2011年5月3日火曜日

新約聖書原典「マルコによる福音書」3章の翻訳(私訳)

マルコによる福音書 

3章


1.イエスは再び会堂に入られた。すると、そこに一人の片手の萎えた人がいた。2.人々はイエスを訴えようと、安息日にイエスがこの人を癒されるかどうか様子をうかがっていた。3.するとイエスは、その片手が萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われて、4.彼らに言われた。「安息日に、許されていることは善を行うことか、それとも悪を行うことか。いのちを救うことか、それとも殺すことか」。しかし人々は黙っていた。5.イエスは怒りを抱いて彼らを見回し、彼らの心が頑固なのに深く悲しまれ、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。その人が伸ばすと彼の手が回復した。6.するとファリサイ派の人たちがすぐに(会堂から)出て行き、ヘロデ党の者たちと一緒に、イエスに反対してどのように彼を殺そうかと相談した。
7.それからイエスは弟子たちと一緒に湖の方へ退かれたが、ガリラヤからおびただしい数の人々が[ついて来た]。ユダヤから、8.エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの向うから、またティルスとシドンの辺りからもおびただしい数の人々が、イエスのなさっていた数々のことを聞いて、イエスのもとにやって来た。9.イエスは弟子たちに、群衆に押しつぶされないよう、御自分に「小舟を用意してほしい」と言われた。10.イエスが多くの人を癒されたので、病気に苦しむ大勢の人たちがイエスに触ろうと押し寄せていたからである。11.汚れた霊どももイエスを見て、イエスの前にひれ伏し、「あなたは神の子だ」と言って叫んでいた。12.イエスは霊どもに、「ご自分のことを明かさないように」と厳しく戒められた。
13.イエスは山に登り、御心にかなう人々を呼び寄せると、彼らはイエスのもとに集まって来た。14.そこでイエスは十二人を任命された。[彼らは使徒と名づけられた]。それはご自分と一緒にいるようにするため、また宣教に遣わすためであり、15.また、悪霊どもを追い出す権能を持たせるためである。16.[そして十二人をお召しになり]シモンには「ペトロ」という名をつけられた。17.またゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟のヨハネには「ボアネルゲス」すなわち「雷の子たち」という名をつけられた。18.また、アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党員のシモン、19.それに、イスカリオテのユダである。このユダがイエスを引き渡したのである。
20.イエスが家に戻られると、群衆も再び集まって来たので、一同は食事をとることもできなかった。21.するとイエスの身内の者たちが(この事を)聞いて、彼を連れ戻す為に出てきた。「あの男は気が狂っている」と人々が言っていたからである。22.エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」とも、「悪霊どもの頭によって悪霊どもを追い出しているのだ」とも言っていた。
23.そこでイエスは彼らを呼び寄せ、譬えで彼らに話された。「サタンがサタンを追い出すことなど、どうして出来ようか。24.もし国が内部で分裂すれば、その国は立ち行かない。25.もし家庭が内部で分裂すれば、その家庭は成り立たなくなるだろう。26.もしサタンが内輪もめして分裂したなら、立ち行かなくなるばかりか、滅びてしまう。27.しかし、もし初めに強い者を縛りあげなければ、誰も強力な家に押し入って、その家の家財を奪い取ることはできない。そうした後で彼の家を奪い取ることができる。
28.よくあなたがたに言っておくが、人々の子らには(その犯す)あらゆる罪も、たとえ(神を)冒涜するどんな不敬な言葉もすべて赦されるだろう。29.しかし聖霊に対して冒涜する者は、永遠に赦されることがないばかりか、永遠の罪の裁きを受けねばならない」。30.(イエスがこのように言われた)のは、人々が「彼は汚れた霊にとりつかれている」と言っていたからである。

31.イエスの母が来て、兄弟たちも外に立っていたが、彼らはイエスを呼ぶために人を彼のもとに遣わした。32.群衆がイエスの周りに座っていた。彼らはイエスに言った。「ご覧なさい。あなたのお母様とご兄弟[と姉妹]たちが外であなたを捜しておられます」。33.そこでイエスは答えて彼らに言われた。「わたしの母とは誰のことか。また、[わたしの]兄弟たちとは誰のことか」。34.そして、ご自分の周りを取り囲んで座っている人々を見回して言われた。「見なさい。(これこそ)わたしの母、わたしの兄弟たちである。35.神の御心を行う者こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだから」。




●「自然の中で聴く聖書」マルコによる福音書 3章

◆ πάντα ἀφεθήσεται τοῖς υἱοῖς τῶν ἀνθρώπων τὰ ἁμαρτήματα καὶ αἱ βλασφημίαι ὅσα ἐὰν βλασφημήσωσιν· (28)

「人々の子らには(その犯す)あらゆる罪も、たとえ(神を)冒涜するどんな不敬な言葉もすべて赦されるだろう」(28)

上記は28節のイエスの言葉である。ここでイエスは、人の犯す可能性のあるあらゆる罪も、例え神への不敬の言葉さえ、その赦される罪のうちに含められた。πάντα…τὰ ἁμαρτήματα は「全ての罪」と複数形になっており、意味上は「人がいかに多く罪を犯しても」であり、更にそれに続くὅσα ἐὰν 「例えどれほど多く」は、(神を)冒涜する言葉を「例えどれほど多く語ってさえも赦される」という意味になる。これに対し29節の「しかし聖霊に対して冒涜する者は、永遠に赦されることがないばかりか、永遠の罪の裁きを受けねばならない」は δέ 「しかし」で始まるように、28節とは意味的に完全なる対立句である。イエスがこのように厳しい言葉で述べられたのは、明らかに聖霊によって行われているイエスの業を、悪霊によって行われていると言い放った律法学者の罪をけん責するためであったと思われる。