2013年5月29日水曜日

新約聖書原典「ルカによる福音書」5章の翻訳(私訳)

ルカによる福音書 

5章


1.さて、群衆が神の言葉を聞こうとイエスに押し寄せて来たが、イエスはゲネサレの岸辺に立っておられた。2.イエスは岸辺に二そうの小舟が置いてあるのをご覧になった。漁師たちは舟からおりて網を洗っていた。3.イエスはその内の一そう、シモンの舟に乗り込み、彼に岸から少し漕ぎ出すように頼んだ。そして腰をおろして、舟から群衆にお教えになった。
4.話し終えるとシモンに、「深いところに漕ぎ出し、網をおろして漁をしなさい」と言われた。5.シモンが答えて言った。「先生、わたしたちは夜通し苦労して働きましたが何も得られませんでした。しかし、お言葉ですから網を下ろしてみましょう」。6.そこで、彼らがそのようにすると、おびただしい数の魚がとれて、彼らの網が破れそうになった。7.そこで他の舟にいる漁師仲間たちに加勢に来るように合図した。彼らは来たが、両方の舟が(魚で)一杯になって舟が沈みそうになった。8.これを見てシモン・ペトロはイエスに両膝をつき、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者ですから」と言った。9.シモンも彼と一緒にいた者たちも皆、とれた魚にびっくり仰天したからである。10.シモンの仲間であったゼベダイの息子たちのヤコブとヨハネも同様であった。するとイエスがシモンに言われた。「恐れるな、今からあなたは人間をすなどる者となるのだ」。11.彼らは舟を陸に引き上げ、全てを捨ててイエスに従った。
12.さて、イエスがある町におられたとき、見よ、全身に重い皮膚病を患っている人がイエスを見て、御前にひれ伏し願って、「主よ、御心でしたらわたしを清めることがおできになります」と言った。13.イエスはその御手を伸ばしてその人に触れ、「そうしてあげよう。清くなれ」と言われた。するとすぐに、重い皮膚病がその人から消え去った。14.イエスはその人に、「誰にも話さないように、ただ行って自分の体を祭司に見せ、人々に証明するためモーセが命じたように、あなたのきよめのための捧げものをささげなさい」とお命じになった。15.しかし、イエスについての評判はますます広まり、大勢の群衆が話を聞こうと、また自分たちの病気を治してもらおうと集まって来た。16.しかし、イエスご自身は寂しい所に退いて、祈っておられた。
17.ある日のこと、イエスは教えておられた。そこには、ガリラヤの全ての村や、ユダヤとエルサレムから来ていたファリサイ派の人々と律法の教師たちが座っていた。主の力が働いてイエスは病気を治しておられた。18.すると見よ、男の人たちが中風を患っている男の人を寝台に乗せて運び、彼を(家の中に)運び入れイエスの前に置こうとした。19.しかし群衆のため、もはや彼を運び入れる方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはぎ、寝台ごと彼をイエスの真ん前に吊りおろした。20.イエスは彼らの信仰をご覧になって言われた。「人よ、あなたの罪は赦されている」。21.すると律法学者たちとファリサイ派の人たちが論じ始めて言った。「汚しごとを言うこの人はいったい何者か。神お一人のほか誰が罪を赦すことができようか」。22.しかし、イエスは彼らの考えを見抜いて、彼らに答えて言われた。「何を心の中で論じ合っているのか。23.『あなたの罪は赦されている』と言うのと、『立って歩け』と言うのと、どちらが易しいか。24.しかし、人の子はこの地上で罪を赦す権能を持っていることがあなたがたに分かるために」と言って、中風を患っているこの人に言われた。「あなたに言う。起き上って、あなたの床をかついで、自分の家に帰りなさい」。25.すると、ただちにその人はみんなの前で立ち上がり、寝ていた床をかついで、神を讃えながら自分の家に帰って行った。26.みんなの者は驚いて神を賛美し、畏れの念に満たされて、「今日は驚くべきことを見た」と言った。
27.その後、イエスは(そこの家を)出て行かれ、レビという名の徴税人が収税所に座っているのをご覧になり、彼に「わたしに従いなさい」と言われた。28.すると彼は全てを捨てて立ち上がり、イエスに従った。29.そして、レビは自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには彼らと一緒に徴税人たちや他の人々も大勢いて、一緒に食事の席についていた。30.すると、ファリサイ派の人々と律法学者たちがつぶやきながらイエスの弟子たちに、「どうしてあなたたちは、徴税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのか」と言った。31.イエスは答えて彼らに言われた。「健康な人たちには医者は要らない。要るのは病気の人たちである。32.わたしは義人たちを招くためではなく、罪人たちを招いて悔い改めさせるために来たのである」。
33.しかし彼らはイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食をし、祈りをしています。ファリサイ派の弟子たちも同様です。しかし、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています」。34.しかし、イエスは彼らに対して言われた。「あなたがたは、その場に花婿が一緒にいるのに、婚礼に招かれている友人たちに断食をさせることができるだろうか。35.しかし、花婿が彼らから取り去られる日が来る。その日には、彼らは断食をするだろう」。
36.そして、イエスは彼らに対して譬えを語り始められた。「誰も新しい服から布切れを切り取って、古い服の破れにつぎ当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も切り裂き、新しい服から切り取った布切れも古い服には不似合いとなる。37.誰も新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を破って流れ出し、皮袋も駄目になる。38.むしろ、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。39.また、誰でも古いぶどう酒を飲むと、新しいぶどう酒を飲みたがらない。『古いぶどう酒が良い』と言うからだ」。




★19節の「屋根に上って瓦をはぎ」の「はぎ」は意訳で、「瓦を通じて」が原語に近い。

ἄνθρωπε, ἀφέωνταί σοι αἱ ἁμαρτίαι σου  20
 「人よ、あなたの罪は赦されている  

上記の部分の意味を正確に訳せば、「人よ、あなたの数々の罪は(すでに)赦されたし、今も赦されている」 となる。なぜなら、「赦されている」を表す動詞 ἀφέωνταί (アフェオーンタイ)は『現在完了形』で書かれているからである(マルコ2:5の平行箇所では現在形が使われている)。ギリシア語の現在完了は、過去におきた出来事の結果が現在においても有効であることを意味しているので、上記のような意訳となる。αἱ ἁμαρτίαι罪)はここでは複数で書かれていることにも注意。

★「ヨハネの弟子たちはたびたび断食をし、祈りをしています」(33)

     33節の「祈り」と訳した部分のギリシア語は δέησιϛ(デエーシス)で、新約聖書で神に祈る場合に用いる προσευχή(プロセウケー・祈り)とは異なる。後者は主に、神への祈りに限られて用いられるが、前者は、必要なものを求めてする祈り(嘆願、請願)の場合と、さらには人間に対する頼みにも用いられる。33節でファリサイ派の人々が言うヨハネの弟子たちの祈りとは、こうした祈りを指すものであった。




2013年5月15日水曜日

新約聖書原典「ルカによる福音書」4章の翻訳(私訳)

ルカによる福音書 

4章


1.イエスは聖霊に満たされてヨルダン川から戻られたが、御霊によって荒野を連れまわされていた。2.四十日の間、悪魔によって試みられるためである。その間なにもお食べにならず、それらの期間が終わってから空腹になられた。3.すると悪魔がイエスに言った。「もしあなたが神の子なら、この石に、パンになるように言ってごらんなさい」。4.イエスは彼に答えられた。『人はパンだけでは生きられない』と書かれている。
5.また悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、一瞬のうちにこの世の王国の全てを見せて、6.イエスに言った。「これら全ての権力とその栄華をあなたにあげましょう。それらはわたしに委ねられていて、わたしの思い通りにそれを与えることができるからです。7.だからあなたが、もしわたしの前にひれ伏すなら、それは全てあなたのものとなるでしょう」。8.イエスは答えて彼に言われた。『あなたは、あなたの神である主を拝し、ただ主にのみ仕えるであろう』と書かれている。
9.悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の一番高い所に立たせて言った。「もしあなたが神の子なら、ここから下に飛び降りてごらんなさい。
10.『あなたのために、彼の天使たちに命じて、あなたを守られるであろう』
と書かれてあり、11.また、
『手であなたを支えて、
あなたの足が、石に打ちつけられないようにする』
とも書かれていますから」。
12.イエスは彼に答えて言われた。『あなたの神である主を、あなたは試みないであろう』と言われている。
13.すべての誘惑をなし終えると、悪魔はしばらくの間イエスから離れた。
14.それからイエスは御霊の力によってガリラヤへ戻られた。イエスについての評判は、その地方全体に広まった。15.イエスは彼らの会堂で教え、多くの人々から崇められた。
16.そしてお育ちになったナザレに行き、安息日に慣例に従って会堂に入り、(聖書を)朗読するために立ち上がり、17.預言者イザヤの書を渡され、その巻物を開いてこう書かれているところを見つけられた。
18.『主の霊がわたしに臨んだ。
それは貧しい人々に福音を伝えるために、
わたしに油を注がれたからである。
主はわたしを遣わして、
捕われ人たちに開放を告げ知らせ、
目の見えない人々の目を開き、
抑圧されている人々を解き放ち、
19.主の恵みの年を知らせられる。』
20.イエスは巻物を巻いて係の者に返し、席に着かれた。会堂にいる全ての人々の目がイエスに注がれていた。21.そこでイエスは彼らに、「あなたがたが耳にしたこの聖句は、きょう実現した」と言い始められた。22.みんなの者はイエスを証しして、イエスの口から出る恵み深いそれらの言葉に驚いていた。そして言った。「この人はヨセフの子ではないか」。23.イエスは彼らに対して言われた。「あなたがたはきっとわたしに、『医者よ、自分自身を治せ』というこのことわざを引いて、『我々が聞いたカファルナウムで行われたすべてのことを、ここ、あなたの郷里でも行え』と言うだろう。24.しかし、わたしはあなたがたによく言っておく。どんな預言者も、自分の郷里では歓迎されないものだ。25.わたしは真実に基づいてあなたがたに言う。エリヤの時代に、三年六か月の間、天が閉ざされて地の全面にひどい飢饉がおきたとき、イスラエルには多くのやもめ達がいたが、26.エリヤは彼女たちの誰にも遣わされないで、ただシドンのサレプタにいるやもめの婦人のもとにだけ遣わされた。27.また、預言者エリシャの時代、イスラエルには多くの重い皮膚病を患う人々がいたが、シリア人ナアマン以外、彼らの誰ひとり清められなかった。28.これらを聞いて、会堂にいる人々は皆、怒りをつのらせ、29.立ち上がってイエスを町の外へ追い出し、彼らの町が建っている山の崖まで連れて行き、イエスを突き落とそうとした。30.しかしイエスは、彼らの真ん中を通り抜けて歩いて行かれた。
31.そして、ガリラヤの町カファルナウムに下られ、安息日に人々を教えておられた。32.人々はイエスの教えに驚嘆していた。それはイエスの言葉に権威があったからである。
33.さて、その会堂に汚れた悪霊にとりつかれた人がいて、大声で叫んだ。34.「ああ、ナザレのイエス、我々とあなたと何の関わりがありますか。我々を滅ぼすために来られたのですか。わたしはあなたが誰だか分かっています。神の聖者です」。35.イエスは彼に命じて言われた。「黙れ、この人から出て行け」。すると悪霊はその人を人々の中に投げ倒して、何の害も与えずにその人から出て行った。36.人々はすべてに驚いて、互いに語り合いながら言った。「この言葉はいったいどういうことだろう。権威と力とで、汚れた霊どもに命じると出て行くとは」。37.そして、イエスについての評判がその地方一帯に広まっていった。
38.イエスは会堂を去って、シモンの家にお入りになった。ところが、シモンのしゅうとめが重い熱病にかかっていて、人々は彼女のことをイエスにお願いした。39.イエスは彼女の傍らに立って熱にお命じになると、熱が引き、彼女はすぐに起き上って一行をもてなした。
40.日が沈むと、さまざまな病気で病んでいる人々を抱える人たちが皆、彼らをイエスのもとに連れて来たので、イエスは彼らのひとりひとりに手を置いてお癒しになった。41.悪霊どもも、「あなたは神の子だ」と言って叫びながら大勢の人々から出て行った。イエスは悪霊どもを叱って、ものを言うのをお許しにならなかった。悪霊どもは彼がキリストであることを知っていたからである。
42.朝になって、イエスは寂しい所に出掛けて行かれた。すると群衆はイエスを捜し回り、彼のところへやって来て、自分たちから離れて行かないようにとイエスを引きとめた。43.しかしイエスは彼らに、「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えなければならない。そのためにわたしは遣わされたのだから」と言われた。44.そしてユダヤの諸会堂で宣べ伝えておられた。




διάβολος (2)と δαιμόνιον(33) 
ディアボロスとダイモニオン

両者はどちらも「悪魔」を表す言葉である。新約聖書において悪魔を意味する言葉がこのように二通りに使い分けられている。2節でイエスを誘惑したのは διάβολος (ディアボロス) で、33節以下に登場する悪魔は δαιμόνιον (ダイモニオン) である。両者の違いはその名詞の性にある。
διάβολος は男性名詞で形を持った悪魔を表すことが多い。それに対し、δαιμόνιονは中性名詞で形を持たない悪魔で「悪霊」と訳されることが多いようである。

ὅτι ᾔδεισαν τὸν χριστὸν αὐτὸν εἶναι (41)
「なぜなら、彼ら(悪霊たち)は彼(イエス)がキリストであることを知っていたからである

悪霊たちがイエスをキリストだと知っていたからだ、という意味のὅτι ᾔδεισαν の動詞には過去完了形が使われている。新約聖書では普通、ある事実を「知っている」という場合、「完了形」(現在完了)が使われることが多い。完了とは新約ギリシア語の場合、ある事実を「知った」という行為の結果が現在も有効、つまり「現在も知っている」ことを意味するからである。ところが41節で「過去完了」が使われているのは、悪霊がイエスがキリストであることを知ったのはすでに過去のことであり、その行為の結果も過ぎ去っており(過去において完了しており)、現在は「知っていない」ことを表しているからだと解釈できる。イエスをキリストであることを知っているのは、「現在の信仰のことがら」だからである。ゆえに「あなたは神の子だ」(41)という悪霊による告白はすでに過去のこととして終わっており、真実のものとは言えないのである。





2013年5月6日月曜日

新約聖書原典「ルカによる福音書」3章の翻訳(私訳)

ルカによる福音書 

3章


1.皇帝ティベリウスの治世の十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、ヘロデの兄弟フィリポがイトラヤとトラコニア地方の領主、リサニアがアビレネの領主、2.アンナとカイアファが大祭司であったとき、神の言葉が荒野でザカリアの子ヨハネに臨んだ。3.そして彼はヨルダン川の辺り一帯に来て、罪の赦しを得させるための悔い改めのバブテスマを宣べ伝えていた。4.預言者イザヤの書にこう書かれているように。
『荒野で叫ぶ者の声がする。
主の道を備えよ、
主の道筋をまっすぐにせよ。
5.すべての谷は埋められ、
すべての山と丘とは低くされるであろう。
曲がった道はまっすぐに、
でこぼこの道は滑らかとなる。
6.すべての肉なる者は、
神の救いを見るであろう。』
7.そこでヨハネは、彼からバプテスマを授けてもらおうと出て来た群衆に言った。「まむしの子らよ、迫りくる怒りから逃れられると誰がお前たちに教えたのか。8.だから、悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々には父アブラハムがいる』などと思い始めてもみるな。だからわたしはお前たちに言う。神はこれらの石からでもアブラハムの子供たちを興すことがお出来になるのだ。9.すでに斧が木々の根元に置かれている。だから良い実を結ばない木は全て切り倒されて、火に投げ込まれる」。
10.群衆はヨハネに尋ねて言った。「では、わたしたちは何をすれば良いのでしょうか」。11.そこでヨハネが答えて彼らに言った。「二枚の下着を持っている者は、持たない人に分け与えなさい。食物を持っている者も同じようにしなさい」。12.徴税人たちもバプテスマを受けるためにやって来て、ヨハネに言った。「先生、わたしたちは何をすれば良いのでしょうか」。13.ヨハネは彼らに対して言った。「あなたがたに定められた以上のものを取り立ててはいけない」。14.兵役に服する者たちもヨハネに尋ねて言った。「では、わたしたちも何をすれば良いのですか」。ヨハネは彼らに言った。「誰からもゆすり取ったり、だまし取ったりしてはいけない。自分たちの給料で満足しなさい」。
15.群衆はみな期待して、心の中でヨハネのことを、「もしかしてこの方がキリストではないか」と考えていた。16.ヨハネは答えてみんなに言った。「わたしはあなたがたに水でバプテスマを授けているが、わたしより力のある方が来られる。わたしはその方の履物のひもを解くにも値しない者。その方は聖霊と火とによってあなたがたにバプテスマをお授けになるだろう。17.その方は手にある箕をもってご自分の脱穀場を徹底的にきれいになさり、麦をご自分の倉に集め、もみ殻を燃え尽きることのない火で焼かれるだろう」。
18.ヨハネはこれ以外にも多くの勧めをして、群衆に福音を伝えていた。19.さて、領主ヘロデはヨハネから、自分の兄弟の妻ヘロディアのことで、またヘロデが行ったあらゆる悪事について、その罪を譴責されていたので、20.ヨハネを牢に閉じ込めて、全ての悪事の上にこの悪事をも重ねた。
21.群衆がみなバプテスマを受け、イエスもバプテスマを受けて祈っておられると、天が開け、22.聖霊が鳩のように目に見える形でイエスの上に降り、天から声がした。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」。
23.このイエスが(教えを)始められたのはおよそ三十歳の頃で、ヨセフの子と見なされていた。ヨセフはエリの子、24.エリはマタトの、マタトはレビの、レビはメルキの、メルキはヤンナイの、ヤンナイはヨセフの、25.ヨセフはマタティアの、マタティアはアモスの、アモスはナウムの、ナウムはエスリの、エスリはナガイの、26.ナガイはマハトの、マハトはマタティアの、マタティアはセメインの、セメインはヨセクの、ヨセクはヨダの、27.ヨダはヨハナンの、ヨハナンはレサの、レサはゼルバベルの、ゼルバベルはシャルティエルの、シャルティエルはネリの、28.ネリはメルキの、メルキはアディの、アディはコサムの、コサムはエルマダムの、エルマダムはエルの、29.エルはヨシュアの、ヨシュアはエリエゼルの、エリエゼルはヨリムの、ヨリムはマタトの、マタトはレビの、30.レビはシメオンの、シメオンはユダの、ユダはヨセフの、ヨセフはヨナムの、ヨナムはエリアキムの、31.エリアキムはメレアの、メレアはメンナの、メンナはマタタの、マタタはナタンの、ナタンはダヴィデの、32.ダヴィデはエッサイの、エッサイはオベドの、オベドはボアズの、ボアズはサラの、サラはナアソンの、33.ナアソンは.アミナダブの、アミナダブはアドミンの、アドミンはアルニの、アルニはヘスロムの、ヘスロムはペレツの、ペレツはユダの、34.ユダはヤコブの、ヤコブはイサクの、イサクはアブラハムの、アブラハムはテラの、テラはナホルの、35.ナホルはセルグの、セルグはレウの、レウはペレグの、ペレグはエベルの、エベルはサラの、36.サラはカイナムの、カイナムはアルパクシャドの、アルパクシャドはセムの、セムはノアの、ノアはレメクの、37.レメクはメトシェラの、メトシェラはエノクの、エノクはヤレドの、ヤレドはマハラルエルの、マハラルエルはカイナムの、38.カイナムはエノスの、エノスはセツの、セツはアダムの、アダムは神の子である。



★8節の「父」(πατήρ パテール)は「父祖」とも訳す。

  ἑτοιμάσατε τὴν ὁδὸν κυρίου,εὐθείας ποιεῖτε τὰς τρίβους αὐτοῦ·(4)
「主のを備えよ、主の道筋を真っ直ぐにせよ」4節

上記はイザヤ書40:3~6の引用であるが、最初のὁδὸν(ホドン・道)は一般的な「道」を意味しており、単数(一筋の道)を示しているが、後半のτρίβους(トリブース)は「小道」または比喩的な「進路」「方向」などを意味し複数(数々の小道、進路)で表されている。イエスが歩まれることになるはずの困難で多様な生き方を暗示しているように思われる。