2017年4月28日金曜日

新約聖書原典「ヘブライの人々への手紙」9章の翻訳(私訳)

ヘブライの人々への手紙 

9章


1.さて、はじめの契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。2.すなわち、第一の幕屋が設けられ、その中には、燭台と机と供えのパンが置かれていました。この幕屋は聖所と呼ばれていました。3.第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋があり、4.金の香壇と、全面が金で覆われた契約の箱がありました。その箱の中には、マナを入れた金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の石の板(二枚)が入っていました。5.その契約の箱の上では、輝くケルビムが贖罪所を覆っていました。これらのことについては、今は詳しく述べることはできません。6.このように、これらのものが整えられて、祭司たちは礼拝をなし遂げるために、いつも第一の幕屋に入って行きます。7.しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身と民の無知の罪のために、血を携えないで入ることはありません。8.このことによって聖霊は、最初の幕屋がまだ存続するかぎり、(真の)聖所に至る道はまだ明らかにされていないことをはっきりと示しています。9.この(最初の)幕屋というのは、今の時代に対する比喩です。幕屋については、供え物や犠牲がささげられても、礼拝する者の良心を完全にすることはできません。10.それらは、ただ、食物と飲み物と種々の洗いごとに関するものであって、改革の時まで課せられる肉の規定にすぎません。
11.しかし、キリストは、すでに実現したすぐれた大祭司として来られたとき、人の手によらない、すなわち、この世の被造物ではない、更に偉大で、更に完全な幕屋を通り、12.雄山羊や子牛の血によってではなく、ご自身の血によって、一度だけ聖所に入られ、永遠の贖いを実現されたのです。13.というのは、雄山羊や雄牛の血、また若い雌牛の灰が、けがれた者たちに振りかけられ、彼らの身を清めて聖とするのであれば、14.まして、永遠の御霊によって、ご自身を神への傷のないささげものとされたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心を死んだ行いから清めて、わたしたちを生ける神に仕えるようにさせることでしょう。
15.こういうわけで、キリストは新しい契約の仲保者なのです。それは、彼が、初めの契約のもとで違反した者たちを贖おうとして死なれたことによって、召された人々が、約束された永遠の相続財産を受け取ることができるようになるためなのです。
16.というのは、遺言の場合には、遺言者の死を告知することが必要です。17.なぜなら、遺言は、死によってそれが有効となりますから、遺言者が生きている間は効力がありません。18.ですから、初めの契約も、血(が流されること)なしに成立したのではありません。19.というのは、モーセによって、律法に従ってすべての戒めが民全体に語られたとき、彼は、子牛[と雄山羊]の血を取り、水と緋色の羊の毛とヒソプをもって、契約の書自体と民全体にふりかけ、
20.『これは、神があなたがたに対して制定なさった契約の血である』
と言いました。
21.また、幕屋と祭司の務めに用いるすべての器具にも、同様に血をふりかけました。22.こうして、ほとんどすべての物が、律法に従って血によって清められるのです。血を流すことなしに、罪の赦しは実現されないのです。

23.ですから、天にあるもののひな型は、これらのものによって清められる必要がありますが、天にあるもの自体は、これらのものよりはるかに優った犠牲によって清められる必要があります。24.すなわち、キリストは本当のものの模型にすぎない手で造った聖所に入らないで、天そのものに入り、今やわたしたちのために、神の御前に現れてくださったのです。25.大祭司は自分のものではない血を携えて毎年、聖所に入って行きますが、キリストはそれと同じように、ご自身をささげるために何度も入って行かれるのではありません。26.もしそうだとすると、世が始まってから、彼は何度も苦しまなければならなかったでしょう。しかし、実際には、世の終わりに一度だけご自身を犠牲にすることにより、罪を無効とするために現れてくださったのです。27.また、一度だけ死ぬことと、その後、裁きがあることが人類に定まっているように、28.キリストもまた、多くの人々の罪を負うために一度だけ(ご自身を)犠牲としてささげ、二度目には、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々に救いを与えるために現れてくださるのです。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ὑπεράνω δὲ αὐτῆς Χερουβὶν δόξης κατασκιάζοντα τὸ ἱλαστήριον·  (95)

『その契約の箱の上では、輝くケルビムが贖罪所を覆っていました。』
 κατασκιάζοντα (カタスキアゾンタ)は、ケルビムが「影を落とす」「影で覆う」という意味。ケルビムの発する栄光が、覆うつばさによって影を落としている、という意味。




2017年4月25日火曜日

新約聖書原典「ヘブライの人々への手紙」8章の翻訳(私訳)

ヘブライの人々への手紙 

8章


1.いま述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司がおられ、このかたが、天に於いて大能者の御座の右に座し、2.聖所、すなわち、人によってではなく、主が据えられた真の幕屋で仕えておられるということです。3.すべて大祭司は、供え物や犠牲をささげるために任命されています。ですから、この大祭司も、何かささげる物を持っている必要があります。4.そこで、もしこの方が地上におられたなら、律法にそって供え物をささげる祭司たちが現にいるわけですから、彼は祭司ではなかったはずです。5.モーセが幕屋を建てようとした時、御告げを受け、『山であなたに示した型に従って、すべてを注意して造りなさい』と言われたように、これらの祭司たちは、天上にあるもののひな型と影とに仕えているにすぎません。6.しかし、今や、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優った奉仕を得ておられます。それは、彼がより優った約束に基づいて制定された、より優った契約の仲保者だからです。
7.もし、はじめの契約が欠点のないものであったなら、後の契約が求められる余地はなかったはずです。8.事実、神は彼らを責めてこう言っておられます。
『主が言われる。見よ、
わたしがイスラエルの家、またユダの家と
新しい契約を結ぶ日が来る。
9.それは、わたしが彼らの手を取って、
エジプトの地から導き出した日に、
彼らの先祖たちと結んだ契約のようなものではない。
彼らがわたしの契約にとどまらなかったので、
わたしも彼らのことを顧みなかったからである、
と主は言われる。
10.それらの日の後、わたしがイスラエルの家と結ぼうとしている契約はこれである、
と主は言われる。
わたしの諸律法を、彼らの思いの中に授け、
彼らの心にそれらを書き記そう。
こうして、わたしは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となるであろう。
11.また、彼らはそれぞれ自分の同胞に対し、
また、それぞれ自分の兄弟に対し、
主を知れ、と言って教えることは決してしない。
彼らの中の小さな者から大きな者まで、
皆がわたしを知るようになるからである。
12.わたしは彼らのさまざまな不義に赦しを示し、
もう決して、彼らの数々の罪を思い出さない。』

13.神は、(後の契約を)「新しい」と言うことによって、前の契約を「古い」とされたのです。年を経て古くなったものは、やがては消えていくのです。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



2017年4月21日金曜日

新約聖書原典「ヘブライの人々への手紙」7章の翻訳(私訳)

ヘブライの人々への手紙 

7章


1.このメルキゼデクはサレムの王、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎えて祝福し、2.アブラハムは彼に、すべてのものの十分の一を分け与えました。(メルキゼデクの)意味は、第一に「義の王」、次に「サレムの王」すなわち「平和の王」です。3.彼には父も母もなく、系図もなく、生涯の始めも終わりもなく、神の子に似た者とされて、いつまでも祭司にとどまっているのです。
4.族長アブラハムが、戦利品の最良の物の中から十分の一をこの人に与えたのですから、この人がいかに偉大であったか、あなたがたにわかるはずです。5.レビの子たちの中から、祭司の務めにあずかる者たちは、彼らの兄弟である民から、同じアブラハムの腰から出たにもかかわらず、十分の一を取り立てるよう、律法に基づいて命じられています。6.しかし、彼らの血統に属さない者が、アブラハムから十分の一を受け取り、約束を得ている者を祝福したのです。7.言うまでもなく、より小さき者がより大いなる者から祝福を受けているのです。8.ここで、一方では、死ぬべき人間が十分の一を受けており、他方では、「生きている」と証しされる者が受けているのです。9.言わば、十分の一を受け取るはずのレビさえも、アブラハムを通して十分の一を納めたことになるのです。10.なぜなら、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたとき、レビはまだこの父祖の腰の中にいたからです。
11.では、もし、レビ族の祭司制度によって(人が)完全に到達することが出来ていたとすればーというのは、民は祭司制度に基づいて律法が与えられていたからですーなぜ、「アロンの位に等しい」と呼ばれない、「メルキゼデクの位に等しい」別の祭司を立てる必要があったのでしょうか。12.祭司制度が変更される必要があるなら、律法も変更される必要があります。13.わたしたちがこう論じている方は、だれも祭壇に仕えたことのない他の部族に属しておられます。14.というのは、わたしたちの主が、ユダ族出身であることは明らかだからです。モーセはこの部族に関して、祭司については何も述べていないのです。15.これは、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられることによって、なおいっそう明らかとなります。16.この方は、肉の戒めの律法によらないで、朽ちることのない生ける力によって存在しておられます。17.『あなたこそは、永遠にメルキゼデクの位に等しい祭司』と証しされているからです。18.一方で、先の戒めは、その弱さと無益さのゆえに廃止となっていますが、19.―律法はだれ一人をも完全にしなかったからですー他方では、わたしたちが神に近づくことのできる、さらに優った希望がもたらされているのです。
20.これは、誓いによらないで行われたのではありません。というのは、(レビの場合)人々は、誓いによらないで祭司となりましたが、21.このかたの場合は、彼に対して次のように言って、誓いをもって祭司となられました。
『主は誓って、心を翻されることはない。
あなたこそは永遠に祭司である。』
22.このようにして、イエスはより優れた契約の保証となられたのです。23.また、(レビの場合)には死によって、祭司の務めを続けることがはばまれるので、多くの人々が祭司となりますが、24.イエスの場合は、永遠にいますかたなので、変わらない祭司職を持っておられます。25.ですから、彼はいつも生きていて彼らのために執り成しておられるので、ご自分を通して神のもとに来る人々を完全に救うことがおできになるのです。

26.このように、きよく、純真で、汚れなく、罪人たちから区別され、もろもろの天よりも高くされた大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしい方です。27.彼は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のために、次に民の罪のために、犠牲を毎日ささげる必要はありません。なぜなら、ご自身を一度だけささげて、これを行われたからです。28.律法は、弱さを持つ人間を立てて大祭司としますが、律法の後の誓いをもってなされた御言葉は、永遠に完全な者とされた御子を立てて大祭司としたのです。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



2017年4月12日水曜日

新約聖書原典「ヘブライの人々への手紙」6章の翻訳(私訳)

ヘブライの人々への手紙 

6章


1.そういうわけですから、わたしたちは、キリストの教えの初歩をあとにして、完成に向かって進もうではありませんか。死んだ行いからの悔い改め、神への信仰、2.浸礼や手を置くことなどに関する教え、死者たちの復活と永遠の裁きなどの基本的なことがらを、再び繰り返すのをやめようではありませんか。3.神がお許しになるなら、そうしよう。
4.ひとたび光を受けて、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者とせられ、5.神の良き言葉と、来たらんとする世界の力とを経験した者たちが、6.(その後)再び堕落した場合は、神の子を自分たちでまた十字架につけてさらしものにするのですから、再び悔い改めて元の状態に戻ることはできません。7.地が、度々その上に降る雨を吸い込み、それによって耕す人々のために役立つ作物を生み出すなら、神からの祝福にあずかります。8.しかし、地が、いばらやあざみを生えさせるなら、それは無用のものとなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。
9.しかし、愛する人々よ、こう言っていても、わたしたちは、あなたがたについては、さらに優ったこと、すなわち救いがあると確信しています。10.神は不誠実な方ではないので、あなたがたの働きと、あなたがたが聖徒たちにこれまで仕え、また今も仕え続けている神の御名のために示した愛をお忘れになることはありません。11.わたしたちは、あなたがた一人ひとりが最後まで望みを満たし続けるために、その同じ熱心さを示し、12.怠け者とならず、信仰と忍耐とによって約束のものを受け継ぐ人々に見習う者となるようにと切に望んでいます。
13.神がアブラハムに約束されたとき、誓いを立てるのに、ご自身より大いなる者がいなかったので、ご自身を指して誓って、
14.『わたしは必ずあなたを豊かに祝福し、
必ずあなたの子孫を大いに増やす』

と言われました。15.このようにして、アブラハムは忍耐強く待ったので、約束のものを受けたのです。16.人は、自分より偉大なものを指して誓います。そして、その誓いは、あらゆる反対論を終わらせ、確信を持つに至らせます。17.神は、約束を受け継ぐ人々に、その計画が変わらないことをいっそうはっきり示したいと望まれ、誓いによって保証されたのです。18.それは二つの不変の事がらによって、―その二つの事において、神は偽ることがお出来になりません― 前に置かれている望みを捕らえようと(世を)逃れて来たわたしたちが、力強い慰めを得るためです。19.わたしたちが持っているこの望みは、たましいを安定させ、不動のものとするいわば錨のようなものであって、垂れ幕の内側に入り行かせるものです。20.その場所に、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられたイエスが、先駆者としてわたしたちのために入られたのです。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★「再び繰り返すのをやめようではありませんか」(2)
  繰り返す⇒「基礎を据える」の意味がある。

★「垂れ幕の内側」(19)τὸ ἐσώτερον τοῦ καταπετάσματος
  この垂れ幕(καταπετάσμα)は①聖所と至聖所の間を隔てている幕、②聖所の入口にある幕、の両者に適用可能であるが、ヘブライ9:3では①の幕を「第二の幕」という言い方で区別していることから、ここでは②の聖所の入口にある幕と解釈するのが正しいようである。




2017年4月8日土曜日

新約聖書原典「ヘブライの人々への手紙」5章の翻訳(私訳)

ヘブライの人々への手紙 

5章


1.大祭司はみな、人々の中から選ばれ、罪のための供え物や犠牲をささげるために、人々に代わって神に仕える務めに任命されています。2.彼自身も弱さを身に負っているので、間違って罪を犯す人々や、さ迷っている人々を思いやることができるのです。3.その弱さのゆえに、彼は、民のためにするのと同じように、自分自身のためにも、罪のための捧げものをしなければならないのです。4.また、だれもこの栄誉ある務めを自分で得るのではなく、アロンの場合と同じように、神によって召しを受けるのです。
5.このように、キリストも、大祭司となる栄誉を自分で得たのではなく、
『あなたはわたしの子、
今日、わたしはあなたを生んだ』
と、彼に言われたかたが、それをお与えになったのです。
6.また、ほかの箇所でもこのように言われています。
『あなたは永遠に、
メルキゼデクの位に等しい祭司』
7.キリストは、その地上の生活の間は、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力あるかたに祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられたのです。8.彼は御子であるにもかかわらず、そのさまざまな苦しい経験によって従順を学び、9.完全な者とされたので、彼に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、10.神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司と呼ばれたのです。

11.このことについては、言うべきことが沢山ありますが、(あなたがたの)耳が鈍くなっているので説明するのが困難です。12.なぜなら、あなたがたは長い間、教師でいるべきはずなのに、もう一度だれかに、神の言葉の初歩を教えてもらう必要があるからです。あなたがたには固い食べものではなく、乳が必要となっているのです。13.乳を飲んでいる者はすべて、義の言葉を味わうことができません。彼はまだ幼児なのですから。14.固い食物は、善悪を判別する判断力を経験によって身につけた、充分に成長した者たちのものなのです。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
2節別訳「無知な人々や、誤りを犯す人々」
「思いやる」(メトリオパテェオー)には、自分が傷つけられた時にも、
感情を抑えて、怒りを爆発させないようにする意が込められている。

メルキゼデクの位に等しい祭司⇒メルキゼデクの職務に基づく祭司(6)



2017年4月4日火曜日

新約聖書原典「ヘブライの人々への手紙」4章の翻訳(私訳)


ヘブライの人々への手紙 

4章


1.それですから、神の安息に入る約束がまだ残されているにもかかわらず、それを取り逃したと思える者があなたがたの中から誰も出ないように、わたしたちは畏れかしこみましょう。2.というのは、わたしたちも、かの人々と同じように福音が告げ知らされている者たちだからです。しかし、聞いた言葉は、かの人々には役に立ちませんでした。聞いた彼らと信仰とが結び付かなかったからです。3.もちろん、わたしたち信じた者たちは、[その]安息に入ることができます。
『それゆえ、わたしは怒って、
彼らがわたしの安息に入ることは、決してないと誓った』
と言われているとおりです。とは言え、御業は、世界の基礎が据えられた時から成立していました。4.というのは、第七日目について、(聖書の)ある個所で、『神は第七日目に、そのすべてのわざを終えて休まれた』と、このように言われており、5.また、ここでも再び、『彼らがわたしの安息に入ることは、決してない』と言われているのです。6.そこで、もしそうであれば、ある人々には、安息に入る機会が残されているわけです。最初に福音を告げ知らされた人々は、不従順のために入れなかったのです。7.それで、もう一度、神は、ある日を「今日」と定め、かなりの長い時を経て、先にも言ったように、
『今日、神の御声を聞いたなら、
あなたがたの心をかたくなにしてはならない』
と、ダヴィデによって言われたのです。
8.もし、ヨシュアが彼等に安息を与えたとすれば、神は後になって、それ以外の日について語られたはずはありません。9.それゆえに、安息日の休みが神の民に残されているのです。10.なぜなら、神の安息に入った者は、神がその業を終えて休まれたように、彼も自分の業を終えて休んだのでした。11.ですから、わたしたちは、その安息に入るように努力しようではありませんか。そうでないと、同じ不従順の例にならって、落ちて行く者が出るかもしれないのです。12.神の言葉は生きていて力があり、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄をも切り離すまでに刺し通し、心の思いと考えを見抜くのです。13.また、神の御前に見えない被造物は何もなく、すべてのものは神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは弁明をしなければなりません。

14.こういうわけで、わたしたちには、もろもろの天を通って行かれた大いなる大祭司、神の子イエスがおられるのですから、わたしたちが告白する信仰をしっかり保とうではありませんか。15.わたしたちのためにおられる大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪以外は、すべてに於いて、わたしたちと同じように試練にあわれたのです。16.ですから、わたしたちは、憐れみと恵みを受け、時宜にかなった助けを獲得するために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ἄρα ἀπολείπεται σαββατισμὸς τῷ λαῷ τοῦ θεοῦ.(9)
『それゆえに、安息日の休みが神の民に残されている』

σαββατισμὸς (サバティスモス)は「安息日の休み」「安息日を守ること」の意。
その他、4章の「安息」と訳される原語はすべてκατάπαυσίν(カタパウシン)で、
解説は3章11節を参照。


新約聖書原典「ヘブライの人々への手紙」3章の翻訳(私訳)

ヘブライの人々への手紙 

3章


1.それですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ、わたしたちが告白する使者であり、また大祭司であられるイエスのことをよく考えなさい。2.モーセが神の家の[全体]において忠実であったように、彼は、ご自分を任命された方に忠実であられました。3.家を建てた人が、家そのものよりもさらに大きな栄誉を受けるように、彼はモーセよりさらに大きな栄光を受けるにふさわしいものとされたのです。4.すべて、家はだれかによって建てられます。しかし、すべてのものを建てられた方は神です。5.モーセは、将来、語られることになっていることを証しするために、仕える者として、神の家全体において忠実でありましたが、6.キリストは、子として、神の家に忠実であられました。もし、わたしたちが、望みの確信と誇りをしっかりと持ち続け[さえ]するなら、わたしたちは神の家なのです。
7.ですから、聖霊がこう言っているとおりです。
『もし、今日、あなたがたが御声を聞いたなら、
8.荒野における試練の日に、
反抗した時のように、
あなたがたの心を、かたくなにしてはならない。
9.あなたがたの先祖たちは
その荒野で(わたしを)試み、ためし、
四十年の間、わたしの業を見た。
10.それゆえ、わたしはこの時代の人々に対して憤って言った。
彼らはいつも心が迷わされ、
彼らはわたしの道を悟らなかった。
11.それゆえ、わたしは怒って、
彼らがわたしの安息に入ることは、決してないと誓った。』
12.兄弟たちよ、あなたがたのうちの誰も、不信仰な悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまうことがないように注意しなさい。13.むしろ、あなたがたのうちの誰も、罪のだましごとによってかたくなにならないよう、「今日」という内に、日々、互いに励まし合いなさい。14.もしほんとうに、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストに共にあずかる者となるからです。15.それについては、こう言われています。
『今日、あなたがたが、神の御声を聞いたなら、
反抗した時のように、
あなたがたの心を、かたくなにしてはならない。』

16.ではいったい、聞いたのに反抗したのは誰でしょうか。モーセに率いられてエジプトを出た全ての人々ではなかったでしょうか。17.では、神は、誰に対して四十年の間、憤られたのでしょうか。罪を犯して、それらの死体を荒野にさらした者たちに対してではなかったでしょうか。18.では、だれに対して、ご自分の安息に入らせることはしないと、誓われたのでしょうか。従わなかった者たちに対してではなかったでしょうか。19.こうして、彼らが(安息に)入ることができなかったのは、不信仰のためであったということがわかります。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

★『休息』κατάπαυσίν(11)
κατάπαυσίνは、安息、休息の意。11節は申命記12:9からの引用。申命記のこの箇所でもκατάπαυσίν(七十人訳)が使われているが、そこでは口語訳は「安息の地」、新共同訳は「安住の地」と訳している。この「安息」という言葉は、カナン定住によってイスラエルの民が得られることになっていた休息を意味したからである。