2016年4月26日火曜日

新約聖書原典 「ガラテヤの人々への手紙」 1章の翻訳(私訳)

ガラテヤの人々への手紙 


1


1.人々からではなく、人によってでもなく、イエス・キリストと、彼を死者たちの中から復活させた父であられる神とによって使徒とされたパウロ、2.そして、わたしと共にいるすべての兄弟たちからガラテヤの諸教会へ、
3.わたしたちの父であられる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように。4.このイエスは、わたしたちの神、また父である方の御心に従い、迫り来る悪の世からわたしたちを救い出すため、ご自身をわたしたちの罪のためにささげてくださいました。5.この神に栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
6.わたしは、あなたがたがこんなにも早く、あなたがたを[キリストの]恵みに招き入れてくださった方から離れて、異なる福音に移って行っていることに驚いています。7.それは別の福音などではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を変えようとしているにすぎないのです。8.むしろ、もし、わたしたちであれ天からの御使いであれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせた福音に反することを宣べ伝えているのなら、その者は呪われよ。9.先に話したように、今もう一度言いますが、もし、誰かが、あなたがたが受けた福音に反して、(異なる福音を)あなたがたに宣べ伝えているならば、その者は呪われよ。
10.今わたしは、人々を、説き伏せようとしているのでしょうか、それとも神を説き伏せようとしているのでしょうか。あるいは人々の歓心を買おうともくろんでいるのでしょうか。もし、わたしが今なお人々の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではなかったはずです。
11.兄弟たちよ、わたしがあなたがたに知らせ、わたしによって告げ知らされているこの福音は、人間によるものではありません。12.わたしはそれを人間から授かったのでもなければ、教えられたのでもありません。ただ、イエス・キリストの啓示によったのです。13.あなたがたは、わたしがユダヤ教徒であった頃のわたしの行動についてはすでに聞いておられます。すなわち、わたしは徹底的に神の教会を迫害し、それを荒らしまわっていました。14.また、自分の一族の中で、多くのどの同年齢の者たちよりもユダヤ教に精通し、わたしの先祖たちの言い伝えにだれよりも熱心でありました。15.しかし、わたしの母の胎内にいる時からわたしを選び置き、その恵みによって召し出してくださった[神は]、御心にかなって、16.その御子をわたしの内に現わしてくださった時、わたしは異邦人たちの間に御子を告げ知らせるため、血肉に相談することもなく、17.エルサレムへ上って行って、わたしより先に(召し出された)使徒たちに相談することもなく、急いでアラビアに退き、そして再びダマスコに戻って来ました。

18.それから三年後、わたしはケファと顔見知りになろうとエルサレムに上って行き、彼のところに十五日間滞在しました。19.しかし、主の兄弟のヤコブ以外には、他の使徒たちのだれにも会いませんでした。20.わたしがあなたがたに書いていることは、神の御前に偽りではないことを知ってください。21.その後、わたしはシリアとキリキアの地方へ行きました。22.しかし、(そのころはまだ)わたしは、キリストにあるユダヤの諸教会には顔を知られていませんでした。23.ただ、『かつてはわたしたちを迫害していた者が、今では、それまで荒らし回っていた信仰を宣べ伝えている』と彼らが聞いて、24.わたしのことで、神をほめたたえていました。





★ἕτερον εὐαγγέλιον「異なる福音」(6)と、ἄλλο「他の福音」(7)
前者の「異なる福音」は、福音とは別のもの、関係のないもの、後者の「他の福音」は同種のもので他のもの、を意味する。従ってパウロが心配したのは、ガラテヤのクリスチャンが福音とは関係のない別種のものへの傾倒であった。

καθʼ ὑπερβολὴν ἐδίωκον τὴν ἐκκλησίαν τοῦ θεοῦ(13)
「わたしは徹底的に神の教会を迫害し」

ここで使われている「教会」は単数である。従ってこれは「エルサレムの教会」であろう。その時はもちろんエルサレムにはイエスの弟子たちを中心とした一つの集団(群れ)しかなく、当時はまだ教会と呼ばれる以前の一集団のことであった。ただ、その集団の一部は迫害によって散らされ、エルサレム以外でも小規模ながら各地に群れをなしていた。その全体を言うのであろう。


                  我が家の庭で咲いた満開のつつじです

2016年4月18日月曜日

新約聖書原典「コリントの人々への手紙二」13章の翻訳(私訳)

コリントの人々への手紙  

13章


1.わたしがあなたがたのところへ行くのはこれで三度目です。『すべての言葉は、二人か三人の証人たちの証言によって確認されるであろう』。2.わたしは二度目に行ったときにあらかじめ言っておきましたが、離れている今も、以前に罪を犯した人たちと、その他のすべての人たちにまた言っておきます。わたしがまたそちらに行った時は容赦しません。3.あなたがたはキリストがわたしによって語られていることの証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対し弱い方ではなく、あなたがたの中にあって強い方です。4.キリストは弱さのゆえに十字架にかけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。わたしたちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたのために、神の力によってキリストと共に生きていくのです。5.あなたがたは、信仰によって生きているかどうか、自分をためし、自分を吟味しなさい。それとも、イエス・キリストがあなたがたの内におられる自分自身のことがわからないのですか。あなたがたが失格者なら別ですが。6.わたしたちが失格者でないことが、あなたがたにわかってもらえると、わたしは希望しています。7.わたしたちは、あなたがたがもう悪を行わないようにと、神に祈っています。それは、わたしたちが適格者とみられるためではなく、わたしたちが失格者であろうとも、あなたがたが善を行うようになるためです。8.わたしたちは真理に逆らっては何もできませんが、真理のためなら(何でも)できるからです。9.わたしたちが弱い時も、あなたがたが強ければ、わたしたちは喜ぶのです。わたしたちは、あなたがたがふさわしい者として整えられるようにと祈っています。10.ですから、離れていてこれらのことを書いているのは、わたしがそちらに行った時、倒すためではなく建て上げるために主がわたしにお与えになった権威にしたがって、(あなたがたに)厳しい態度をとらないようにするためです。
11.最後に、兄弟たちよ、喜びなさい。ふさわしく整えられた者となりなさい。励まし合いなさい。互いに思いを同じにしなさい。平和に過ごしなさい。愛と平和の神が、あなたがたと共におられるように。12.聖なる接吻をもって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖徒たちがあなたがたによろしくと(言っています)。
13.主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなたがたすべての人々と共にありますように。





2016年4月14日木曜日

新約聖書原典「コリントの人々への手紙二」12章の翻訳(私訳)

コリントの人々への手紙  

12章


1.有益でないかもしれませんが、わたしは誇らずにはいられないので、主から(与えられた)幻と啓示とについて話をはじめましょう。2.わたしはキリストにある一人の人を知っています。その人は十四年前に、それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかわかりませんが、神はご存知ですが、第三の天にまで連れて行かれました。3.わたしはそういう人のことを知っています。それが体のままであったか、体を離れてであったかはわかりません。神はご存知です。4.その人はパラダイスへ連れて行かれ、人には口にすることが許されていない、言ってはならない言葉を耳にしました。5.こういう人について、わたしは誇りましょう。しかし、わたし自身については、弱さ以外に誇ることはこれからもありません。6.わたしが誇りたくなったとしても、真実を語るのですから、わたしは愚か者とはならないでしょう。でも、わたしは(誇ることは)さし控えます。だれもわたしのことを見たり、わたしから聞いたりする以上に、わたしを過大に評価してはいけません。7.それらの啓示が余りにもすばらしいからです。こういうわけで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられました。それは高慢にならないように、わたしを打つためのサタンの使いなのです。8.このことのために、わたしから離れ去らせてくださるようにと、三度も、わたしは主にお願いしました。9.すると、主がわたしに言われました。「わたしの恵みはあなたには十分である。(わたしの)力は弱さの中に完全に成し遂げられる」。ですから、キリストの力がわたしの上に宿るように、むしろ喜んで大いに自分の弱さを誇りましょう。10.こういうわけで、わたしは、弱さにも、侮辱にも、困窮にも、迫害にも、行き詰まりにも、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしが弱いときにこそ、わたしは強いからです。
11.わたしは愚か者になってしまいました。あなたがたが強いてわたしをそうさせたのです。わたしはあなたがたから推薦してもらのが当然です。わたしが取るに足りない者であったとしても、あの大使徒たちになんら劣ってはいなかったからです。12.(わたしの)使徒としてのしるしは、数々のしるしと不思議と力とによって、忍耐強くあなたがたの間で行われました。13.では、わたし自身があなたがたに負担をかけなかったこと以外に、あなたがたがほかの諸教会よりも劣っていたこととは何ですか。不公正な点については、どうか許してください。
14.知ってのとおり、わたしがあなたがたのところへ行く準備は、これが三度目です。わたしはあなたがたに負担をかけようとしているのではありません。わたしが求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた(自身)だからです。子供たちが親たちに(宝を)蓄えるのではなく、むしろ親たちが子供たちに(宝を)蓄えるべきだからです。15.わたしはこれからも大いに喜んで(宝を)使い、また、あなたがたの魂のために自分をささげ尽くすつもりです。わたしがあなたがたを愛すれば愛するほど、わたしはますます愛されなくなるのでしょうか。16.わたしがあなたがたに負担をかけなかったとしても、わたしは悪賢くあなたがたをだまして(宝を)手に入れたのだということになっています。17.わたしがあなたがたのところへ派遣した人々の中のいったい誰によって、わたしがあなたがたからだまし取ったと言うのでしょうか。18.わたしはテトスに頼んで、一人の兄弟を同行させましたが、そのテトスがあなたがたをだましたのでしょうか。わたしたちは同じ霊によって歩いてきたではありませんか。同じ足跡を歩いてきたではありませんか。
19.あなたがたは、わたしたちが弁明しているのだとずっと思ってきました。神の御前でキリストにあってわたしたちは言います。愛する方々よ、すべてのことはあなたがたを建て上げるためなのです。20.実は、わたしが(そちらに)行ってあなたがたを見るとき、あなたがたが、わたしの期待している人たちではなく、わたしもあなたがたの期待している者ではないのではないかと、わたしは恐れています。争い、ねたみ、怒り、党派心、悪口、陰口、高慢、騒動などがありはしないかと(恐れています)。21.わたしが再び(そちらに)行くとき、わたしの神があなたがたの故に、わたしに恥をかかせることにならないでしょうか。また、以前に罪を犯した人々の多くが、自分たちの行った汚れた行い、みだらな行い、不道徳な生活を悔い改めないでいるのを(見て)わたしが悲しむことにならないでしょうか。



★「それらの啓示があまりにもすばらしいからです」(7)
この一文は「口語訳」では省かれている。写本の違いからであろうか。


★子供たちが親たちに(宝を)蓄えるのではなく、親たちが子供たちに(宝を)蓄えるべきだからです。(14)
唐突に現れた言葉のような印象を持つが、「子供たち」をコリントの教会の信者たち、「親たち」をパウロとその宣教者たちに譬えることで、パウロが決して彼らから物質的、金銭的負担をかけまいとする気持ちを表現しているのである。





2016年4月7日木曜日

新約聖書原典「コリントの人々への手紙二」11章の翻訳(私訳)

コリントの人々への手紙  

11章


1.わたしの少しばかりの愚かさを、あなたがたが我慢してくれていればいいのですが。いや、あなたがたは我慢してくれています。2.わたしは神の熱い心をもってあなたがたを熱愛しています。わたしはあなたがたを聖なる乙女として、一人の夫であるキリストに捧げるために婚約させたのです。3.わたしは、へびが、その悪巧みによってエヴァを欺いたように、あなたがたの思いが腐敗し、キリストに対する純真さ[また誠実さ]が損なわれはしないかと心配しています。4.確かにあなたがたは、だれかがやって来て、わたしたちが宣べ伝えてもいない他のイエスを宣べ伝えても、あるいは、あなたがたが受けたことのない別の霊を、あるいは、あなたがたが受け入れたことのない別の福音を受け取っても、よくそれに耐えています。
5.わたしは、(あの)偉大な使徒たちに何ら劣る者ではないと思っています。6.たとえ、言葉の上では素人であっても、知識の上ではそうではありません。むしろ、わたしたちはすべての点で、すべての面であなたがたに明確に示してきました。7.それとも、あなたがたが高められるために、わたし自身、身を低くして、あなたがたに神の福音を無償で宣べ伝えたことで、わたしは罪を犯したのでしょうか。8.わたしはあなたがたに仕えるため、他の教会から奪い取ってまでして報酬を手にしました。9.わたしがあなたがたのところにいて窮乏した時、だれにも負担をかけませんでした。マケドニアから来た兄弟たちが、わたしの窮乏を補ってくれたからです。また、あらゆることで、わたし自身があなたがたの重荷にならないようにしてきましたし、これからもそうしていきます。10.これがわたしの中にあるキリストの真実ですが、わたしにとってのこの誇りは、アカイア地方において封じられることはないでしょう。11.どうしてでしょうか。わたしがあなたがたを愛していないからでしょうか。神はご存知です。
12.わたしが行っていることは、これからも行っていきます。それは、わたしたちと同じように、誇れる機会を見つけようとしている者たちのその機会を取り除くためです。13.こういう者たちは偽りの使徒たち、人をだます者たちであって、キリストの使徒たちを装っているのです。14.驚くには及びません。サタンでさえ、光の天使を装うのです。15.ですから、サタンに仕える者たちが義の奉仕者を装っても大したことではありません。彼らの終わりは彼らの業に即したものとなるでしょう。
16.もう一度言いますが、だれもわたしを愚か者と思わないでください。しかし、もし、愚か者と思うなら、わたしを愚か者として受け入れてください。わたしも少しは誇れるようになるでしょうから。17.わたしが話していることは、主(のみ心)に従ってではなく、むしろ、それによって誇れると確信しているので、愚か者のように話しているのです。18.多くの人々が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにします。19.思慮深いあなたがたですから、喜んで愚か者たちのことを我慢してくれるでしょう。20.事実、あなたがたは奴隷にされても、食いつぶされても、捕らえられても、威張られても、あなたがたの顔を叩かれても、それに耐えているからです。21.言うのも恥ずかしいのですが、わたしたちは弱すぎたのです。
誰かが何かのことで大胆に振る舞うなら、愚か者として言いますが、わたしも大胆に振る舞いましょう。22.彼らはヘブライ人ですか。わたしもそうです。彼らはイスラエル人ですか。わたしもそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。わたしもそうです。23.彼らはキリストの僕ですか。わたしは気が狂ったように言いますが、わたしはそれ以上です。苦労したことは余りにも多く、牢にいたことは余りにも多く、打ち傷を負ったことは数知れず、死に瀕したこともたびたびありました。24.ユダヤ人たちから四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度、25.(ローマ人たちから)杖の鞭で打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、船の遭難が三度、一昼夜、大海原を漂ったこともありました。26.幾度も旅をし、川の危険、盗賊たちからの危険、同胞たちからの危険、異邦人たちからの危険、町での危険、荒野での危険、海上での危険、偽兄弟たちからの危険に遭い、27.労苦し、苦難し、幾度も眠ることができず、飢え渇き、しばしば食べる物もなく、寒さに震え、裸でいたこともありました。28.その上さらに、日々、わたしに迫って来る諸教会のあらゆる心配事があります。29.だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれるでしょうか。だれかがつまずいているのに、わたしも燃え上がらないでおれるでしょうか。30.誇らねばならないのなら、わたしの弱さを誇りましょう。31.主イエスの父でもあられる神、永遠にほめたたえられる方は、わたしが偽りを言っていないことをご存知です。
32.ダマスコで、アレタ王の長官がわたしを捕らえようとダマスコ人たちの町を見張っていた時、33.わたしは窓から壁つたいに籠で吊り下ろされて、彼の手から逃れたのです。




★「わたしの少しばかりの愚かさ」(1)
  μου μικρόν τι ἀφροσύνης

おそらくコリントにやってきたユダイストたちが、パウロを「愚か者」のように吹聴していたのだろう。10章の冒頭の「面と向かってはあなた方の間では腰が低いが、離れているとあなた方に対して気が強くなる」も同様だが、、パウロはこうしたユダイストたちの吹聴を逆手にとって持論を展開するというのがパウロの自己弁護の特徴ともなっている。このことは16節から展開される彼の弁明に一層よく現れ、本当は「愚か者」のように思われたくはないが(16節)、かえってユダイストたちが言うように「愚か者のように」なることでユダイストたちとは違った「誇り」を主張することができた。その誇りとは、ユダイストたちが諸教会を廻ってはその報酬として金銭的要求をしていたのに対し、パウロはコリントの教会の人々のだれにも生活上の金銭的、物質的負担をかけず、無償で福音を宣教したという誇りである(9.10節)。

★「他のイエス」(ἄλλον Ἰησοῦν)と「別の霊」(ἢ πνεῦμα ἕτερον)、「別の福音」(εὐαγγέλιον ἕτερον)について。
「他の」ἄλλονは、同種のものでほかのもの、「別の」ἕτερονは他種のもので種類の異なるもの。ゆえに、「他のイエス」とは、同じイエスでも違ったイメージのイエス、イエスを誤って宣伝すること。「別の霊」、「別の福音」とは、パウロの伝えたのとは異なる、違った霊、違った福音のこと。ユダイストたちが伝えたのはそういうものだった。違った福音についてはガラテヤ1:6の解説を参照。

★「他の諸教会から奪い取ってまでして、報酬を手に入れました」(8)

これもユダイストたちが吹聴したうわさを逆手に取った言い方。

★ユダヤ人から受ける鞭(24)と、ローマ人から受ける鞭(25)

τρὶς ἐρραβδίσθην(枝の鞭で打たれたことが三度)。ここで使われている動詞ῥαβδίζωはローマ人が鞭うちの刑で使用する棒(枝)で作られた鞭のこと。ゆえに原典にはないが(ローマ人たちから)を挿入して訳した。「使徒たちの働き」16:22でパウロがローマ人から鞭打ちの刑に遭っているが、そこでもῥαβδίζω(枝の鞭)が使用されている。「ユダヤ人たちから四十に一つ足りない(鞭を)受けたことが五度」(24)の方では、「鞭」を意味する言葉は原典では使われていないが、「受けた」ということでその言葉自体は省略されている。