2010年7月27日火曜日

新約聖書原典「ヨハネによる福音書」14章の翻訳(私訳)

ヨハネによる福音書 

14章


1.「あなたがたの心が乱されてはならない。神を信じ、またわたしを信じなさい。2.わたしの父の家には住む場所が多くある。もし、なければ、『わたしはあなたがたのために場所を用意しに行く』と、あなたがたに言ったであろうか。3.そして行って、あなたがたのために場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのところに迎え入れよう。わたしのいるところに、あなたがたもいるようになるためである。4.[わたしが]どこへ行くのか、あなたがたはその道を知っている」。
5.トマスがイエスに言った。「主よ、あなたがどこへ行こうとしておられるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわたしたちにわかるでしょう」。6.イエスは彼に言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない。7.もしあなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知るだろう。今からあなたがたは父を知る。あなたがたは父をすでに見ているのである」。
8.フィリポがイエスに言った。「主よ、わたしたちに父を示してください。そうすればわたしたちは満足します」。9.イエスは彼に言われた。「フィリポよ、こんなにも長い間わたしはあなたがたと一緒にいるのに、わたしのことがわからないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。どうしてあなたは『わたしたちに父を示してほしい』と言うのか。10.わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話しているこれらの言葉は自分から話しているのではなく、わたしの内におられる父が、ご自分の業を行っておられるのである。11.あなたがたは、わたしが父の内におり、父もわたしの内におられることを信じなさい。もし信じることができないのなら、それらの業によって信じなさい。
12.わたしは心をこめてあなたがたに言う。わたしを信じる者は、わたしがしているこれらの業をするだろう。しかも、それより更に大きな業をするだろう。わたしが父のもとに行こうとしているからである。13.わたしの名によって願うことは何でも、それをかなえてあげよう。それは、父が子によって栄光をお受けになるためである。14.わたしの名によって願うなら、何でもわたしがかなえてあげよう。
15.わたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守ってくれるだろう。16.わたしも父にお願いして、別の助け主をあなたがたに遣わしていただこう。あなたがたといつまでも共にいていただくために。17.それは真理の御霊である。世はその方を受け入れることができない。なぜなら、世はその方を見ようとも知ろうともしないからである。あなたがたはその方を知っている。なぜなら、その方はあなたがたのそばにとどまり、あなたがたの内にいてくださるからである。
18.わたしは、あなたがたを孤児にはしておかない。あなたがたのところに帰ってくる。19.もう少しで、世はもうわたしを見なくなる。しかし、あなたがたはわたしを見る。なぜなら、わたしが生きているので、あなたがたも生きることになるからである。20.その日、あなたがたは、わたしが父の内におり、あなたがたもわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることを知るだろう。21.わたしの戒めを持ち、それらの戒めを守るその人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父から愛される。わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現わそう」。
22.イスカリオテではない方のユダがイエスに言った。「主よ、あなたは、わたしたちにはご自分を現わそうとなさったのに、世に対してそうなさらないのは、どうしてですか」。23.イエスは答えて彼に言われた。「もし誰でも、わたしを愛するなら、わたしの言葉を守るだろう。わたしの父もその人を愛してくださり、父とわたしはその人のところに行って、その人のそばに留まろう。24.わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしを遣わされた父の言葉である。
25.わたしはこれらの事を、あなたがたのそばにいるときに話した。26.しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によって遣わされる聖霊は、あなたがたに全てのことを教え、[わたしが]あなたがたに話しておいた全てのことを思い出させてくださる。
27.わたしは平安をあなたがたに残し、わたしの平安をあなたがたに与える。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるようなものではない。あなたがたの心が乱されてはならない。またおじけてもならない。28.『わたしは去って行き、またあなたがたのところに帰って来る』とわたしがあなたがたに話したのを、あなたがたは聞いた。あなたがたがわたしを愛しているなら、わたしが父のみもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも大いなる方だからである。29.わたしは今、事が起こる前にあなたがたに話した。それは事が起きた時、あなたがたが信じるようになるためである。30.もうこれ以上、わたしはあなたがたと多くを語れない。この世の支配者が来るからだ。しかも彼はわたしをどうすることもできない。31.しかし、わたしが父を愛していることを世が知るようにと、父がお命じになったとおりのことをわたしは行っているのである。立て、さあ、ここから行こう」。

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●「自然の中で聴く聖書」ヨハネによる福音書 14章


★ Μὴ ταρασσέσθω ὑμῶν ἡ καρδία(あなた方の心が乱されてはならない)
14章には、この同じフレーズの言葉が2度、1節と27節に出てくる。ταρασσέσθω は、乱すな、悩ますな、騒がすな、の3人称、単数、命令の受動態である。(ふつうは「心を乱すな」「心を騒がすな」であるが、主語が「心」なので上記のように訳すことが許されるであろう)。 ἡ καρδία(カルディア・心・/καρδία につぃての説明は12章の解説を参照)が主格(主語)で、心は常に何か目に見えない力によ って、常に脅かされている。だから「乱されないように」常に、神を信じ、主を信じることで、主から来る平安 で満たされている必要があるのだ…というメッセージが込められている。



2010年7月19日月曜日

新約聖書原典「ヨハネによる福音書」13章の翻訳(私訳)

ヨハネによる福音書 

13章


1.過越祭の前、イエスは、この世を離れ去って父のところに行くべきご自分の時が来たことを知って、世にいるご自分の者たちを愛し、彼らを最後まで愛された。2.夕食となり、悪魔はすでにイスカリオテのシモンの子ユダの心に、イエスを引き渡そうとする思いを入れていた。3.父が全てのものをご自分の手にお与えになり、また、神のもとから出て来て、また神のもとへ去って行こうとしていることを知って、4.イエスは夕食の席から立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰に巻き、5.それから、洗い桶に水を入れて弟子たちの足を洗って、腰に巻かれた手ぬぐいで拭きはじめられた。6.さて、シモン・ペトロのところに来られたので、彼はイエスに言った。「主よ、あなたがわたしの足を洗われるのですか」。7.イエスは答えて彼に言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにわからないが、あとでわかるようになる」。8.ペトロがイエスに言った。「決していつまでも、わたしの足を洗わないでください」。イエスは彼に答えられた。「もし、わたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしと何の関わりもなくなる」。9.シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、わたしの足だけでなく、手も、頭も」。10.イエスは彼に言われた。「既に洗った者は、足のほかは洗う必要がない。その人は全身が清いのだから。あなたがたは清い。しかし皆がそうなのではない」。11.イエスはご自分を引き渡そうとしている者を知っておられた。だから、「あなたがたすべての者が清いのではない」と言われたのである。
12.さて、弟子たちの足を洗い終わって、イエスは上着を着て再び食事の席についたとき、彼らに言われた。「わたしが、あなたがたにしたことがわかるか。13.あなたがたは、わたしを先生、また、主と呼んでいる。あなたがたがそう言うのは正しい。わたしはそうだからである。14.そこで、主であり、先生であるわたしが、あなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いの足を洗い合うべきである。15.わたしがあなたがたにしたように、あなたがたもするようにと、わたしはあなたがたに模範を示したのである。16.わたしは心をこめてあなたがたに言う。僕はその主人に優る者ではなく、遣わされた者は彼を遣わした方に優る者ではない。17.もし、そのことがわかっていて、これらのことを行うなら、あなたがたは幸いである。
18.わたしはあなたがたすべての者について言っているのではない。わたしはどのような者たちを選び出したかを知っている。しかしそれは『わたしのパンを食べている者が、わたしに対して、そのかかとを上げた』という聖書の言葉が成就されるためである。19.そのことが起こる前に、今からわたしはあなたがたに言っておく。それが起こった時に、わたしがそれであることを、あなたがたが信じるようになるためである。20.わたしは心をこめてあなたがたに言う。わたしが遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」。
21.こう言われて、イエスはこころを騒がし、証言して言われた。「よくあなたがたに言っておくが、あなたがたの中の一人が、わたしを引き渡そうとしている」。22.弟子たちは、誰の事を言っておられるのか、当惑しながら互いに見つめ合った。23.弟子たちの中の一人で、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で食卓に寄りかかって座っていた。24.そこでシモン・ペトロがこの弟子に、その人が誰なのか、誰の事を言っておられるのか尋ねるよう合図した。25.するとその弟子は、イエスの胸の方に向き直って言った。「主よ、それは誰のことですか」。26.イエスは答えられた。「わたしが一切れのパンを浸して彼に与える、それがその人である」。そこでイエスは一切れのパンを[取り、]浸してから、イスカリオテのシモンの子ユダに与えられた。27.その時、一切れのパンと共に、サタンがその人の中に入った。そこで、イエスが彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、急いでしなさい」28.食卓についている者たちは誰も、なぜイエスが彼にこう言われたのか理解できなかった。29.ある弟子たちは、ユダが金入れを保管していたので、イエスが彼に「祭りに必要なものを買いなさい」とか、「貧しい人々に何か施すように」と言われたのだと思った。30.するとその人は、一切れのパンを受け取るとすぐに出て行った。夜のことであった。
31.さて、彼が出て行った時、イエスは言われた。「今、人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった。32[神が彼によって栄光を受けられたのであれば]、神もご自身によって、彼に栄光をお与えになるだろう。すぐにも彼に栄光をお与えになるだろう。33.子たちよ、わたしは、今しばらくはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。わたしがユダヤ人たちに『わたしが行く所に、あなたがたは来ることができない』と言ったように、今、あなたがたにも言っておく。34.わたしは新しい戒めをあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35.互いの間に愛があるならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、多くの人たちが知るようになるのである」。

36.シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ去って行かれるのですか」。イエスが[彼に]答えられた。「わたしが去って行くところに今はついて来ることはできないが、あとでついて来ることになる」。37.ペトロがイエスに言った。「主よ、どうして今はあなたについて行くことができないのですか。あなたの為ならわたしの命を投げ出します」。38.イエスが答えられた。「わたしの為にあなたの命を投げ出すのか。よくよく言っておくが、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。


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●「自然の中で聴く聖書」ヨハネによる福音書 13章


★「イエスはこころを騒がし」(21)
   εταράχθη  τω  πνεύματι (エタラクテー トー プニューマティ)

12章27節において、「わたしのこころは騒いでいる」を取り上げて説明したが、ここで使われている「騒ぐ」のギリシア語は12:27のそれと同じ。違いは「こころ」に使われているギリシア語である。12:27では ψυχή(プシュケー)だが、ここでは πνεύμα(プニューマ)である。ここで両者の違いを述べておこう。新約聖書ギリシア語小辞典(織田 昭・編)の解説がわかりやすいので紹介しておきます。
ψυχή」(プシュケー)は肉的人間の主体であり、人格の中心部分、自己、自我を形成するものであって、思考し、情緒を感じ、意思し、行動する主体である。それは心理学の研究対象となるものである。それは思想を生み、美を理解し、文化を生み出す主体であるが、聖書的立場から見れば、『肉』であって、必ずしも人間を(本来の)人間とする『神のかたち』ではない。それらの能力は甚だしい程度の差はあっても、動物にも備わっているものであろう。
これに対して「πνεύμα (プニューマ)は人にだけ備わっているもので、人を本当に人とし、神のかたちに造られた人間の本質的部分である。πνεύμα(プニューマ)は ψυχή(プシュケー)を離れて存在しないが、それの内奥にあって人を本当に人として生きさせる可能性である。πνεύμαとは、すなわち『神を知る能力』であり、『神と交わり、神の愛を喜ぶことができる能力』言い換えれば、生きておられる神と『あなたとわたし』という人格的関係に立つことができる能力である。」
この意味から解釈すると、21節の「イエスはこころを騒がし」は、ユダの裏切り~十字架という「父と子の関係が絶たれるほどの」恐怖の念を抱いて耐えておられるイエスの心中を読み取ることができる。

★34節を原文どおりに訳すと次のようになる。
「わたしは新しい戒めをあなたがたに与える。それはあなたがたが互いに愛し合うためです。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたもまた、互いに愛し合うためです」

Ἐντολὴν καινὴν δίδωμι ὑμῖν, ἵνα ἀγαπᾶτε ἀλλήλους, καθὼς ἠγάπησα ὑμᾶς ἵνα καὶ ὑμεῖς ἀγαπᾶτε ἀλλήλους.(34)

上の原文中には「あなた方は互いに愛し合いなさい」という命令形では書かれていない。ただ掟を与える理由(ἵνα ἀγαπᾶτε 愛するため)が述べられているだけで、(愛しなさい)とは述べれれていない。しかし、後半の(καθὼς ἠγάπησα ὑμᾶς わたしがあなた方を愛したように)、また、35節の(ἐὰν ἀγάπην ἔχητε ἐν ἀλλήλοιςもしあなた方が互いに愛し合うならば)という文脈から、(愛することへのイエスの願い)が表わされている。したがって、34節は「あなたがたもまた互いに愛し合いなさい」と訳すことが許されるであろう。34節で使われている(ἵνα ἀγαπᾶτε )(ἵνα καὶ ὑμεῖς ἀγαπᾶτε )と同様の使用例では、エフェソ5:33( γυνὴ ἵνα φοβῆται τὸν ἄνδρα.妻も夫を敬いなさい)があり、ここも命令形として訳されている事に注意。34は新共同訳、口語訳、新改訳はいずれも「愛し合いなさい」と命令形で訳していることも参照。

★27節後半は、λέγει οὖν αὐτῷ ὁ Ἰησοῦς· ὃ ποιεῖς ποίησον τάχιον. (するとイエスが彼に言われた。「あなたがしていることを、急いでしなさい」)である。ここで使われているὃ ποιεῖς あなたがしていること)は現在形が使われており、これからしようとすることではなく、現在すでにその行為が行われていることであり、「あなたが行いつつあることを、急いでしなさい」という意味である。新共同訳、口語訳、新改訳共に「あなたが(これから)しようとしていること」と訳しているが、原文には「あなたが(今)していること」のニュアンスがあることに注意。これはマタイ25:14~16、マルコ14:10~11、ルカ22:3~6とも整合性があるのではないだろうか。ユダは事実すでにイエスを裏切っていたのである。