。闇がその人の目を見えないようにしているからです。
12.子供たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、イエスの名によってあなたがたの罪が(すでに)赦されているからです。13.父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが初めからおられる方を知っているからです。青年たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが悪に勝利しているからです。14.幼子たちよ、わたしがあなたがたに書いたのは、あなたがたが御父を知っているからです。父たちよ、わたしがあなたがたに書いたのは、あなたがたが初めからおられる方を知っているからです。青年たちよ、わたしがあなたがたに書いたのは、あなたがたが強くあって、神の言葉があなたがたの内にとどまり、悪に勝利しているからです。15.世と世にあるものを愛してはいけません。もし世を愛している者がいるなら、御父の愛はその人の内にはありません。16.世にあるものはすべて、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りであって、それは御父から出たものではなく、世から出たものだからです。17.世も世の欲も滅び去ります。しかし、神の御旨を行う人は、永遠に生きながらえます。
18.幼子たちよ、今は終わりの時です。あなたがたが、「反キリストが現われる」と聞いていたように、今、多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時だと分かります。19.彼らはわたしたちの中から出て行きましたが、わたしたちの仲間ではなかったのです。わたしたちの仲間であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたはずです。しかし、(出て行ったのは)彼らが皆、わたしたちの仲間ではないことが、はっきりするためだったのです。20.あなたがたには聖なる方からの油注ぎがあるので、みな(真理を)知っています。21.わたしがあなたがたに書いたのは、真理を知らないからではなく、むしろあなたがたが真理を知っていて、すべての偽りは真理から出たものではないことを知っているからです。22.偽り者とは、「イエスはキリストではない」と拒む者でなくて、いったい誰でしょう。御父と御子を否定する者、これこそが反キリストなのです。23.誰でも御子を否定する者は御父を持たず、御子を告白する者は御父をも持つのです。24.あなたがたは初めから聞いたことを、あなたがたの内に宿していなさい。もし、初めから聞いたことをあなたがたの内に宿すなら、あなたがたは、御子と御父の内にとどまるようになります。25.これこそが、御子がわたしたちに約束された約束、すなわち永遠の命なのです。26.わたしはあなたがたを惑わそうとしている人々について、これらのことを書きました。27.あなたがたには御子から頂いた注ぎ油が、その内に宿っていますから、誰からも教えを受ける必要はありません。ただ御子からの注ぎ油が全てのことをあなたがたに教えます。それは真実であって、偽りではありません。注ぎ油があなたがたに教えたように、あなたがたは御子の内にとどまりなさい。

28.さあ、子供たちよ、御子の内にとどまりなさい。それは御子が現われても確信を持つことができ、御子の来臨のとき御前で恥入ることがないためです。29.あなたがたが「彼は義である」と知っているなら、義を行う者はすべて彼から生まれていることを知っているのです。


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「自然の中で聴く聖書」ヨハネの手紙Ⅰ・2章1~11節
「自然の中で聴く聖書」ヨハネの手紙Ⅰ・2章12~21節
「自然の中で聴く聖書」ヨハネの手紙Ⅰ・2章22~29節
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  ★「子供たちよ」で始まる2章は、全体が呼びかけ形式の手紙となっている。「子供たちよ」「父たちよ」「青年たちよ(若者たちよ)」というくくりは、この集会における各世代層を表すものか、信仰の度合い(?)をあらわす象徴的呼びかけなのかは不明。ただ、7節の「愛するものたちよ」という総称的呼びかけも現われることから、集会に属するあらゆる階層への呼びかけであろう。度々現われる「わたしは書いている γράφω」は1~13節では現在形で現れるが、14節以下ではすべて「書いた ἔγραψα 」(過去形)で現れているのは、前半はヨハネが事実これを直筆で書いているのであり、そのリアルな思いを、これを読むことになるであろう諸教会の会衆と共有したいとの気持からであろう。後半は 数か月後にはこの手紙が届くことになる諸教会にこの手紙を書いた理由と、事実だけを簡単に報告したのである。  

μένω (宿る、とどまる) 2章全体で10回使用されている。2章の重要なキーワードと言える。「宿る」「とどまる」と訳す。 




2014年1月6日月曜日

新約聖書原典「ヨハネの手紙第一」1章の翻訳(私訳)

ヨハネの手紙 一 


1章


1初めからあったもの、わたしたちが聞いてきたもの、わたしたちの目で見てきたもの、わたしたちがよく見てわたしたちの手でさわったもの、すなわち命のことばについて。2.ーこの命が現わされました。わたしたちは見てきて証しし、その永遠の命をあなたがたに伝えるのです。この方は、父のみそばにおられましたが、わたしたちに現わされたのですー 3わたしたちが見てきたもの、聞いてきたものを、あなたがたにも伝えます。それは、あなたがたもまた、わたしたちとの交わりを持つためです。そして、わたしたちのこの交わりとは、父と、御子イエス・キリストとの交わりのことです。4わたしたちが、これらのことを書いているのは、それによって、わたしたちの喜びが満ち溢れるようになるためです。

5わたしたちがイエスから聞いていて、あなたがたに伝える知らせはこれです。すなわち神は光であって、その内には闇がひとつもありません。6もしわたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩くなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではありません。7もしわたしたちが、神が光の中におられるように、光の中を歩むなら、わたしたちは互いに交わりを持ち、御子イエスの血が全ての罪からわたしたちを清めるのです。8もしわたしたちが、自分には罪がないと言うなら、自分を欺いているのであって、真理はわたしたちの内にはありません。9もしわたしたちが、自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、わたしたちの罪を赦し、わたしたちを全ての不義から清めてくださいます。10もしわたしたちが、罪を犯したことがないと言うなら、わたしたちは神を偽り者としているのであって、神の言葉はわたしたちの内にはありません。


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「自然の中で聴く聖書」=新約聖書 / 前田滋彦 訳は下のリンクから聴けます。

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ヨハネの手紙の私訳を始めるにあたり、この手紙の書かれた背景や目的について若干の考察をしたいと思います。  


★Ⅰ.テキストの文学的類型

① 書簡  形式的には手紙ではない(差出人、受取人、出だし、結びの挨拶がない)が、内容的には、論文形式に近い手紙。

② 対象  小アジアの特定地域内の一群(数グループ)の諸集会に向けて書かれた公同書簡

③ 目的  読者の信仰と兄弟愛を強め、彼らを神との交わりの確かさの中に固くして、異端の教師(グノーシス思想家)の脅威から防ぎ守ることにある。

グノーシス的運動が教会発展のある段階でキリストに忠実な集会の中に入り込んできた。教会の告白するキリスト論を否定するもの。

Ⅱ.背景

  グノーシス思想―グノーシス思想家ケリントス(ヨハネと同時代の小アジアの思想家)によれば、その思想の特徴は、

  神は世を救うために霊的存在者キリストを世に遣わした。このキリストは、歴史的なイエスの中に、一時的に宿ったに過ぎない。つまり、イエスの洗礼において、霊なるキリストが肉なるキリストと結合したが、受難に先立って再びこれを離れて神のもとに帰ったというもの。



Ⅲ.著者

  ヨハネによる福音書の著者と同一人物。またヨハネの福音書を知っている(別の?)ヨハネという説もあるが、その文体の特徴から同一人物の可能性が高い。しかし、そのヨハネが使徒のヨハネだとする明確な証拠はなく(教会の伝承ではそう言われているが)、文中に使徒ヨハネを暗示するものは何もないことから、福音書を書いた使徒ヨハネを著者とすることに疑いを持つ人もいる。ただ、1:1,3で著者がイエスの生涯と活動を目の当たりに見たと告白していることから、歴史的同時代性はあると考えられる。ただ「私たちが見てきたもの、聞いてきたもの…」という表現は歴史的出来事の感覚的認識であると同時に、その動詞の使用方法(完了、三人称単数)から推察できることは、その歴史的出来事が、終末論的出来事としての福音の担い手にあずかっていることを強調しているのだとも考えられる(このことについてはブルトマンが1ヨハネ福音書注解の中でかなり詳しく述べている。P21~24)



Ⅳ.1~4の文体とヨハネによる福音書の類似

  ヨハネによる福音書1:1~の序文を参考にしている。

   ἀπʼ ἀρχῆς 「初めから」(1:1)―Ἐν ἀρχῇ「初めに」 (ヨハネ福音書1:1)。

  生命のことば(1:1)―ことばの内に生命があった(ヨハネ福音書1:4)

  父のそばにおられた(1:2)―はじめに神と共にあった(ヨハネ福音書1;2)

  私たちに現わされた(1:2)―ことばは世にあった(ヨハネ福音書1:10)

  神は光であり(1:5)―生命は人間を照らす光であった(ヨハネ福音書1:4)


「聞く」「見る」「触れる」対象としての「命のことば」。感覚的認識の対象であるところの「τοῦ λόγου τῆς ζωῆς —命のことば(男性)」はὃν(おかた) ではなく (もの)という中性の関係代名詞、単数、対格で表わされているのはなぜか。永遠の存在者であられる神(ὃν)が受肉されて、人となり、聞き、見、触れる、感覚的認識の対象()となられたことを表わす。

「私たち」という言葉は1~4節に10回登場する。「私たち」とは誰か?
「私たち」が聞き、見、触れた、ということから、史的イエスの目撃者、歴史上のイエスと直接交わって、イエスの証人となった一群の人々の代表者。として語っている。
しかし単に感覚的に認識した一群ではなく、先在のロゴスが人となったことを認めた一群であることは確かである。
しかし、「著者」のところでも述べたが、1節の「聞いた」「見た」は完了で表わされ、「よく見て、手でさわった」はアオリスト(不定過去)である。著者がこのように時制を使い分けているのは何故であろうか。完了は出来事が過去に終わっていて、その結果が現在に及んでいるから、次の様に解釈されうる。「私たちが聞いてきた(完了)もの、見てきた(完了)もの」の「私たち」とは、イエスにおいて起こった出来事(史的出来事)を、信仰的出来事として受け止め、今や福音の担い手として、歴史の中に立つ人々のことである。事実この手紙が書かれた頃1世紀の終わりごろ、歴史的イエスを感覚的に認識した人々のほとんどは生存していないと思われるからである。

1:3 3節は1節の不完全さ、つまりこの手紙の直接の目的をまず明らかにし、完結する。それは「あなた方にもまた伝える」ことであり、その最終目的は「私たちとの交わりを持つため」である。この命題にはグノーシスなる偽教師たちの存在と、それによる集会の緊迫感が想定されている。偽教師たちの異端の脅威から信仰を守るには、「わたしたちの交わり」である信仰の最初の証人たちの正統な伝承のつながりの中にいるのが安全なのであり、その安全性はその交わりが「父と、また御子イエスキリストとの交わり」にあるからである。

1:4 普通、手紙の挨拶文の締めとして、「あなたがたに喜びがあるように」と読み手の側の願いを代筆するのが普通であるが、「わたしたちの喜びが満ち溢れるように」との願いは不自然さが残るが、「わたしたちとの交わり」を持てたらどんなにか喜ばしいことだろうという著者の願いの表れとすれば、そのほうがより自然かもしれない。