2016年10月26日水曜日

新約聖書原典「ローマの人々への手紙」10章の翻訳(私訳)

ローマの人々への手 

10章


1.兄弟たちよ、わたしの心の願い、わたしが彼らのために神にささげる祈りは、彼らが救われるようにということです。2.わたしは、彼らが神に熱心なことは証ししますが、それは(正しい)知識によるものではありません。3.なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の[義を]立てようと求め、神の義に従わなかったからです。4.なぜならキリストは、信じるすべての人に義をもたらすための、律法の完成だからです。
5.モーセは律法による義について、『それらの定めを行う人は、それらの定めによって生きるであろう』と書いています。6.しかし、信仰による義について、彼はこのように言っています。『あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはならない』。それは、キリストを引き下ろすことになります。7.また、「だれが底なしの淵に下るだろうか」と言ってはならない。それは、キリストを死者たちの中から引き上げることになります。8.では、どう言っているでしょうか。『言葉はあなたの近くにあり、あなたの口に、また、あなたの心にある』。これが、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。9.すなわち、あなたの口で、イエスを主と告白し、あなたの心で、神はイエスを死者たちの中から復活させたと信じるなら、あなたは救われます。10.と言うのは、人は、心で信じて義とされ、口で告白して救われるからです。11.聖書はこう言っているからです。『すべて、彼を信じる者は恥をかかせられることはない』。12.ユダヤ人もギリシア人も、違いはありません。同じ主が、すべての者の主であり、彼を呼び求めるすべての者たちに対して恵み深い主です。13.『主の名を呼び求める者はすべて救われる』からです。
14.では、信じたことのない方を、どのようにして人々は呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして人々は信じるのでしょうか。宣べ伝えないで、どのようにして人々は聞くのでしょうか。15.遣わされないで、どのようにして人々は宣べ伝えるのでしょうか。『良き福音を宣べ伝える者たちの足は、なんと美しいことだろう』と書かれているとおりです。16.しかし、すべての人々が福音に従ったのではありません。イザヤは言っています。『主よ、だれがわたしたちの聞いていることを信じましたか』と。17.ですから、信仰は聞くことによってであり、聞くことはキリストの言葉を通してです。18.しかし、わたしは言います。彼らは聞かなかったのでしょうか。否、それどころか、
『彼らの声は全地に響き渡り、
彼らの言葉は世界の果てにまで及ぶ。』
19.しかし、わたしは言います。イスラエルは知らなかったのでしょうか。先に、モーセはこう言っています。
『わたしは、民でない者のことで、
あなたがたにねたみを起こさせ、
物分かりの悪い民のことで、
あなたがたを怒らせる。』
20.また、イザヤは大胆にもこう言っています。
『わたしは、わたしを探していない者たちに[よって]見い出され、
わたしを尋ね求めなかった者たちに自分を現わした。』
21.しかし、イスラエルに対してはこう言っています。
『わたしは不従順で反抗する民に、

一日中、わたしの手を差し伸べた』と。



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★「キリストは、信じるすべての人に義をもたらすための、律法の完成だからです」(4)

「律法の完成だからです」と訳せるギリシア語は τέλος γὰρ νόμου である。 τέλος は「終わり」をも意味する言葉で、翻訳によっては「律法の終わり」とも訳し得る(口語訳、新改訳など)。しかし、同時に、成就、完了、完成、目標、目的なども意味する。口語訳が「律法の終わり」と訳したことによって、これまで多くの混乱が生まれてきた。それは、「終わり」と訳したことと同時に、「律法」をモーセの十戒を含め広い意味に解釈したことによると考えられる。ここに誤解や混乱の原因がある。ここでパウロが考えている律法とは、5節でパウロが旧約聖書レビ記18章5節から引用しているように、『あなたがたはわたしの定めとわたしのおきてを守らなければならない。もし人が、これを行うならば、これによって生きるであろう。わたしは主である』との言葉から推測できる。それはレビ記に記された礼典律法、民事律法である。レビ記18章5節で「定め」と訳されている七十人訳ギリシア語聖書の原語はπροστάγματά で、新約聖書では動詞の形で、命令する、定める、などと訳している。「おきて」と訳されている七十人訳ギリシア語はκρίματά で、定め、裁き、罰、と訳される言葉である。両者とも中性名詞、複数であって、このことは、律法をモーセの十戒を含む広い意味で言っているのではなく、礼典律法、民事律法の個々の決まりごとについて語っているものとも解釈できる。そういう意味での「律法の終わり」と訳すこともこれまた正しいことである。
 しかし、他方では、3節に「彼らは神の義を知らないで、自分の[義を]立てようと求め」とあるように、パウロの論点は、個々の律法について語っているのではなく、「律法」をこれまで自己義認の手段として用いてきたことを批判し、義認の手段として律法を用いることの愚かさに対し、キリストは「信じるすべての人に義をもたらすため」(4)義の手段としての律法に「終わり」を宣言され、キリストこそご自分の死によって律法を「完成(成就)」されたのだと解釈するほうが、ローマ書の文脈上正しいように思われる。本訳ではその解釈を採用した。いずれにしてもここでは、律法が廃されたという、いわゆる律法廃止論をパウロが論じているのではないことだけは確かである。

★「それらの定めを行なう人は、それらの定めによって生きるであろう」(5)

レビ記18:5後半の部分の引用。実際には「定め」という言葉は原語にはなく、直訳すれば、「それらを行う人は、それらによって生きるであろう」である。ここの部分はレビ18:5の前半との関係で読む必要があることは上記で述べた通りである。


         
              ローマ古代遺跡 筆者撮影

2016年10月20日木曜日

新約聖書原典「ローマの人々への手紙」9章の翻訳(私訳)

ローマの人々への手紙 

9章


1.キリストにあって、わたしは真実を語り、偽りを言いません。聖霊によって、わたしの良心もわたしに証ししていることですが、2.わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。3.というのは、このわたし自身は、肉によるわたしの同族の兄弟たちのためなら、キリストから離されて、呪われた者となることさえ願っていたのです。4.彼らはイスラエル人です。彼らの、子となる身分も、栄光も、種々の契約も、律法を与えられたのも、神への礼拝も、種々の約束も、5.父祖たちも、彼らに属するものであり、肉によれば、キリストも彼らから出られたのです。このキリストは万物の上におられ、永遠にほめ讃えられるべき神です。アーメン。
6.しかし、神の言葉が効力を失ったというわけでは決してありません。というのは、イスラエルから出た人々がみなイスラエル人なのではなく、7.また、アブラハムの子孫がみな(アブラハムの)子なのではないからです。むしろ、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる』。8.このことはすなわち、肉による子たちが、そのまま神の子なのではなく、むしろ、約束による子たちが子孫と見なされるのです。9.約束の言葉はこうです。『来年の今頃、わたしは来ます。そして、サラにはひとりの男の子がいるでしょう』。
10.それだけではなく、リベカが、一人の人、すなわち、わたしたちの父イサクによって身ごもったときも、11.まだ子供たちが生まれてもおらず、良いことも悪いことも何も行っていないのに、神の選びによる計画が続くよう、12.行いによらず、召しによって、『兄は弟に仕えるであろう』と、彼女に言われたのです。13.『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書かれているとおりです。
14.では、何と言いましょうか。神の側に不正があるのでしょうか。決してそうではありません。15.神はモーセに、『わたしは、憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとする者を慈しむ』と言われました。16.ですから、これは(人の)意志や努力によるのではなく、神の憐れみによるのです。17.聖書はファラオについて、『わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を示すため、また、わたしの名が全地に告げ知られるようになるためである』と言っています。18.それゆえに、神は憐れもうと思う者を憐れみ、かたくなにしようと思う者をかたくなにされるのです。
19.そこで、あなたはわたしに言うでしょう。「[では]なぜ、神は、なおも(人を)責められるのか。神の意志に、だれが逆らい得ようか」と。20.人よ、いや、むしろ、神に言い逆らうあなたは、いったい何者ですか。かたち造られたものが造った者に対し、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。21.それとも、陶器師は、同じ粘土の塊から、一つは尊い器に、また一つは粗末な器に造る権利を持たないのでしょうか。22.神が怒りを表して、その力を知らせようとされるとき、滅びることになっている怒りの器を、大いなる忍耐をもって忍ばれ、23.かつ、栄光にあずからせるため、あらかじめ用意された憐れみの器に、ご自分の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうでしょうか。24.神は、彼らを、またわたしたちを、ユダヤ人たちの中からだけでなく、異邦人たちの中からも召し出してくださったのです。25.ホセアによって言われているように。
『わたしは、わたしの民でない者を、
わたしの民と呼び、
愛されていなかった者を、
愛されている者と呼ぶであろう。
26.彼らは、“あなたがたは、わたしの民ではない”と言われた場所にいて、その所で、生ける神の子たちと呼ばれるであろう。』
27.また、イザヤはイスラエルのために叫んでいます。
『たとえ、イスラエルの子らの数が、
海の砂のようであっても、
残された者が救われるであろう。
28.主はみ言葉を成就するために、
速やかに地の上に行われるであろう。』
29.また、イザヤが以前に言っていたとおりです。
『万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったなら、
わたしたちはソドムのように、
またゴモラのようになっていたであろう。』
30.では何と言いましょうか。義を追い求めなかった異邦人は義、しかも信仰による義を得ました。31.しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、律法(の要求)には達しませんでした。32.なぜでしょうか。信仰によらないで、行いによって達せられるかのように(追い求めていたからです)。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。33.こう書かれているとおりです。

『見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、つまずきの岩を置く。主に信頼する者は、失望させられないであろう。』



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●「自然の中で聴く聖書」ローマの人々への手紙 9章



キリストから離されて、呪われた者となることさえ願っていたのです。(3)
 
「願っていたのです」の動詞は未完了過去形で、過去の継続を表す。そうだとすると、過去にそう願っていた時期もあったという意味に解釈するほうが良いかもしれない。したがって、これが直ちに、「現在の」(この手紙を書いている時の)パウロの気持ちであるというような結論を出すことはできない。


★「神の選びのための計画が続くように」(11)
 ἵνα ἡ κατʼ ἐκλογὴν πρόθεσις τοῦ θεοῦ μένῃ
 
「選びのための計画」と訳する κατʼ ἐκλογὴν πρόθεσιςκατάをどう訳すかで変わり、「選びの計画」「選びによる計画」、いずれにも訳せる。要は、神のイスラエルを選ばれたのは、『神の選び』の故のものであったし、その神の選びによって神の計画は動いてきたということである。その神の選びの基準はどこにあるのか。その答えは、神がモーセに言われた次の言葉にすべて言い表されている。わたしは、憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとする者を慈しむ』(15)『ですから、これは(人の)意志や努力によるのではなく、神の憐れみによるのです』(16)




          古代ローマ遺跡:チルコ・マッシモ。戦車競技場。筆者撮影

2016年10月17日月曜日

新約聖書原典「ローマの人々への手紙」8章の翻訳(私訳)

ローマの人々への手紙 

8章


1.それゆえに、今や、キリスト・イエスにある者たちは、罪に定められることはありません。2.なぜなら、キリスト・イエスにある命の御霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放したからです。3.というのは、律法が肉のゆえに弱くなっていたため出来なかったことを、神はしてくださいました。すなわち、ご自分の御子を罪の肉の有様で罪のために遣わし、肉において罪を断罪なされたのです。4.それは、律法の要求が、肉に従わず霊に従って歩むわたしたちに満たされるためなのです。5.肉に従って生きている人々は肉のことを考えますが、霊に従って生きている人々は霊のことを考えます。6.肉の思いは死ですが、霊の思いは命と平安です。7.なぜなら、肉の思いは神に敵対し、神の律法に従わないし、また従うことができないからです。8.また、肉によって生きている人々は、神を喜ばすことはできません。9.しかし、もしほんとうに、神の霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉の支配のもとにあるのではなく、霊の支配のもとにあるのです。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではありません。10.もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、体は罪によって死んでいても、霊は義によって生きているのです。11.もし、イエスを死者たちの中から復活させた方の霊があなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者たちの中から復活させた方は、あなたがたの死ぬべき体をも、あなたがたの内に宿る方の霊によって生かしてくださるでしょう。
12.それですから、兄弟たちよ、わたしたちは義務を負う者ですが、肉に従って生きる義務を肉に対して負っているのではありません。13.あなたがたが肉に従って生きるなら、あなたがたはただ死ぬだけです。しかし、霊によって体の働きを殺すなら、あなたがたは生きるでしょう。14.神の霊に導かれている人々はだれでも、神の子です。15.あなたがたは、再び恐れに至る奴隷の霊を受けたのではなく、子となる霊を受けたのであって、それによってわたしたちは「アッバ、父よ」と呼ぶのです。16.この霊こそが、わたしたちの霊と共に、『わたしたちは神の子である』と証ししているのです。17.もし、子であれば、相続人でもあります。もしほんとうに、わたしたちがキリストと共に栄光にあずかるため、キリストと苦しみを共にしているなら、わたしたちは神の相続人であり、キリストの共同の相続人でもあります。
18.今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現わされようとする栄光に比べると、取るに足らないとわたしたちは思います。19.被造物は、神の子たちの現れるのを切実な思いで待ち望んでいます。20.被造物が虚無に服従したのは、自らの意思ではなく、服従させた方の意思によるのであり、希望のためです。21.すなわち、被造物自身も、やがて滅びの奴隷状態から解放され、神の子たちの栄光の自由を与えられるでしょう。22.わたしたちは、すべての被造物が、今まで共にうめき、共に産みの苦しみをして来たことを知っています。23.それだけでなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、自分の内でうめき、子の身分を授けられること、すなわち、わたしたちの体が贖われるのをひたすら待ち望んでいます。24.この希望によって、わたしたちは救われたからです。しかし、目に見える希望は希望ではありません。目に見ているものを、だれが望むでしょうか。25.わたしたちがもし、見えないものを望んでいるのなら、わたしたちは忍耐してひたすら待ち望みます。
26.御霊も同じように、わたしたちの弱さを助けてくださいます。というのは、わたしたちはどう祈るべきかわかりませんが、御霊ご自身が言葉で言い表せないうめきをもって執り成してくださるからです。27.心を探られる方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。すなわち、御霊は聖徒たちのために、神の御心にしたがって執り成してくださっているということです。28.神を愛する人々、すなわち、ご計画に従って召された人々には、神が共に働いて、全てを良きようにしてくださることをわたしたちは知っています。29.すなわち、神は、あらかじめ知っている人々を、神の御子の姿と同じ形に、あらかじめ見定められました。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となるためです。30.神は、あらかじめ見定めたこれらの者たちを召し、召したこれらの者たちを義とし、義としたこれらの者たちに栄光をお与えになりました。
31.では、わたしたちは、これらのことに対して何と言いましょうか。神がわたしたちの味方なら、だれがわたしたちに敵対できるでしょうか。32.ご自分の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために御子を(死に)引き渡された方が、どうして、御子と共に、万物をもわたしたちに賜らないはずがあるでしょうか。33.だれが神に選ばれた人々に敵対して訴えるのですか。(彼らを)義とされるのは神です。34.だれが(わたしたちを)罪に定めるのですか。キリスト[イエス]は死なれて、否、むしろ復活させられて、神の右におられ、わたしたちのために執り成しておられるのです。35.だれがキリストの愛からわたしたちを離れさせるのですか。艱難か、苦難か、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。36.こう書かれているとおりです。
『わたしたちは、あなたのために一日中、死に渡されており、ほふられる羊たちのように見なされている。』

37.しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちを愛してくださった方によって、勝利を得てなお余りがあります。38.わたしは確信しています。すなわち、死も、いのちも、天使たちも、初めのものも、現在のものも、将来のものも、力あるものも、39.高いものも、低いものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことができません。




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★「ご自分の御子を罪の肉の有様で、罪のために遣わし」(3)
  ὁμοιώματι σαρκὸς ἁμαρτίας
  イエスが人性をお取りになったのは、いかなる状態に於いてであるか、という根本的な問いに対してこの3節は一つの回答を与えている。『罪の肉の有様』の『有様』のギリシア語は、ὁμοίωμα つまり「似ている」「~のような」を意味する言葉が使われている。このὁμοίωμα はローマ1:23の『はうものたちの像に似たものに変えたのです。』や、ヨハネ黙示録9:7の『馬に似ており』などにも登場します。本体そのものではないが、本体に似ている、という意味である。したがって、上記の『罪の肉の有様』の意味も同じで、罪の肉そのもの(同質)ではないが外面上似ているという意味である。




      
 古代ローマ遺跡、チルコ・マッシモ(野外円形闘技場)より、パラチーノの丘(皇帝宮殿群)を望む(筆者撮影)

2016年10月13日木曜日

新約聖書原典「ローマの人々への手紙」7章の翻訳(私訳)

ローマの人々への手紙 

7章


1.あるいは、兄弟たちよ、あなたがたは知らないのですか。わたしは律法を知っている人々に言うのですが、律法は、人を生きている間だけ支配するということを。2.というのは、既婚の婦人は、生きている夫に律法によってつながれています。しかし、もし、夫が死ねば、彼女は夫の律法から解放されるからです。3.そういうわけですから、夫が生きている時に、他の男と一緒になれば、彼女は不貞の女と呼ばれます。しかし、もし、夫が死ねば、彼女は律法から解放された者となり、彼女が他の男と一緒になっても不貞の女とはなりません。4.ですからわたしの兄弟たちよ、あなたがたも、キリストの体を通して律法に対しては死んだのであり、他の方、すなわち死者たちの中から復活させられた方のものとされたのです。それは、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためです。5.わたしたちが肉にあった時は、もろもろの罪の欲情が、死のために実を結ぼうと、律法を通してわたしたちの肢体に働いていました。6.しかし、今、わたしたちは縛られていた律法に対して死んで、その律法から解放されたのです。こうして、わたしたちは古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのです。
7.では、なんと言いましょうか。律法は罪なのでしょうか。決してそうではありません。かえって、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。もし、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしは「むさぼり」を知らなかったでしょう。8.しかし、罪は戒めによって機会を得て、わたしの内にあらゆる欲望を起こしました。律法がなければ罪は死んだものです。9.かつて、わたしは律法なしに生きていました。しかし、戒めが現れたとき、罪は生き返り、10.わたしは死にました。そして、命に導くはずのこの同じ戒めが、わたしを死に導いていることが分かりました。11.なぜなら、罪は戒めによって機会を得、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺しました。12.このように、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、義であり、また善なるものです。13.では、わたしにとって善であるものが、死となったのでしょうか。決してそうではありません。それはむしろ、罪が罪として現れるためであり、罪が戒めによっていっそう罪深いものとなるために、善なるものによってわたしに死をもたらしているのです。
14.わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかしこのわたしは肉の者であって、罪の下に売られている者です。15.わたしは自分のしていることが分かりません。すなわち、わたしは自分が望むことを行わず、かえって、憎むことを行っているからです。16.しかし、もし、わたしが望まないことを行っているなら、わたしは律法が良いものであると認めていることになります。17.しかし、今や、そのことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪です。18.わたしは自分の内に、すなわち、わたしの肉の内に、善が宿っていないことを知っています。わたしには良いことを行おうとする意思はありますが、それを行うことができないのです。19.わたしは、自分が望んでいる善を行わないで、望んでいない悪を行っているのです。20.もし、このわたしが、望んでいないことをしているとすれば、それを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪です。21.それゆえ、わたしは、自分には良いことをしようという意思があるのに、わたしの内に悪が存在しているという法則に気付きます。22.わたしは、内なる人としては、神の律法を喜んでいますが、23.わたしの肢体には別の法則があって、わたしの理性の法則に対して戦いを挑み、わたしの肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見ます。24.わたしは惨めな人間です。だれがこの死の体から、わたしを救ってくれるでしょうか。25.しかし、わたしたちの主イエス・キリストによって神に感謝します。だからこそ、わたし自身は理性では神の律法に仕えていますが、肉においては罪の法則に仕えているのです。





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★「罪の欲情」(5)はいずれも複数。

★「決してそうではありません」(7)(13)
 希求法。希望、願望を表す。

★ 「罪の下に売られている者です」 (14)
  売られているは完了形、受動態。

★ 「罪が(罪として)現れるための罪(のしわざ)であり、」
  カッコ内のしわざは原典にないが、文脈からこのような意味が語られていると推察される。

★ 21節以降に、『律法』『法則』という言葉が数回現れるが、これらはいずれもνόμος(ノモス)という一つの言葉。これがどちらを意味するかはひとえに文脈によって判断することになる。当私訳では他の翻訳で不明であったこの点について、より正しい解釈のもと、慎重を期して訳している。



              古代ローマ遺跡  筆者撮影

2016年10月11日火曜日

新約聖書原典「ローマの人々への手紙」6章の翻訳(私訳)

ローマの人々への手紙 

6章


1.では、わたしたちは何と言いましょうか。恵みが増し加わるために、わたしたちは罪にとどまるのでしょうか。2.決してそうではありません。罪に対して死んだわたしたちが、どうしてなおも罪の中に生きることができるでしょうか。3.それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちはみな、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのだということを。4.ですから、わたしたちは、(彼の)死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのです。それは、キリストが父の栄光によって死者たちの中から復活されたように、こうして、わたしたちもまた、新しい命に生きるようになるためです。5.もし、わたしたちが、彼の死のありさまにあずかったのなら、復活のありさまにもあずかることでしょう。6.わたしたちはこのことを知っています。すなわち、わたしたちの古い人はすでに(キリストと共に)十字架につけられました。それは、罪の体が滅ぼされ、わたしたちがもうこれ以上、罪の奴隷となることがないためです。7.死んだ者は、罪から解放されているからです。8.わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、また、彼と共に生きることにもなると信じています。9.わたしたちは、死者たちの中から復活させられたキリストは、もう死ぬことがないということ、また、死はもう彼を支配しないことを知っています。10.キリストが死なれたのは、ただ一度だけ罪に対して死なれたのであり、今、生きておられるのは、神に対して生きておられるからです。11.このように、あなたがたも、自分自身を、罪によって死んでいたが、今はキリスト・イエスによって神に対して生きている者であると心得なさい。
12.だから、罪があなたがたの死ぬべき体を支配し、その欲望に従わせるようなことをせず、13.あなたがたの肢体を、不義の道具として罪にささげてはいけません。むしろ、死者たちの中から生かされた者として、また、あなたがたの肢体を神のための義の道具として、自分自身を神にささげなさい。14.というのは、あなたがたの罪は、(もうあなたがたを)支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法のもとに存在しているのではなく、恵みのもとに存在しているからです。

15.では、どうなのでしょうか。わたしたちは律法のもとにあるのではなく、恵みのもとにあるからと言って、罪を犯してもよいのでしょうか。決してそうではありません。16.あなたがたは知らないのですか。すなわち、あなたがたが誰かに従うために、自分自身を奴隷としてささげれば、あなたがたは従っているその人の奴隷です。つまり、死に至る罪の奴隷とも、義に至る従順の僕ともなるということを。17.しかし、神に感謝です。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの模範に心から従い、18.罪から解放されて、義に仕える僕とされました。19.わたしはあなたがたの肉の弱さのゆえに、人間的ないい方をします。あなたがたがかつて自分の肢体を、汚れと不法の奴隷として悪行のためにささげたように、今度は同様に、自分の肢体を、義の僕として聖となることのためにささげなさい。20.あなたがたがかつて罪の奴隷であった時、あなたがたは義とは無縁な者でした。21.その時、あなたがたはどんな実を結んでいましたか。あなたがたにとってそれは今では恥となるものです。それらのものの結末は死だからです。22.しかし今では、あなたがたは罪から解放され、神に仕える者とされ、聖なる者となる実を結んでいます。そして、その結果は永遠の命です。23.罪の報酬は死です。しかし、神の賜物はわたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命です。




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●「自然の中で聴く聖書」ローマの人々への手紙 6章


μὴ γένοιτο(1)(15)「決してそうではありません」
上記のパウロの表現は3:31にも使われているが、希求法(願望)という聖書中、ごくまれに現れる古典ギリシア語の動詞の使用法である。これは、『願望』を表す。よって、上記の意味は、『まさか、そんなことになるはずがない』『そんなことになってたまるか』といった強い願望を含む。

★「わたしたちの古い人間はすでに十字架につけられました。それは、罪の体が滅ぼされ」(6)
太字の動詞はいづれも過去、受動態。古典ギリシア語において、過去はその出来事の過去における一回的事実をあらわす。よって、『十字架につけられた』『滅ぼされた』は過去における一回的出来事である。

★「死んだ者は、罪から解放されているからです」(7)
ὁ γὰρ ἀποθανὼν δεδικαίωται ἀπὸ τῆς ἁμαρτίας
太字の『解放されている』の動詞は完了形。ギリシア語における完了は、過去における出来事の結果が現在なお続いていることを表す。よって、前節(6)の一回的出来事により、古い人間としてのわたしは十字架につけられてすでに死んでおり、罪から解放され、それによって今も罪から解放され続けている、ということを意味する。なお、『解放されている』のギリシア語は、『義とされている』とも訳す。依って、『死んだ者は、罪から義とされている』と訳しうる。

★「律法の下」ὑπὸ νόμον「恵みの下」ὑπὸ χάριν(14、15)
ローマの人々への手紙に現れる重要な言葉のひとつ。6章においてはじめて現れる。『律法の下(もと、した)』、『恵みの下(もと、した)』。要するに『支配されている』ことを意味する。



                 ローマの古代遺跡の一部。 筆者撮影

2016年10月7日金曜日

新約聖書原典「ローマの人々への手紙」5章の翻訳(私訳)

ローマの人々への手紙 

5章


1.ですから、信仰のゆえに義とされたわたしたちは、わたしたちの主イエス・キリストを通して、神に対して平和を得ているのです。2.キリストを通して、わたしたちは今立っているこの恵みに[信仰によって]導き入れられ、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいます。3.それだけでなく、苦難の中にいることも喜んでいます。なぜなら、苦難は忍耐を、4.忍耐は練られた品格を、練られた品格は希望をもたらすことをわたしたちは知っているからです。5.そして、希望は(わたしたちを)失望させません。なぜなら、わたしたちに与えられた聖霊を通して、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。6.実に、キリストは、わたしたちがまだ弱かったとき、定められた時に、不信仰な者たちのために死んでくださいました。7.正しい者のために死ぬ人は、ほとんどいないでしょう。善人のためなら勇ましく死ぬ人もあるいはいるでしょう。8.しかし、わたしたちがまだ罪人であった時に、キリストがわたしたちのために死んでくださったことによって、神はわたしたちに対するご自分の愛を示されたのです。9.ですから、今はすでに、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、わたしたちはなおさら、キリストによって、(神の)怒りから救われるでしょう。10.もし、敵であった時に、わたしたちが御子の死を通して神との和解を受けたのであれば、和解を受けているわたしたちは、なおさら、御子の命によって救われるでしょう。11.それだけではありません。むしろ、今や、和解を得させてくださったわたしたちの主イエス・キリストを通して、神にあって喜んでいるのです。

12.こういうわけで、一人の人によって罪がこの世に入り、罪によって死が入って来たように、すべての人が罪を犯したので、こうして死が全人類に入り込んだのです。13.というのは、律法が(与えられる)までにも、罪は世にありました。しかし、律法が存在しなければ、罪の責任は(人には)負わせられません。14.しかし、アダムからモーセに至るまで、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者たちの上にも、死は支配しました。このアダムは、来たらんとする方の予型です。15.しかし、賜物は罪過の場合とは異なります。というのは、一人の罪過によって多くの人が死んだのなら、神の恵みと、一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物は、なお一層、多くの人々に満ち溢れたからです。16.この賜物は、一人の罪を犯した人の場合とは異なります。なぜなら、裁きの場合は、一人の罪過から罪に定める結果となりましたが、無償の賜物の場合は、多くの罪過から義とする結果となったからです。17.というのは、もし、一人の罪過によって、一人の人を通して死が支配するようになったとすれば、豊かな恵みと義の賜物をいただいている人々は、一人のイエス・キリストを通して、さらにいっそう、命にあって支配することになるからです。18.こういうわけで、一人の罪過によって多くの人々を有罪としたと同じように、一人の義の行為によって多くの人々を、命にあずかる義とするのです。19.すなわち、一人の人の不従順によって、多くの人々が罪人と定められたと同じように、一人の人の従順によって多くの人々が義と定められることになるのです。20.律法が入り込んで来たのは、罪過が増加するためです。しかし、罪が増加したところに、恵みはいっそう豊かに満ち溢れました。21.それは、ちょうど、罪が死によって支配したように、恵みも同様に、義を通して支配し、わたしたちの主イエス・キリストを通して(わたしたちを)永遠の命に至らせるためなのです。




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★「今立っている」(2)、「導き入れられ」(2)、「注がれている」(5)はいずれも完了形。完了形は過去の出来事の事実が今も継続していることを表している。ゆえに、現在のように訳す。

★「苦難」(3)は複数。

★「義とされた」(9)、「和解を受けた」(10)は過去形、受動態。過去形は過去における一回的な事実を表す。

★「満ち溢れた(はずだ)からです」(15)は太字は過去形で、意味は期待をあらわす。文章全体が「もし…なら」という仮定(条件文)で始まる文である。

★「一人の人の不従順によって、多くの人々が罪人と定められた(過去、受動態)ように、同様に、一人の従順によって多くの人々が義と定められることになるのです(未来、受動態)」(19)
前半の「罪人と定められた」は過去形で、アダムの罪が多くの人間を罪人と宣告した過去の一回的事実を表し、「義と定められることになるのです」は未来形。これは前節(17)も同じで、17節の「死が支配した」(過去)、「いのちのあって支配することになる」(未来)であることに注意。ただし18節には動詞がなく、「有罪とした」(過去)「義とする」(未来)はいずれも、前後の文脈から判断して、過去、未来として訳した。




    ローマ、コロッセオそばに立つコンスタンティヌスの凱旋門(筆者撮影)