2010年1月31日日曜日

新約聖書原典「ヨハネによる福音書」1章の翻訳(私訳)

ヨハネによる福音書 


1章


1.初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。2.そのことばは初めに神と共にあった。3.すべてのものはこの方によってできた。できたもので、この方によらないでできたものは、ひとつとしてなかった。4.彼の内に命があった。この命は人々の光であった。5.この光は闇の中で輝いている。闇は光を受け入れなかった。
6.一人の人が現れた。神から遣わされた人で、彼の名をヨハネと言った。7.この人が来たのは証しのため、光について証しするため、またすべての人が彼の証しによって信じるためである。8.その人は光ではなく、ただ光について証しするためである。
9.その光は真の光であって、世に来てすべての人を照らすのである。10.光は世にあった。世は彼によってできたのに、世は彼を知らなかった。11.彼は自分のところに来たのに、自分の者たちは彼を受け入れなかった。12.しかし、彼を受け入れた者たち、彼の名を信じている者たちに、彼は神の子となる権利をお与えになったのである。13.この人たちは、血統によったのではなく、肉の欲によったのでも人の欲によったのでもなく、ただ神から生まれたのである。
14.ことばは肉体となって、わたしたちの間に宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父からの独り子としての栄光で、恵みと真実とに満ちていた。15.ヨハネは彼について証しして叫んで言った。「『わたしの後に来られる方はわたしよりまさっておられる。なぜなら、わたしより先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。16.というのは、わたしたちはみなこの方の満ち満ちているものから、恵みの上に更に恵みを受けたからである。17.なぜなら律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真実はイエス・キリストを通してもたらされたからである。18.神を見た者は、かつて誰もいない。父のふところにおられるひとり子なる神、その方が神を明らかにしてくださったのである。
19.さて、ヨハネの証しはこうである。ユダヤ人たちがエルサレムから、祭司たちやレビ人たちを[ヨハネのところに]「あなたはどなたですか」と尋ねるために遣わした時、20.彼は拒むことなく言い表し、「わたしはキリストではない」と告白した。21、すると彼らはヨハネに尋ねた。「では誰ですか、あなたはエリヤですか」。ヨハネは「そうではない」と言った。「では、預言者ですか」。彼は「違う」と答えた。22.そこで彼らはヨハネに言った。「では、いったいあなたは誰なのですか。わたしたちを遣わした人たちに、あなた自身を誰だというのか、返事を持っていけるようにしてください」。23.彼は言った。
「わたしは『主の道をまっすぐにせよと、荒野で叫ぶ声』である。
預言者イザヤが言ったように」。
24.ところで、遣わされたのはファリサイ派の人たちであった。25.彼らはヨハネに尋ねて言った。「では、あなたがキリストでもなく、エリヤでもなく、預言者でもないのなら、なぜバプテスマを授けているのですか」。26.ヨハネは答えて彼らに言った。「わたしは水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に立っておられる方は、あなたがたの知らない方である。27.その方は、わたしの後から来られる方で、このわたしは、その方の履物のひもを解く価値さえない者である」。28.これらのことは、ヨハネがバプテスマを授けていたヨルダン川の反対側のベタニアでおきた出来事であった。
29.次の日、ヨハネは自分の方に向かって来られるイエスを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。30.『わたしの後から一人の方が来られる。その方はわたしよりまさっておられる。なぜなら、わたしより先におられたからである』と、その方についてわたしが言ったのは、この人のことである。31.わたしも、かつてはこの方を知らなかった。しかし、わたしは、この方がイスラエルに現れるようにと、その為に来て、水でバプテスマを授けているのである」。32.また、ヨハネは証しして言った。「わたしは、御霊が鳩のように天から降りてきて、この方の上にとどまったのを見た。33.わたしも、かつてはこの方を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにとわたしを遣わされた方が、わたしに言われた。『ある人の上に御霊が降りてきて、その上にとどまるのを見たなら、その方こそ聖霊によってバプテスマを授ける方である』と。34.わたしもそのことを見たので、この方こそ神の御子であると証ししているのである」。
35.翌日、ヨハネは再び彼の二人の弟子たちと立っていた。36.そして歩いておられるイエスを見つめて言った。「見よ。神の小羊」。37.そこで彼の二人の弟子たちは、ヨハネがこう話すのを聞いてイエスについて行った。38.しかしイエスは振り向き、ついて来る二人を見て彼らに言われた。「何か願いがあるのか」。そこで彼らはイエスに言った。「ラビ、[これを訳せば先生という意味] どこにお泊まりですか」。39.イエスは彼らに言われた。「来なさい、そうすればわかるだろう」。そこで彼らは行ってイエスの泊まっておられる場所を見た。そしてその日は、イエスのところに泊まった。時は午後四時ごろであった。40.ヨハネから聞いてイエスについて行った二人の弟子の内の一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。41.この人が先ず自分の兄弟シモンを見つけて彼に言った。「わたしたちはメシア [これを訳せばキリスト] に出会った」。42.彼はシモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて言われた。「あなたはヨハネの子シモンである。あなたをケファ [これを訳せばペトロ] と呼ぶことにする」。

43.その翌日、イエスはガリラヤへ出かけようとしてフィリポに出会われて、彼に言われた。「わたしについて来なさい」。44.ところで、このフィリポはアンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。45.フィリポはナタナエルを見つけ、彼に言った。「わたしたちは、モーセが律法の中に記し、預言者たちも記していた方に出会った。それはヨセフの子でナザレ出身のイエス」。46.ナタナエルはフィリポに言った。「ナザレから何のよい者が出ようか」。フィリポは彼に言った。「来て、見なさい」。47.イエスはナタナエルがご自分の方へやって来るのをご覧になり、彼について言われた。「見よ、本当のイスラエル人だ。この人には偽りがない」。48.ナタナエルはイエスに言った。「どうしてわたしをご存じなのですか」。イエスは答えて彼に言われた。「フィリポがあなたを呼びに行く前に、わたしはあなたがいちじくの木の下にいるのを見た」。49.ナタナエルはイエスに答えた。「先生、あなたは神の御子です。あなたはイスラエルの王です」。50.イエスは答えて彼に言われた。「わたしが、いちじくの木の下にあなたがいるのを見た、と言ったので信じるのか。あなたは、それよりもっと大きなことを見るだろう」。51.そして彼に言われた。「わたしはあなたがたに心をこめて言っておく。あなたがたは『天が開けて、神の御使いたちが人の子の上に昇ったり降りたりする』のを見るだろう」。

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●「自然の中で聴く聖書」ヨハネによる福音書 1章
https://www.youtube.com/watch?v=Le-mhi11_4Y



★「わたしは、御霊が鳩のように天から降りてきて、この方の上にとどまったのを見た」(32)
 32節の「見た」は、通常の見たではなく、「驚きをもって見た」「じっと見た」という意味の原語が使われている。

★「わたしはあなたがたに心をこめて言っておく」(51)

  「心をこめて」は意訳。原語の αμήν αμήν (アメーン アメーン) は「まことに、まことに」「まことに、確かに」という強意を込めた言い方であるという解釈と、「その通りだ、しかし…」と、直前の発言を肯定しながらも、「しかし…」と続くという見方もある。ヨハネが好んで使っている。

2010年1月30日土曜日

ギリシア語新約聖書原典の翻訳

ギリシヤ語新約聖書の翻訳

2010年1月からギリシャ語新約聖書の翻訳を開始しました。私は新約聖書ギリシャ語(コイネー)を50年ほど前に、神学校で2年ほど学んだあと、ほとんどそれから遠ざかっていましたが、再び勉強を始め、別の二つの神学校でギリシア語と新約聖書原典を学びました。新約聖書を原典で読みたいという昔からの夢を実現したかったからです。この勉強は毎日この言葉や文法にふれていないと、すぐに忘れてしまいます。ですから、それ以来、毎日ギリシア語に触れない日はないくらいに、文法や原典に触れてきました。そのおかげで、今日ではギリシャ語新約聖書原典を辞書を片手にですが比較的容易に読めるようになりました。そして2010年から新約聖書のヨハネによる福音書から新約聖書の私訳を始めました。ギリシャ語底本はネストレ=アーラント28版を使用しています。訳文の中には読んでいて不自然に感じられる訳も現れると思いますが、できる限り原典に忠実に訳すことを試みているため、日本語としての限界を感じながら訳しています。聖書翻訳の困難さは言葉の問題だけではなく、文化や慣習の違いにあります。2千年も前に書かれた聖書の時代の歴史的文化的背景や生活上の慣習、言葉の持つ本来の意味に現代と大きな違いがあるわけです。一つの言葉(名詞)の持つ意味に多面的な広がりがあり、その中から一つに絞って意味を特定するという作業が延々と続くわけです。動詞の時制は特に重要で、例えば過去と完了形の違いを正しく訳す必要があります。聖書翻訳とは、単に言葉の置き換えではなく、解釈である、という立場に立って行われる作業ですから、聖書翻訳には翻訳者の意見がある程度翻訳に反映されることになります。ですから一つの聖書翻訳をもってこの聖書だけを是とするのはいささか行き過ぎでしょう。その意味からもキリスト者は数種類の聖書を持って読むのが妥当だと思います。このブログに掲載されているわたしの翻訳も例外ではなく、読者は、これも一つの読み方なんだということをわきまえながら読んでいただければ幸いです。ブログを読まれる読者の方々、また新約聖書ギリシャ語を現在勉強中の方、また専門家の先生方のご意見、ご感想もお寄せいただければ幸いに思います。ー前田滋彦・2016.3月。