2016年5月30日月曜日

新約聖書原典「テサロニケの人々への手紙一」1章の翻訳(私訳)

テサロニケの人々への手紙 一 


1章


1.パウロとシルワノとテモテから、父なる神と主イエス・キリストにあるテサロニケの人々の教会へ、恵みと平安があなたがたにあるように。

2.わたしたちは、祈りの度ごとにあなたがた一同のことを覚え、いつも神に感謝しています。3.わたしたちは、あなたがたの忠実な働きと愛の労苦を、またわたしたちの主イエス・キリストにある希望と忍耐とを、わたしたちの父でもある神の御前にいつも思い起こしています。4.神によって愛されている兄弟たちよ、わたしたちはあなたがたが神に選ばれた者であることを知っています。5.なぜなら、わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、言葉によるだけでなく、力と聖霊と強い確信にもよったからです。あなたがたのところで、わたしたちがあなたがたのためにどのように振る舞ったかは、ご存知のとおりです。6.あなたがたは大きな苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちと主とに倣う者となりました。7.こうしてあなたがたは、マケドニアとアカイアにいるすべての信仰者たちの模範となったのです。8.とういのは、あなたがたから出た主の言葉は、マケドニアとアカイアだけでなく、神に対するあなたがたの信仰が伝えられているあらゆるところに響き渡っているので、わたしたちは何も言う必要がないほどです。9.なぜなら、わたしたちがどのようにあなたがたのところへ入って行き、どのようにあなたがたが偶像などから神に立ち帰り、生けるまことの神に仕える者となったかを、彼ら自身がわたしたちのために伝えているからです。10.また、天から来られる神の御子を(どのように)待ち望むようになったかも伝えています。この御子を神は死者たちの中から復活させ、このイエスを、来たるべき(神の)怒りからわたしたちを救う者とされたのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
●「自然の中で聴く聖書」Ⅰ テサロニケの人々への手紙 1章



ἀδελφοὶ ἠγαπημένοι ὑπὸ [τοῦ] θεοῦ (4)
「神に愛されている兄弟たちよ」

ἠγαπημένοι は「完了形」が使われている。その根本義は、神にすでに 「愛された。それゆえに今も愛されている」である。

★4節の直訳は「わたしたちはあなたがたの (神による)選びを知っています」(4) 
 他の訳はこの部分を意訳しているものが多い。

「あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています」(新共同訳)
「わたしたちは、あなたがたが神に選ばれたことを知っている」(口語訳)
「あなたがたが神に選ばれた者であることを私たちが知っています」(新改訳)

          いつもの散歩道

2016年5月25日水曜日

新約聖書原典「ガラテヤの人々への手紙」6章の翻訳(私訳)

ガラテヤの人々への手紙 

6章


1.兄弟たちよ、もし人が罪過に陥っていることが分かったなら、霊に満たされているあなたがたは、このような人を柔和な心をもって正しなさい。また、あなたがたも誘惑に陥らないように、自分自身を見張っていなさい。2.互いに重荷を負い合いなさい。こうしてあなたがたはキリストの律法を全うするのです。3.自分が何者でもないのに、そうであるかのように考える人がいれば、その人は自分自身を欺いているのです。4.各自は自分の行いを吟味しなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れても、他人に対しては誇れなくなるでしょう。5.各自はこれからも自分の重荷を負っていくのですから。
6.御言葉を教えてもらう人は、教える人とあらゆる良きものをもって分かち合いなさい。7.間違ってはいけません。神は侮られるような方ではありません。人が種を蒔けば、人はまたそれを刈り取ることになるのですから。8.すなわち、自分の肉に対して種を蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に対して種を蒔く者は、霊から永遠のいのちを刈り取ることになるのです。9.わたしたちが落胆しないで良い業に励んでいると、わたしたちはふさわしい時期に、弱り果てることなく(実を)刈り取ることになるでしょう。10.ですから、わたしたちは時のあるうちに、すべての人に、特に、信仰の仲間の者たちに対して善を行おうではありませんか。
11.ごらんなさい、わたし自身の手で、こんなに大きな字であなたがたに書きました。12.肉において見栄を飾ろうとする人たちが、あなたがたに割礼を受けることを強要しているのです。彼らは、キリストの十字架のゆえに、自分たちが迫害されないようにしているだけなのです。13.割礼を受けているこれらの人たちは律法を守らないで、ただ、あなたがたの肉によって彼らが誇りたいために、あなたがたに割礼を受けさせたいのです。14.しかし、わたしたちには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架による以外に、断じて誇るものがあってはなりません。この十字架によって、世はわたしたちに対してはりつけにされ、わたしも世に対してはりつけにされたのです。15.割礼か無割礼かは問題ではありません。むしろ新しく創造されることが重要なのです。16.この法則に従って歩む人たちの上に、平安と憐みがありますように。また、神のイスラエルの上にもありますように。
17.これからは、誰もわたしに苦労をかけないでください。わたしはイエスの焼印をこの体に帯びているのですから。

18.兄弟たちよ、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にありますように、アーメン。




τὰ στίγματα τοῦ Ἰησοῦ(17)
「イエスの焼印」。「焼印」は複数。よってこれがパウロの受けたからだ上の数々の傷跡を意味するのだとすれば分かりやすい。それらの傷は「ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度」(2コリント11:24)などによる生身の傷跡を想像するが、パウロにとってはイエスに属することの消し難い証しとなった。



           散歩道の風景②

2016年5月17日火曜日

新約聖書原典「ガラテヤの人々への手紙」5章の翻訳(私訳)

ガラテヤの人々への手紙 

5章


1.キリストはわたしたちに自由を得させるため、わたしたちを解放してくださいました。ですから、しっかり立って、再び奴隷のくびきにつながれてはいけません。
2.聞きなさい、このわたしパウロがあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたを用のないものとなさるでしょう。3.わたしは割礼を受けるすべての人にもう一度おごそかに命じますが、その人は律法全体を行う義務があります。4.だれでも律法によって義と認められようとする人たちは、キリストから切り離され、恵みから落ちてしまったのです。5.わたしたちは、信仰による御霊によって、義とされる希望を待ちこがれているのです。6.キリスト・イエスにあるならば、割礼か無割礼かは問題ではありません。むしろ愛によって働く信仰こそが重要なのです。
7.あなたがたは正しく走っていました。(なのに)真理に従わないようにと、誰があなたがたの邪魔をしたのですか。8.この誘いは、あなたがたを召しておられる方から出たものではありません。9.わずかなパン種でも、練り粉全体を膨らませます。10.わたしは、あなたがたが別の考えを抱かないだろうと、主にあって確信しています。あなたがたの心をかき乱す者は、だれであろうと裁きを受けることになります。11.兄弟たちよ、わたしが割礼を今なお宣べ伝えているなら、なぜ、わたしが今なお迫害を受けるのですか。そうすれば十字架の躓きはなかったはずです。12.あなたがたをかき乱す者たちは、自ら切除すればよいのです。
13.兄弟たちよ、あなたがたは自由を得るために召されたのです。その自由をただ肉の(働く)機会としないで、むしろ愛をもって互いに仕え合いなさい。14.律法全体は、『あなたの隣人を、自分自身のように愛しなさい』という、この一言で全うされるからです。15.あなたがたが互いに傷つけ合い食らい合うなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。
16.わたしは言いますが、御霊によって生活しなさい。決して肉の欲望を満たしてはいけません。17.なぜなら、肉が望むことは御霊に反し、御霊が望むことは肉に反するからです。これらは互いに対立し合っているので、あなたがたがそれらのことをしようとしてもできないのです。18.もし、あなたがたが御霊に導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいないのです。19.しかし、肉の働きは明らかです。それらは、不品行、不潔、不道徳、20.偶像礼拝、まじない、敵意、争い、しっと、怒り、党派心、分裂、分派、21.ねたみ、泥酔、酒宴と、それらのたぐいです。前にも言っておいたように、あらかじめ言っておきます。これらのことを行う者たちは、神の国を受け継ぐことはできません。22.しかし、御霊の実は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、忠実、23.柔和、自制であって、これらに反対する律法はありません。24.キリスト・イエスに属する者となった人々はその肉を、その激情や情欲もろとも十字架につけてしまったのです。

25.わたしたちが御霊によって生きているなら、御霊によっても歩こうではありませんか。26.互いに挑戦し合ったり互いにねたみ合ったりして、虚栄心の強い者にならないようにしようではありませんか。





★「主にあってあなたがたを信頼しています」(10)

この「信頼しています」はギリシア語文法の完了形が使われている。この形は、過去から現在に至るまで「ずっと信頼続けている」ことを意味している。

Ὄφελον καὶ ἀποκόψονται(12)
「自ら切除すればよいのだ」

割礼を重んじる人たち(男子)は、性器の一部を切ってアブラハムの子孫であることを証明した。こうして彼らは律法を守る民を自負していたが、この行為を異邦人(ガラテヤ人)にも強要しようとした。こうしてガラテヤのクリスチャンたちを惑わす人たちに対し、パウロは激しい感情をむき出して言う。上記の「自ら切除すればよいのだ」は、人々を福音から引き離そうとするユダイストたちに、パウロは、割礼を受けた性器の一部だけではなく、その全部を切除すればよいと怒りを込めて言っているのである。




           散歩道の風景① 石神井公園(東京・練馬)

2016年5月12日木曜日

新約聖書原典「ガラテヤの人々への手紙」4章の翻訳(私訳)

ガラテヤの人々への手紙 

4章


1.わたしが言う(意味はこうです)。相続人が子供である間は、すべてのものの主人であるのに奴隷と何ら変わらず、2.父の定めた時までは、ただ保護者たちと家の管理者たちのもとにいます。3.このようにわたしたちも子供であった時は、この世の幼稚な教えの下に奴隷とされていました。4.しかし、時が満ちて来たとき、神はその御子を女から生まれさせ、律法の下に生まれさせて遣わしてくださいました。5.それは、律法の下にいる人々を買い戻すため、わたしたちが子としての身分を授かるためでした。6.あなたがたが子なので、神はわたしたちの心に、『アバ父よ』と呼ぶ神の御子の霊を送ってくださったのです。7.ですから、あなたはもう奴隷ではなく、子なのです。子であるなら神による相続人です。
8.ところで、あなたがたが神を知らなかった時、神ではない自然の神々に仕えていました。9.しかし今、あなたがたは神を知っていますが、否、それ以上に神によって知られているのに、どうしてあなたがたは、また再び無力で何の助けにもならない初歩的規則に逆戻りし、またはじめからそれらのものの奴隷になることを望むのですか。10.あなたがたは、いくつかの日と、いくつかの月と、いくつかの季節と、いくつかの年とを守っています。11.わたしは、あなたがたのために無駄に労苦したのではないかと、あなたがたのことで心配しています。
12.兄弟たちよ、あなたがたにお願いします。どうかわたしのようになってください。わたしもあなたがたのようになっているのですから。あなたがたはなんの不正もわたしに行いませんでした。13.あなたがたが知っているとおり、以前、わたしがあなたがたに福音を宣べ伝えたのは、(わたしの)肉体が弱っていたためでした。14.わたしの肉体に、あなたがたにとっての試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり忌み嫌ったりしないで、むしろ神の使いか、キリスト・イエスかのように、わたしを受け入れてくださいました。15.それなのに、あなたがたの幸福の表明はいったいどこへ行ってしまったのでしょうか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら自分の目をえぐり出してでも、わたしに与えようとしたのです。16.このように真実をあなたがたに話したので、わたしはあなたがたの敵となってしまったのでしょうか。17.彼らがあなたがたに熱心なのは、善意からではなく、むしろ、彼らに対し熱心にならせようとして、あなたがたを(真理から)閉め出そうとしているのです。18.わたしがあなたがたと一緒にいるときだけでなく、いつでも、善意に熱心になるのは良いことです。19.わたしの子供たちよ、あなたがたの内にキリストが形づくられるまで、わたしは再びあなたがたのために産みの苦しみをします。20.しかし、わたしは今すぐにでもあなたがたのところへ行って、語調を変えて(話したいです)。あなたがたのことで、わたしは途方に暮れているからです。
21.わたしに言ってください。律法の下にいたい人々よ、あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか。22.こう書かれています。『アブラハムには二人の子があった。一人は女奴隷から(生まれ)、そして一人は自由の女から(生まれた)』と。23.しかし、女奴隷から生まれた子は肉に従って生まれ、自由の女から生まれた子は、約束によって生まれました。24.これらは比喩として語られています。すなわち、二人の女は二つの契約です。一つはシナイ山からのもので奴隷となる者を産みます。これがハガルです。25.ハガルとはアラビアにあるシナイ山のことですが、今のエルサレムに相当します。なぜなら、今のエルサレムはその子たちと共に奴隷となっているからです。26.しかし、上なるエルサレムは自由であって、これはわたしたちの母です。27.なぜなら、こう書かれているからです。
『喜べ、子を産めない不妊の女よ、
喜びの声を上げて叫べ、
産みの苦しみを知らない女よ。
(夫に)捨てられた女の子供たちは、夫のある女の子供たちより更に多いからである。』

28.兄弟たちよ、あなたがたはイサクの場合のように、約束の子たちなのです。29.しかし、一時期、肉によって生まれた者が、霊によって生まれた者を迫害していたように、今も同じことが(行われています)。30.しかし、聖書はなんと言っているでしょうか。『女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷の子が、自由の女の子と一緒に相続することは決してないであろう』。31.だから兄弟たちよ、わたしたちは女奴隷の子ではなく、自由の女の子なのです。





★3節と9節の「幼稚な教え」を意味する στοιχεῖα は言葉などの「初歩」「基本」を意味し、子供が最初に習う「あ、い、う、え、お」などの初歩的こと。パウロは「この世の」(3)、「無力でなんの助けにもならない」(9)という言葉を付加することによって、9節にあるように、ガラテヤの信徒たちがかつて神でない神々に仕えていたことを暗示させている。

★「あなたがたは、いくつかの日と、いくつかの月と、いくつかの季節と、いくつかの年とを守っています」(10)
10節の日、月、季節、はいずれも複数形。よって上記のように訳した。これはコロサイ2:16を参照。

★「できれば自分たちの目をえぐり出してでも、わたしに与えようとしたのです」(15)
「与えようとしたのです」の動詞の時制は過去形。従って正確には事実「与えた」となる。パウロの視力がだいぶ失われてまともに人の顔形を見ることさえできなかったパウロ(1コリント13:12、2コリント12:7)にガラテヤの信徒たちの行為は事実、パウロに自分たちの目をえぐり出して与えたのであった。



            秩父 羊山公園

2016年5月5日木曜日

新約聖書原典 「ガラテヤの人々への手紙」3章の翻訳(私訳)

ガラテヤの人々への手紙 

3章


1.ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たちよ、誰があなたがたを惑わしたのですか。彼らには、目の前に十字架につけられたイエス・キリストが、はっきり描き出されたではありませんか。2.一つだけあなたがたについて知りたいのです。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか、それとも聞いて信じたからですか。3.あなたがたはそれほど物分かりが悪いのですか。御霊で始めたのに、今になって、あなたがたは肉で完成させようとするのですか。4.あなたがたがあれほど苦しんだのは無駄だったのでしょうか。もし、本当に無駄だったとしたら…(そんなはずはありません)。5.あなたがたに御霊を与え、あなたがたの内で力強く働かれる方が(そうなさるのは)、あなたがたが律法を行ったからですか、それとも、あなたがたが聞いて信じたからですか。
6.『アブラハムは神を信じた。こうして、彼は義と認められた』と書かれているように。7.ですから、信仰による人々こそが、アブラハムの子たちであると知りなさい。8.聖書は、神が異邦人たちを信仰によって義とされるということを予見して、『すべての異邦人はあなたのゆえに祝福を受けるであろう』と、アブラハムに良き知らせを予告しました。9.ですから、信仰による人々は信仰の人アブラハムと共に祝福を受けているのです。
10.というのは、律法の行いによる人はだれでも、呪いの下にあるのです。『守るべき律法の書に書かれてことをすべて守り続けない者はみな、呪われている』と書かれているからです。11.律法(の行い)によってはだれ一人、神の御前に義とされないことは明らかです。なぜなら、『義人は信仰によって生きる』からです。12.律法は信仰によるものではありません。むしろ、『それらを行う者は、それらによって生きるであろう』。13.キリストはわたしたちのために呪いとなって、律法の呪いからわたしたちを買い戻してくださいました。『木に吊るされる者はみな、呪われている』と書かれているからです。14.すなわちそれは、アブラハムの(受けた)祝福がキリスト・イエスによって異邦人たちに及ぶためであり、わたしたちが信仰をとおして御霊の約束を受けるためです。
15.兄弟たちよ、世のならわしに即して説明しましょう。人の遺言でさえ、(一旦)有効になれば、だれもそれを無効にしたり条項を付け加えたりはできません。16.諸約束はアブラハムと彼の子孫に対して言われたのであって、子孫たちに対しても言われたのではありません。多くの人々を指してではなく、一人を指して『あなたの子孫に』と言われたのです。この方こそキリストなのです。17.わたしの言う意味はこうです。神によってあらかじめ有効とされた契約を、四百三十年後にできた律法がその約束を無にして、破棄するようなことはないということです。18.もし、相続するはずの財産が律法(の行い)によるのなら、もはや約束によるのではありません。しかし、神は約束によってアブラハムに無償でお与えになったのです。
19.では、律法とは何ですか。それは約束された子孫であられる方が来られるまで、違反を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手によって制定されたものです。20.しかし、仲介者は一人ではありませんが、神は唯一です。21.では、律法は[神の]約束に反するものなのでしょうか。決してそうではありません。もし、人を生かすことのできる律法が与えられたとすれば、確かに、義は律法(の行い)によって存在したでしょう。22.しかし、聖書はすべてのものを罪の下に閉じ込めたのです。それは、イエス・キリストによる信仰によって、約束が信じる人々に与えられるようになるためなのです。

23.しかし、信仰が来る前は、わたしたちは律法の下に閉じ込められ、信仰が啓示されるようになるまで監視されていました。24.こうして律法は、わたしたちが信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行くための養育係となってきたのです。25.しかし、信仰が来たのですから、わたしたちはもはや養育係の下にはいないのです。26.あなたがたは皆、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子たちなのです。27.キリストのものとなるバプテスマを受けた人は誰でも、キリストを着たのです。28.ユダヤ人もギリシア人もありません。奴隷も自由人もありません。男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つなのですから。29.あなたがたがもしキリストのものであるなら、それによって、あなたがたはアブラハムの子孫、約束に基づく相続人なのです。





ὁ δὲ νόμος οὐκ ἔστιν ἐκ πίστεως, ἀλλʼ ὁ ποιήσας αὐτὰ ζήσεται ἐν αὐτοῖς.(12)
「しかし、律法は信仰から出たのではありません。むしろ、『それらを(諸律法を)行う者は、それら(諸律法)によって生きるであろう』」(12)

新約聖書の中で「律法」と訳されているギリシア語は νόμος(ノモス)です。しかもほとんどの場合単数で出てきます。律法(ノモス)は道徳、礼典、民法など多岐にわたって存在していましたが、それらの総称を呼ぶときに使われたので単数で現れるわけです。12節の後半でパウロはレビ記18:5を引用して、「それらを行う者は、それらによって生きるであろう」(それらはいずれも複数)と付け加え、ノモスにはさまざまな種類と数の定めがあったことを告げている。ゆえにパウロが律法(ノモス)と言う場合は、モーセの五書に含まれるすべての定めを含むと理解することが重要です。

ὁ νόμος παιδαγωγὸς ἡμῶν γέγονεν εἰς Χριστόν(24)
「律法はキリストに(連れて行く)わたしたちの養育係となって来たのです」(24 直訳)

「なった」のではなく、「なってきた」のです。更に言えば、「なっている」と訳すのがより正確かもしれません。なぜなら「なっている」の時制が完了形だからです。パウロがここで過去形ではなく完了形を使ったのは、律法(種々の掟)が与えられたのは、人(選民イスラエル)をキリストに向けるためであり、一度与えられた律法の機能と目的はキリストの十字架まで事実、続いて来たからです。


★20節は原典通りで、口語訳、新共同訳、新改訳とも意訳となっている。



2016年5月1日日曜日

新約聖書原典「ガラテヤの人々への手紙」2章の翻訳(私訳)

ガラテヤの人々への手紙

2章


1.その後、十四年経ってから、再びわたしは、バルナバと一緒にティトスも連れてエルサレムへ上りました。2.わたしが上ったのは啓示によってです。そして、わたしが異邦人たちの間で宣べ伝えている福音を彼らに示し、わたしが現に努めていること、また努めてきたことが無駄にならないように、おもだった人たちには個人的に示しました。3.しかし、わたしと同行したティトスはギリシア人でしたが、割礼を受けるのを強制されませんでした。4.ところが秘かに忍びこんだ偽兄弟たちがいて、彼らはわたしたちを(律法の)奴隷にしようと、わたしたちがキリスト・イエスの内に持っているこのわたしたちの自由を偵察しようと忍びこんできたのです。5.しかし、福音の真理があなたがたにとどまり続けるために、わたしたちは彼らに屈服の機会を与えませんでした。6.おもだったと思われる人たちからは、-彼らがどのような人々であるかは、わたしにはどうでもよいことです。神は人を分け隔てなさいません-おもだった人たちは、わたしに何も付け加えることを課しませんでした。7.むしろ(それとは)反対に、ペトロが割礼を受けている人々に対しての(福音がゆだねられた)ように、彼らは、わたしが無割礼の人々への福音がゆだねられていることを知ったのです。8.ペトロに、割礼を受けた人々に対しての使徒の務めをはたすよう働かれた方は、わたしにも異邦人たちに対しての使徒の務めをはたすよう働かれたのです。9.彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、すなわち柱とみなされている人たちは、わたしとバルナバに親愛の交わりの右手を差し延べ、わたしたちは異邦人たちのところへ、彼らは割礼を受けた人々のところへ(行くことになったのです)。10.ただ、貧しい人々のことだけは心に留めておくようにとのことでしたが、この点については、わたしたちも実行するよう熱心に努めてきたところです。
11.さて、ケファがアンティオキアに来た時、非難することがあったので、わたしは面と向かって彼に反対しました。12.と言うのは、ある人たちがヤコブのもとから来るまでは、彼は異邦人たちと一緒に食事をしていたのに、彼らが来ると、割礼を受けている人々を恐れて(異邦人たちから)身を引き、(彼らを)避け始めたからです。13.そして、他のユダヤ人たちも彼と同じく共に偽善を行い、こうしてバルナバまでが彼らの偽善に引きずり込まれたのです。14.しかし、彼らが福音の真理に向かって正しく歩いていないのを見て、わたしはケファに皆の前でこう言いました。「あなたはユダヤ人なのに、ユダヤ人のように生活しないで異邦人のように生活しておきながら、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強いるのですか」。

15.わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人出の罪人ではありません。16.[しかし、]わたしたちは(このことを)知っています。すなわち、人は律法の行いによってではなく、イエス・キリストによって(与えられる)信仰によるのでなければ義とされません。わたしたちがキリスト・イエスを信じたのは、わたしたちがキリストによる信仰によって義とされるためであって、律法の行いによって義とされるためではありません。なぜなら、律法の行いによってはすべての肉なる者は義とされないからです。17.もし、わたしたちがキリストにあって義とされることを求め、わたしたち自身が罪人であると悟らされるなら、(そのことで)キリストは罪の僕ということになるのでしょうか。決してそうではありません。18.もし、わたしが壊したものを、再び建てているとすれば、自分が違反者であることを立証していることになるのです。19.わたしは律法によって律法に死にました。それは神に生きるためです。わたしはキリストと共に十字架につけられました。20.生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子による信仰によって生きているのです。21.わたしは神の恵みを無にはいたしません。というのは、もし、義が律法によって(得られる)とすれば、それこそ、キリストは無駄に死んだことになってしまうからです。





κατʼ ἰδίαν δὲ τοῖς δοκοῦσιν, μή πως εἰς κενὸν τρέχω ἢ ἔδραμον(2)
「わたしが現に走っていること、あるいは走って来たことが無駄にならないように、おもだった人たちには個人的に(示しました)」(2後半)

2節をパウロがエルサレムに上った理由を明かしている部分です。ここでパウロはその理由として『わたしが現に走っていること、あるいは走って来たことが無駄にならないように』(原典のアンダーラインをつけた部分)するためだと書いています。すなわち、自分の宣教がエルサレムからやって来たユダイストたちが伝える『異なる福音』((1章)によって無駄になることを心配して、そうならないようにエルサレムのおもだった人たちに「説明して説得するため」でした。つまり弁護のためだったのです。新共同訳ではこの部分をそうではなく、『自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求める』ためだと訳しています。この訳だと、パウロは自分の宣教に対しての確信が薄れ、不安になってエルサレムにいる指導者たちに相談し、アドヴァイスを受けるため、だったという解釈になってしまいます。そうだとすると、3節以下の偽兄弟たちのスパイ行為に対してとった妥協を許さないパウロの力強い確信はどうにも説明がつきません。

πρόσωπον [] θεὸς ἀνθρώπου οὐ λαμβάνει(6)
「神は人の外見う受け入れられません」(6)直訳

πίστεως Ἰησοῦ Χριστοῦ(16)
「イエス・キリストの信仰」 直訳
本来、信仰とはイエス・キリストに属するものであるが、それがキリストによって求める者に与えられるものである。16節に「イエス・キリスト信仰」とあるのは意味深い。これが16節に2回現れる。

Χριστῷ συνεσταύρωμαι(19)
「わたしはキリストと共に、十字架につけられました」
「十字架につけられました」は動詞の現在完了形。その本義は、「わたしが十字架につけられた出来事はイエスの出来事とともに終わっていても、わたしが十字架につけられた状態はイエスとともに今も続いている」ということである。ゆえに19節は「わたしはキリストとともに、(今も)十字架につけられている」という意味になる。