2015年12月2日水曜日

新約聖書原典「コリントの人々への手紙二」4章の翻訳(私訳)

コリントの人々への手紙  

4章


1.こういうわけで、わたしたちは憐みを受けてこのような務めを授かっているのですから、落胆せず、2.むしろ、恥ずべき隠れたことがらを捨てて、偽りの中を歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前ですべての人々の良心に対して自分自身を推薦するのです。3.しかし、もし、わたしたちの福音に覆いが掛けられているとすれば、それは、滅ぼされる者たちに覆いが掛けられているのです。4.彼らにとって、この世の神が、神の似姿であるキリストの栄光の福音の光がはっきりと見えないように、不信仰な者たちの思いをくらましたのです。5.わたしたちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主イエス・キリストを宣べ伝えているのです。わたしたち自身は、イエスのために(仕える)あなたがたの僕です。6.「闇から光が輝き出よ」と言われた神は、[イエス]キリストのみ顔に(輝く)神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心の中を照らしてくださいました。
7.しかし、わたしたちはこうした宝を土の器に持っています。それは、このはるかに優った力が、神からのものであり、わたしたちから出たものでないことが(明らかになるためです)。8.わたしたちは、どんな苦しみにあっても窮地に追い込まれず、途方に暮れても行き詰まらず、9.迫害されても見捨てられず、投げ倒されても滅ぼされません。10.いつもイエスの死をこの身に負っています。それは、イエスの命がわたしたちの身に現されるようになるためです。11.わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。それは、イエスの命が、わたしたちの死ぬべき身に現されるようになるためです。12.こうして死はわたしたちの内に働き、命はあなたがたの内に働くのです。13.『わたしは信じた。それゆえに、わたしは語った』と書かれているとおり、わたしたちもこの同じ信じる御霊を持っており、わたしたちも信じているので語るのですが、14.主イエスを復活させた方は、わたしたちをもイエスと共に復活させ、あなたがたと一緒に(御前に)立たせてくださることをわたしたちは知っています。15.すべてのことは、あなたがたのためなのですから。それは、恵みが多くの人々を通して増し加わり、神の栄光への感謝が満ち溢れるようになるためです。

16.こう言う訳で、わたしたちは落胆しません。むしろ、たといわたしたちの外なる人は朽ちるとしても、わたしたちの内なる人は日ごとに新しくされていきます。17.と言うのは、わたしたちの一時的なこの軽い艱難は、比べものにならないほどの永遠の重い栄光をわたしたちにもたらしてくれるからです。18.わたしたちは見えるものにではなく、むしろ見えないものに目を注ぎます。なぜなら、見えるものは一時的ですが、見えないものは永遠に続くからです。





晩秋の石神井公園の日没

2015年11月24日火曜日

新約聖書原典「コリントの人々への手紙二」3章の翻訳(私訳)

コリントの人々への手紙  

3章


1.わたしたちはふたたび、自己推薦を始めようとしているのでしょうか。それとも、ある人たちのように、あなたがたに対しての、あるいは、あなたがたからの推薦状が、わたしたちには必要なのでしょうか。2.わたしたちの推薦状はあなたがたです。それは、あなたがたの心に書かれ、すべての人々によって知られ、また読まれています。3.あなたがたは、わたしたちによって仕えられたキリストの手紙であって、墨によってではなく、生ける神の御霊によって、石で作られた板にではなく、肉の心の板に書き記されたものであることが明らかにされているのです。
4.わたしたちはこのような確信を、キリストを通して神に対して抱いています。5.わたしたちは自分で何かできると考えるほど、自分にその資格があるというのではありません。かえって、わたしたちのその資格は神から与えられるものです。6.神はわたしたちを、文字によってではなく御霊による新しい契約に仕えるのにふさわしい者とされました。というのは、文字は(人を)滅ぼしますが、御霊は(人を)生かすからです。7.もし、石に刻まれた文字による死の務めが栄光のうちに起こり、そのために、イスラエルの子らがモーセの顔を、その顔の消えゆく栄光のゆえに見つめることができなかったとすれば、8.まして御霊の務めは、どんなにか栄光あるものではないでしょうか。9.罪の宣告の務めが栄光あるものだとすれば、まして義の宣告の務めはさらに一層、栄光に満ちています。10.それは、栄光を受けたことが、この場合、さらに優れた栄光のゆえに、栄光を受けないこととなったからです。11.もし、消滅するものが栄光のゆえであったとすれば、まして存続するものは、はるかにまさって栄光のうちにあるからです。

12.だから、わたしたちはこのような希望を抱いているので、強い確信をもって行動し、13.モーセが、消滅するものの最後をイスラエルの子らに見られないように、自分の顔の上に覆いをかけたようなことはしません。14.しかし、彼らの考えはかたくなにされました。今日に至るまで、この同じ覆いが、古い契約を朗読する際に取り除かれないで残ったままになっているのです。それは(今では)キリストによって無効とされているのです。15.しかし、今日に至るまで、モーセ(の書)が読まれるときはいつも、彼らの心には覆いが掛かっているのです。16.しかし、主に立ち帰るならいつでも、覆いは取り除かれます。17.主は霊です。主の霊のあるところには自由があります。18.わたしたちはみな、顔の覆いを取り除かれて、主の栄光を鏡に映して見ながら、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられるのです。これは主の霊によってなされることです。





★「死の務め」ἡ διακονία τοῦ θανάτου(7) 
 「霊の務め」 ἡ διακονία τοῦ πνεύματος(8)

ローマ書7:10でパウロが「死に導く戒め」「命に導く戒め」と呼んでいるものと同一のもの。
前者は文字によって石の板に書かれたが、後者は霊によって心の板に記されている(3)

★「彼らの考え」(14)、「彼らの心には」(15)の「彼らと」は、パウロに批判を浴びせるユダヤ主義者たちのこと。






2015年11月13日金曜日

新約聖書原典「コリントの人々への手紙二」 2章の翻訳(私訳)

コリントの人々への手紙 二 

2章


1.そこでわたしは、また再び悲しみを抱いてあなたがたのところに行くことはすまいと決心しました。2.もし、わたしがあなたがたを悲しませるとすれば、わたしが悲しませる人以外のいったい誰が、わたしを喜ばせてくれるでしょう。3.わたしがこのように書くのは、わたしを喜ばせるべきはずの人々から、そちらに行って悲しい思いをさせられたくないからです。また、わたしの喜びはあなたがた全員の喜びであると、あなたがた一同について確信しているからです。4.わたしは多くの困難と不安な思いで、多くの涙を流しながらあなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、むしろ、わたしがあなたがたに対して溢れるばかりに抱いている愛を知っていただきたいからです。
5.もし、だれかが(人を)悲しませているとすれば、その人はわたしを悲しませているのではなく、重荷を負わせるつもりはありませんが、ある程度は、あなたがた全員を悲しませているのです。6.その人には、多くの人たちから受けたあの懲罰で充分です。7.むしろ、あなたがたはその人が、より大きな悲しみにのみ込まれてしまわないよう彼を赦し、励ましてあげなさい。8.それで、わたしはあなたがたに、彼に愛を示すことを勧めます。9.わたしがこう書くのは、あなたがたがあらゆる点で従順であるかどうか、あなたがたの練られた品性を知るためです。10.あなたがたが何かのことで人を赦すなら、わたしも(その人を)赦します。わたしが誰かを赦している場合、事実、それはわたしがキリストの御前で、あなたがたのためにそれを赦しているのです。11.それは、わたしたちがサタンによって欺かれないためです。わたしたちにはサタンの策略が理解できないからです。
12.わたしがキリストの福音のためにトロアスへ行ったとき、主によってわたしのために門が開かれましたが、13.わたしの兄弟ティトスに会えなかったので、わたしの心は気が気ではなかったのですが、人々に別れを告げてわたしはマケドニアへ出かけて行きました。

14.しかし、神に感謝。神はどんな時にもキリストによってわたしたちを勝利の凱旋に導き、わたしたちを通して、キリストを知る知識の香りを至る所であらわしてくださいます。15.なぜなら、わたしたちは、救われる者たちにとっても滅びる者たちにとっても、神に対しての芳しい香りだからです。16.滅びる者たちにとっては、死から死に至る香りですが、救われる者たちにとっては、命から命に至る香りです。17.わたしたちは多くの人々のように、神の言葉を(自分の益のために)売り物にするような者ではなく、純粋に、しかも神に属する者として、神の御前でキリストにあって語っているのです。



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14~16節に現れる「香り」とは、祭壇の上で焼かれる燔祭の動物から立ち上る芳ばしい香りのことをいう。




2015年11月10日火曜日

新約聖書原典「コリントの人々への手紙二」 1章の翻訳(私訳)

コリントの人々への手紙 二 


1章


1.神のみ旨によってキリスト・イエスの使徒(となった)パウロと兄弟ティモテから、コリントにある神の教会と、アカイアの全域にいるすべての聖徒たちへ。
2.わたしたちの父であられる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように。
3.神はほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父、憐み深い父、また慰めに満ちた神。4.神は、どんな苦しみにあってもわたしたちを慰めてくださり、わたしたち自身も神から慰められているその同じ慰めによって、あらゆる苦しみにある人々を慰めることができるようにしてくださいました。5.なぜなら、キリストの苦難がわたしたちに満ち溢れているように、わたしたちの慰めもキリストを通して満ち溢れているからです。6.もしわたしたちが苦しめられるなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もしわたしたちが慰められるなら、それはあなたがたの慰めのためであって、わたしたちが経験しているのと同じ苦難に耐える力を生み出すためなのです。7.わたしたちがあなたがたについて(抱いている)希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦難にあずかっているように、慰めにもあずかっているのをわたしたちは知っているからです。
8.兄弟たちよ、アジアでわたしたちに起こった苦難については、あなたがたに知らないでいてほしくはありません。というのは、わたしたちは耐えられないほどに極度に押しつぶされ、そうして、生きる望みを失い、9.心の中で死を覚悟しました。それは自分自身を頼みとしないで、むしろ、死者たちを復活させてくださる神を頼みとするようになるためでした。10.神は死の恐怖からわたしたちを救ってくださり、また(これからも)救ってくださるでしょう。これからも救ってくださると、わたしたちは神に望みを置いています。11.あなたがたも、わたしたちのために祈りをもって共に仕えてくれています。それは、多くの人たちからわたしたちに表わされた賜物が、わたしたちに代わって多くの人々によって感謝されるようになるためです。
12.さて、わたしたちは、この世で、特にあなたがたに対し、神の誠実さと純粋さにより、肉による知恵ではなく、神の恵みによって行動してきたことはわたしたちの誇りであり、わたしたちの良心が証しするところです。13.わたしたちはあなたがたが読んで理解できること以外には何も書きませんが、あなたがたには(次のことを)充分に理解していただきたいのです。14.すなわち、あなたがたもある程度はわたしたちのことを理解しておられるように、[わたしたちの]主イエスの日には、あなたがたがわたしたちの誇りであるように、わたしたちもあなたがたの誇りであるということです。
15.こう確信したので、わたしは先ず初めにあなたがたのところへ行こうと思いました。それは、あなたがたに二度の恵みを受けられるようにするためでした。16.そして、あなたがたのところを通ってマケドニアへ行き、また再びマケドニアからあなたがたのところに戻って来て、(その後)あなたがたによってユダヤへ送り出していただきたいのです。17.では、こう望むのは軽率な振る舞いでしょうか。それとも、わたしが考えていることは、肉に従って自分で考えていることで、わたしにとって「然り、然り」であることが、「否、否」となるためでしょうか。18.しかし、神は真実です。あなたがたに対するわたしたちの言葉は、「然り」でも、また「否」でもありません。19.わたしたち、すなわち、わたしとシルワノとティモテによってあなたがたの間で宣べ伝えられた神の子イエス・キリストは、「然り」また「否」になられたのではありません。そうではなく、キリストにおいてはただ「然り」となられたのです。20.神の約束はすべて、この方において「然り」となったからです。ですから、わたしたちはこの方を通して「アーメン」と唱え、わたしたちによって神に栄光を帰すのです。21.わたしたちとあなたがたとを、キリストに堅く結びつけてくださり、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。22.神はまたわたしたちに証印を押して、わたしたちの心に御霊による保証を与えてくださったのです。

23.わたしは神を証人として自分の命にかけて申しますが、わたしがコリントに行かないでいたのは、あなたがたに対して寛容でありたいからです。24.わたしたちは、あなたがたの信仰を支配する者ではなく、むしろあなたがたの喜びのために協力して働く者です。あなたがたが信仰に(堅く)立っているからです。




ἀνεστράφημεν ἐν τῷ κόσμῳ(12)
「私たちはこの世で行動してきた」

パウロがここで述べている『誇れるもの』とは、自分の人間的な(肉の)行動ではなく、神の恵みに導かれた『受動的な振る舞い』のことである。このことはἀνεστράφημεν(振る舞う)が受動態で書かれていることからも分かる。



2015年10月28日水曜日

新約聖書原典「コリントの人々への手紙一」16章の翻訳(私訳)


コリントの人々への手紙  

16章


1.聖徒たちへの募金については、わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも同じように実行しなさい。2.わたしが行った時はじめて募金を集めるようなことがないように、週の初めの日ごとに、あなたがたはそれぞれ、恵まれてもうけたものがあれば、幾らかでも手元に蓄えて置きなさい。3.わたしが到着したら、あなたがたが承認した人たちに、(わたしの)手紙を持たせて、あなたがたの親切を届けるために、その人たちをエルサレムに行かせましょう。4.わたしも行く方がよければ、一緒に行きましょう。
5.あなたがたのところへ行くときは、マケドニアを通って行くことになるでしょう。マケドニアを経由しますから。6.おそらくあなたがたのところに滞在し、あるいは冬を過ごすことになるでしょう。そうして、わたしがどこへ行くにせよ、あなたがたにわたしを送り出していただきたいのです。7.わたしは今、あなたがたと、通りがかりに会うようなことはしたくありません。主が許されるなら、しばらくはあなたがたのところに滞在したいと望んでいます。8.ただ、五旬節まではエフェソに滞在することになるでしょう。9.わたしのために、大きく有力な門が開かれているからです。反対する人々も多くいますが。
10.ティモテが(この手紙を持って)そちらに行ったら、あなたがたのところで不安なく過ごせるように心を配ってください。彼もわたしと同じく主の働きに携わっているのですから。11.だから、だれも彼を軽んじてはいけません。彼がわたしのところに帰って来られるように、安らかに彼を送り出してください。わたしは彼が兄弟たちと一緒に来るのを待っていますから。12.兄弟のアポロについてですが、わたしは彼が兄弟たちと一緒にあなたがたのところへ行けるように彼を大いに説得しましたが、彼には、今は行こうという意思は全くありません。適当な機会が来れば行くことになるでしょう。
13.目を覚ましていなさい。信仰のうちに堅く立っていなさい。雄々しくありなさい。強くありなさい。14.すべてのことを、愛をもって行いなさい。
15.兄弟たちよ、あなたがたにお願いします。あなたがたはステファナの家族のことをご存知でしょう。すなわち、彼はアカイアの(伝道の)初穂で、聖徒たちに仕えるために自分自身をささげてくれました。16.ですから、あなたがたもこの人たちや、共に働き共に苦労しているすべての人々に従ってください。17.ステファナとフォルトナトとアカイコが来てくれたことをわたしは喜んでいます。この人たちは、あなたがたの足りない分を補ってくれたからです。18.彼らは、わたしの心とあなたがたの心を休ませてくれました。だから、こういう人たちを認めてあげなさい。
19.アジアの諸教会が、あなたがたによろしくと言っています。アキラとプリスカが、その家ごとに集う教会と共に、主にあって心からあなたがたによろしくと言っています。20.すべての兄弟たちが、あなたがたによろしくと言っています。聖なる接吻をもって互いに挨拶を交わしなさい。

21.パウロが自分の手で挨拶を書きます。22.主を愛さない者がいれば、その人は呪われよ。マラナ・タ(われらの主よ、来てください)。23.主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。24.わたしの愛が、キリスト・イエスにあってあなたがたすべての人と共にあるように。




τὸ ὑμέτερον ὑστέρημα οὗτοι ἀνεπλήρωσαν· (17)
「この人たちは、あなたがたの足りない分を補ってくれた」

「足りない分」の意味するところは何か?  この章の冒頭に「募金」という言葉がでてくるので、そのことかと考えたくなるが、おそらくそのことではなく、15節に登場するアカイア州からパウロの伝道に奉仕するためにやってきた三人の協力者が、自身を捧げてまで(15)パウロの伝道に協力した「人的労力」「人的献身」を意味するのであろう。この三人はアカイア(コリント)からパウロの伝道に協力するためにやってきたが、コリントにとどまっている人たちの「足りない分(労力)」を補ったのである。ちなみに、新共同訳はそのことを具体的(意訳)に訳出している。「この人たちは、あなたがたのいないときに、代わりを務めてくれた」(新共同訳)


2015年10月21日水曜日

新約聖書原典「コリントの人々への手紙一」15章の翻訳(私訳)


コリントの人々への手紙  

15章


1.さて兄弟たちよ、わたしがあなたがたに宣べ伝えた福音を教えてあげましょう。その福音を、あなたがたは受け入れ、その福音によってあなたがたは(今)立っているのです。2.わたしがどんな言葉であなたがたに宣べ伝えたかをしっかり保っていれば、あなたがたはその福音によって救われるのです。そうでないと、あなたがたが信じたことが無駄になってしまいます。3.わたしは自分が受けたことを、まず初めにあなたがたに伝えたのです。それは、聖書に書かれているとおり、キリストがわたしたちの罪のために死なれたこと、4.また、聖書に書かれているとおり、葬られ三日目に復活させられたこと、5.そしてケファに現れ、次に十二人に現れたこと、6.その後、一度に五百人以上の兄弟たちに現れました。その中の何人かはすでに眠りにつきましたが、大部分の者たちは今日まで生きています。7.その後、ヤコブに現れ、次にすべての使徒たちに現れました。8.最後にいわば月足らずで生まれたようなわたしにも現れてくださったのです。9.わたしは使徒たちの中で最も小さい者で、使徒と呼ばれるに値しない者です。なぜなら、わたしは神の教会を迫害したのですから。10.しかし、神の恵みによって今のわたしがあります。わたしに与えられた神の恵みは無駄にはならず、むしろ、彼らの中のだれよりも多く働きました。しかし、働いたのはわたしではなく、わたしと共にある神の恵みです。11.ですから、わたしにしても、かの人たちにしても、わたしたちがこうして宣べ伝えたので、あなたがたはこのように信じたのです。
12.ところで、キリストが死者たちの中から復活させられたと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある人たちは、死者たちの復活などはない、と言っているのはどうしてでしょうか。13.もしも、死者たちの復活がないとすれば、キリストも復活させられなかったでしょう。14.もし、キリストが復活させられなかったとすれば、わたしたちの宣教は空しく、わたしたちの信仰も空しい。15.もし本当に死者たちが復活させられないとすれば、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたとして、わたしたちは神に反する証しを立てて、神を偽って証言していることになります。16.もし、死者たちが復活させられないとすれば、キリストも復活させられなかったことでしょう。17.もしキリストが復活させられなかったとすれば、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたはなお罪の中にいることになるのです。18.すると、キリストにあって眠りについている人々は滅びたことになります。19.もし、わたしたちが、この世の生活でキリストに希望を抱いているだけだとすれば、わたしたちはすべての人々の中で最もみじめな存在です。
20.しかし、今や、キリストは死者たちの中から復活させられて、眠った人々の初穂となられたのです。21.なぜなら、死は一人の人によってもたらされたのですから、死者たちの復活も一人の人によってもたらされるのです。22.アダムによってすべての人が死んでいるのと同じように、こうしてキリストによってすべての人が生きることとなるのです。23.各自には、それぞれ定められた順序があります。初めにキリスト、次にキリストの来臨の際にキリストに属する者たち、24.それから終わりが(来ます)。その時、キリストはすべての支配とすべての権威と力とを滅ぼし、父でもある神に王権を渡されます。25.それは、キリストが、すべての敵をご自分の足下に置くその時まで、王である必要があるからです。26.最後の敵である死が滅ばされます。27.『キリストは、すべてのものをその足下に服従させた』からです。しかし、すべてが服従させられたと宣言されるとき、すべてのものをご自身に服従させた方はそれに含まれないことは明白です。28.すべてのものがキリストに服従するとき、その時に、御子自身も、すべてのものをご自分に服従させてくださった方に服従されるでしょう。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。
29.こう言う訳なのに、死んだ人々のためにバプテスマを受ける人たちは、いったいなぜそういうことをするのでしょうか。実際、死者たちが復活しないのなら、どうして彼らのためにバプテスマを受けるのでしょうか。30.わたしたちはなぜいつも危険をおかすのでしょうか。31.日々、わたしは死んでいます。[兄弟たちよ]、これは、わたしたちの主キリスト・イエスにあってわたしが持っているあなたがたの誇りにかけて(言えます)。32.わたしが人間的にエフェソで野獣と戦ったとしたら、わたしに何の益があったでしょうか。もし、死者たちが復活させられないとすれば、『我々は食い飲みしよう、明日は死ぬのだから』。33.惑わされてはいけません。「悪い付き合いは、良い習慣を破壊」します。34.酔いをさまして身を正しなさい。罪を犯してはいけません。神について無知な人々がいるからです。わたしはあなたがたを恥じ入らせるためにこう言っているのです。
35.ところが、死者たちは、どのようにして復活させられるのだろう、どんな体で現れるのだろう、とある人たちは言います。36.愚かな者よ、あなたが蒔くものは、死ななければ生きたものとはなりません。37.あなたが蒔いているものは、やがて現れる体ではなく、ひょっとしたら穀物か何かその他のただの種粒です。38.しかし、神はみこころに従ってそれに体を与え、それらの種の一つひとつに固有の体をお与えになります。39.すべての肉が同じ肉なのではなく、人の肉もあれば動物の肉もあり、鳥の肉もあれば魚の肉もあります。40.また、天上の体もあり、地上の体もあります。しかし、天上の輝きと、地上の輝きとは異なります。41.ほかにも太陽の輝き、月の輝き、星々の輝きがあり、星と星とにもその輝きに違いがあります。
42.これと同じように、死者たちの復活も、朽ちるものとして蒔かれますが、朽ちないものとして復活させられます。43.卑しい者で蒔かれますが、栄光の内に復活させられます。弱い者で蒔かれますが、強い者で復活させられます。44.自然のままの体で蒔かれますが、霊的な体で復活させられます。自然のままの体があるなら、霊的な体もあります。45.『最初の人アダムは生きる者となった』と書かれているように、最後のアダムは命を与える霊の人となったのです。46.しかし、霊的な体が最初なのではありません。自然のままの体が最初です。その後に霊的な体となるのです。47.最初の人は地から出て土から造られましたが、第二の人は天から出られました。48.土から造られた人がそうであるように、土から造られた人たちもまさにそれと同じです。天から出た方がそうであるように、天から出た人たちもまさにそれと同じです。49.わたしたちが土から造られ姿を着たように、天から出た姿をも着ることになるでしょう。
50.兄弟たち、わたしはこう言っておきます。肉や血は神の国を受け継ぐことができないし、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。51.ごらんなさい。わたしはあなたがたに奥義を告げましょう。わたしたちすべての者は眠り続けるのではなく、わたしたちすべての者は変えられるのです。52.最後のラッパが鳴り響く中、またたく間に一瞬にして変えられます。ラッパが鳴ると、死者たちは朽ちないものとして復活させられ、わたしたちは変えられます。53.なぜなら、この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着ることになるからです。54.この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る時、こう書かれている言葉が実現するのです。
『死は勝利にのまれた。
55.死よ、おまえの勝利はどこか。
死よ、おまえのとげはどこか。』

56.死のとげは罪であり、罪の力は律法です。57.しかし、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を与えてくださっている神に感謝します。58.ですから、わたしの愛する兄弟たちよ、堅固で動かされることなく、主の業にいつも励んでいなさい。あなたがたは自分たちの労苦が主の御前に無駄ではないことを知っているのですから。




Εἰ δὲ Χριστὸς κηρύσσεται ὅτι ἐκ νεκρῶν ἐγήγερται (12)
「キリストは死者たちの中から復活させられたと宣べ伝えられているのに…」

15章は死者の復活を扱っていますが、パウロによると、死者の復活はイエスの復活をその根拠にあげています。15章で、「復活された」という言葉が多く出てきますが、いずれもἐγήγερται と完了形、受動態で現れます。ギリシア語では完了形の場合、受動態と中動態は同じ形をしているので、中動態として「(自ら復活した」とも訳し得るが、15節を読むと、「神がキリストを復活させて…」と言っているので、ἐγήγερται は「復活させられた」と訳すのが正しいと思われる。したがってキリストは自ら復活されたのではなく、死者たちが「復活させられる」のと同様に、神によって「復活させられた」のである。







2015年10月13日火曜日

新約聖書原典「コリントの人々への手紙一」14章の翻訳(私訳)


コリントの人々への手紙  

14章


1.愛を追い求めなさい。しかし、預言をするために、霊の賜物をさらに熱心に求めなさい。2.異言で語る人は、人々に語るのではなく神に語るのです。それはだれにも理解できません。霊によって神秘を語っているからです。3.しかし、預言する人は、人々を建て上げ、励まし、慰めるために、人々に対して語ります。4.異言で語る人は、自分自身を建て上げますが、預言する人は教会を(霊的に)建て上げます。5.わたしは、あなたがた全員に異言を語ってほしいのですが、それ以上に、もっと預言をしてほしいのです。異言を語る人が、教会を霊的に建て上げるためにそれを解釈するのでなければ、それより預言する人の方が優れています。
6.ですから、兄弟たちよ、もし、わたしがあなたがたの所に行って異言で語るとしても、啓示か、知識か、預言か、教えかによって語らなければ、あなたがたに何の益があるでしょうか。7.同様に、命のない物が音を出す場合、それが笛であれ竪琴であれ、音に違いを出さなければ、どうして、笛を吹く音と竪琴を弾く音を聞き分けることができるでしょうか。8.また、もし、ラッパが不明瞭な音を出したら、だれが戦いに備えることができるでしょうか。9.このように、あなたがたも、わかりやすい言葉ではなく、異言によって語ったとしたら、どうして人はその語られたことを理解することができるでしょうか。それは空に向かって語ることになるからです。10.あるいは、世界にどれほど多くの種類の言葉があろうとも、発音できない言葉はありません。11.ですから、言葉の意味がわからなければ、話す人にとってわたしは異国人でしょうし、わたしにとってもその話している人は異国人ということになります。12.このように、あなたがたも霊の賜物を熱心に求める人たちですから、教会を霊的に建て上げるために、それが増し加えられるように熱心に求め続けなさい。
13.ですから、異言で語る人は、解き明かすことができるように祈りなさい。14.もし、わたしが異言で祈るなら、わたしの霊は祈りますが、わたしの知性は実を結びません。15.では、どうすればよいのでしょうか。それは、わたしが霊で祈り、知性でも祈ることです。霊で讃美し、知性でも讃美することです。16.そうでなければ、たとえあなたが霊で祝福を求めて祈っても、初心者の席にいる人が、あなたの感謝の祈りに対して、どうしてアーメンと唱えることができるでしょうか。あなたが何を言っているのか、その人には理解できないからです。17.あなたが感謝の祈りをささげるのは構いませんが、他の人が建て上げられるわけではありません。18.わたしは、あなたがたのだれにもまさって異言を語れることを、神に感謝しています。19.しかし、教会では、異言によって一万の言葉を語るよりも、わたしは他の人々をも教えるために、自分の知性によって五つの言葉を語りたいのです。
20.兄弟たちよ、判断力においては子供となってはいけません。むしろ、悪においては幼児となりなさい。しかし、判断力においては大人となりなさい。21.律法にはこう書かれています。すなわち、
『この民に、わたしは異国の言葉によって、
異国の人々の唇によって語るであろう。
しかし、それでもなお、彼らはわたしに聞き従わない』と主は言われる。
22.ですから、異言は、信じる者たちのためではなく、むしろ信じない者たちのためのしるしです。しかし、預言は、信じない者たちのためではなく、むしろ、信じる者たちのためのしるしです。23.だからもし、教会が全員一緒に集まり、皆が異言を語っているところに、初心者か未信者が入って来たとすると、『あなたたちは気が狂っている』と言わないでしょうか。24.しかし、もし、全員が預言をしているなら、未信者か初心者の誰かが入って来ても、皆から誤りを悟らされ、皆から指摘を受けて、25.自分の心の隠れたことを明かされて、こうして『確かに神はあなたがたの中におられる』と知らされ、御前にひれ伏し、神に礼拝をささげるようになるのです。
26.兄弟たちよ、では、どうすればよいのでしょうか。あなたがたが共に集まる場合、それぞれ讃美をする者、教える者、啓示する者、異言を語る者、それを解釈する者は、皆が(教会を霊的に)建て上げるためにそうしなさい。27.もし、異言を語るなら、二人か、多くとも三人が順番に語り、一人が解釈しなさい。28.しかし、もし解釈する者がいなければ、教会では黙っていなさい。ただ、自分自身と神に対して語りなさい。29.しかし、預言する者たちは、二人か三人が語り、他の者たちはそれを吟味しなさい。30.席についている他の人に啓示が与えられたなら、初めの者は黙りなさい。31.あなたがた一人ひとりは皆、預言できるのですから。それは、皆が学び、皆が励まされるためなのです。32.また、預言する者たちの霊は、預言する者たちに従わせられます。33.神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。
聖なる者たちの諸教会がすべてそうであるように、34.諸教会においては、妻たちは黙していなさい。彼女たちには、語ることが許されていないからです。むしろ、律法も言っているように、彼女たちは(夫に)服従していなさい。35.しかし、もし何か知りたいのなら、家で自分たちの夫に尋ねなさい。妻にとって、教会で語ることは恥ずべきことだからです。36.それとも、神の言葉は、あなたがたから出たのでしょうか。それとも、神の言葉は、あなたがただけに伝わったのでしょうか。
37.もし、自分は預言者であるとか、霊の人であると思う人がいれば、わたしがあなたがたに書いていることは主の戒めであると心得なさい。38.もし分からないとすれば、その人は(霊の人とは)認められません。

39.[わたしの]兄弟たちよ、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい。また、異言で語ることも妨げてはいけません。40.しかし、すべては適切に、秩序正しく行いなさい。




αἱ γυναῖκες ἐν ταῖς ἐκκλησίαις σιγάτωσαν (34)
「教会では妻たちは黙していなさい」

αἱ γυναῖκες  は「婦人たち」の意味と「妻たち」の意味があるが、ここでは35節とのつながりから、夫を持つ婦人(妻)たちと訳すべきでしょう。