2011年12月27日火曜日

新約聖書原典「マルコによる福音書」9章の翻訳(私訳)

マルコによる福音書 

9章


1.そして彼らに言われた。「あなたがたによく言っておく。ここに立っている者たちの中に、神の国が力をもって来るのを見るまでは、決して死を経験しない者たちがいる」。
2.六日後、イエスは、ペトロとヤコブとヨハネを連れて、彼らとだけで高い山に登られた。すると彼らの前でイエスの姿が変えられ、3.その衣が真っ白に輝いた。それはこの地上のどんな布さらし職人にもできないほどの白さであった。4.そして、エリヤがモーセと共に彼らに現れ、イエスと共に話しをしていた。5.そこでペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは尊いことです。ですから仮小屋を三つ建てましょう。ひとつはあなたのため、ひとつはモーセのため、ひとつはエリヤのために」。6.弟子たちは恐ろしくなったので、ペトロは何を言って良いか分からなかったからである。7.また雲が現れてその人たちをおおい、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子、これに聞け」。8.弟子たちはすぐに周りを見回したがもはや誰も見えず、イエスだけが弟子たちと一緒におられた。
9.彼らが山を降りる時、イエスは弟子たちに、「人の子が死者たちの中から復活する時までは、あなたがたが見た事を誰にも話してはならない」と、お命じになった。10.弟子たちはこの言葉を心にとめ、「死者たちの中から復活するとはどういうことか」と、論じ合った。
11.弟子たちはイエスに、「なぜ律法学者たちは、『エリヤが必ず先に来ることになっている』と言っているのですか」と言って尋ねた。12.そこでイエスは彼らに言われた。「確かに、エリヤが先に来て、すべてを元通りにする。だのに、人の子について、『彼は多くの苦しみを受け、軽蔑される』と書かれているのはどうしてだろうか。13.しかし、わたしはあなたがたに言う。エリヤは既に来たのだ。そして彼について書かれているように、人々はしたい放題のことを彼に行ったのである」。
14.さて、一同が弟子たちのところに戻ると、大勢の群衆が弟子たちを取り囲み、律法学者たちが彼らと議論しているのを見た。15.するとすぐ、群衆が皆イエスを見てひどく驚き、駆け寄ってきて挨拶した。16.そこでイエスは彼らにお尋ねになった。「何を彼らと議論しているのか」。17.すると、群衆の中の一人がイエスに答えた。「先生、わたしの息子をあなたのところに連れて来ました。息子は口の利けない霊にとりつかれているのです。18.霊が息子を襲うと、どこででも息子を引き倒すのです。すると息子は泡を吹き、歯ぎしりして、体をこわばらせてしまいます。そこで、あなたのお弟子さんたちに霊を追い出してくださるように言いましたが、できませんでした」。19.そこでイエスは答えて彼らに言われた。「ああ、なんという不信仰な時代だろうか。いつまでわたしはあなたがたと一緒にいられようか。いつまでわたしはあなたがたに我慢できようか。その子をわたしのところに連れてきなさい」。20.人々はその子をイエスのもとに連れて来た。霊はイエスを見ると、すぐにその子をひきつけさせたので地面に倒れ、口から泡を吹いて転げまわった。21.イエスがその子の父親に、「いつからこのようになったのか」とお尋ねになると、父親が言った。「幼い頃からです。22.霊がこの子を滅ぼそうと、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ですから、もしお出来になるなら、わたしたちをかわいそうと思い、お助けください」。23.しかし、イエスは彼に言われた。「もし出来ればと言うのか。信じる者には、どんなことでもできる」。24.その子の父親がすぐに叫んで言った。「信じます。不信仰なわたしをお助けください」。25.イエスは、群衆が走り寄ってくるのをご覧になり、汚れた霊を叱って言われた。「話すことも、聞くこともできなくする霊よ、お前に命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入って来るな」。26.すると、霊は叫び声を上げ、激しくけいれんしながら出て行き、その子は死人のようになった。大勢の人々が「その子は死んだのだ」と言ったほどであった。27.しかし、イエスがその子の手を握って起こされると、彼は起き上がった。
28.イエスが家に入られると、弟子たちは、「どうしてわたしたちは霊を追い出せなかったのですか」と、密かにイエスに尋ねた。29.イエスは彼らに言われた。「この種のことは、祈りによらなければ、誰も追い出すことはできない」。
30.さて、一行はそこを出て、ガリラヤのそばを通って行ったが、イエスは誰にも知られるのを望まれなかった。31.なぜなら、イエスは弟子たちに「人の子は人々の手に渡され、人々は彼を殺すであろう。彼は殺され、三日後に復活するであろう」と言って教えておられたからである。32.しかし弟子たちには、その言葉が理解できなかった。また、それについてイエスに尋ねることも恐れていた。
33.一行はカファルナウムへ行った。そして家に着くと、イエスが弟子たちにお尋ねになった。「道中、あなたがたが議論していたのは、何のことか」。34.しかし、彼らは黙っていた。それは彼らが道中、「誰がいちばん偉いか」と、互いに議論し合っていたからである。35.イエスはお座わりになり、十二人を呼び寄せて彼らに言われた。「誰でもかしらになりたいと思うのなら、すべての人の中で最後の者となり、すべての人に仕える者となりなさい」。36.イエスはひとりの幼子をとり、彼らの真ん中に立たせ、その子を両腕に抱いて彼らに言われた。37.「このような幼子たちの一人を、わたしの名において受け入れる者は、わたしを受け入れるのであり、わたしを受け入れる者は、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」。
38.ヨハネがイエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたの名によって悪霊を追い出している人を見かけました。それで、その人はわたしたちに従わなかったので、やめさせました」。39.しかし、イエスは言われた。「その人を止めてはならない。わたしの名において力ある業を行う人で、すぐにわたしのことを悪く言える人は、誰もいないからだ。40.だから、わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方なのである。
41.だから、キリストのものであるという名のゆえに、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いを失うことはない。42.また、[わたしを]信じるこれらの小さい者たちの一人を躓かせる者は、大きなひき臼をその首に掛けられて、海に投げ込まれる方が、その人にとってまだましである。43.もし、あなたの片方の手があなたを躓かせるなら、それを切り離しなさい。両手があってゲヘナ、すなわち燃え尽きない火へ行くよりは、片手を失ったまま命に入る方が、あなたにとっては良いことだ。45.もし、あなたの片方の足があなたを躓かせるなら、それを切り離しなさい。両足があってゲヘナへ投げ込まれるよりは、足が不自由なまま命に入る方が、あなたにとっては良いことだ。47.もし、あなたの片方の目があなたを躓かせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。両方の目があってゲヘナへ投げ込まれるよりは、片方の目を失ったまま神の国に入る方が、あなたにとっては良いことだ。48.ゲヘナでは『うじは死なず、火も消えることがない』。

49.人はみな火によって塩味をつけられる。50.塩は良いものだ。しかし、もし、塩がその塩気をなくしたら、何によってその味をつけるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に暮らしなさい」。



●「自然の中で聴く聖書」マルコによる福音書 9章

★ εἰσίν τινες ὧδε τῶν ἑστηκότων οἵτινες οὐ μὴ γεύσωνται θανάτου ἕως ἂν ἴδωσιν τὴν βασιλείαν τοῦ θεοῦ ἐληλυθυῖαν ἐν δυνάμει. (1)
 「ここに立っている者たちの中に、神の国が力をもって来るのを見るまでは、決して死を経験しない者たちがいる」 9:1

 イエスは不思議な言葉を弟子たちに語られた。1節のこの不可解な言葉は、そのあともイエスご自身によって説明されていない。具体的に誰のことを言われたものか、弟子たちも沈黙しているだけである。2節はすぐに、六日後の出来事にテーマが移っている。更にこのテキストを難解にさせているのは、「決して死を経験しない者たちがいる」と複数形になっていることである。イエスがご自身のことについて言われたと仮定するなら、ここは単数形でなければならない。しかし、もし弟子たちのことを言われたとするなら、その直前の 「神の国が力のうちに来るのを見るまでは」 の意味をどう解釈すべきかが問題となる。そこで、この「神の国」とは、歴史的、終末論的な神の国を意味するのではなく、イエスがその死と復活において成就なさろうとするキリスト論的また霊的な意味での神の国を指するものと解釈するのが正しいように思われる (8章29~33、9章31参照。ペトロのキリスト告白に続くイエスの死と復活の予告は9:1を解釈する上で重要である)。

★  ἢ ………ἀπελθεῖν εἰς τὴν γέενναν, εἰς τὸ πῦρ τὸ ἄσβεστον.   
  「ゲヘナ、すなわち燃え尽きない火へ行くよりは」 9:43

 ゲヘナは「地獄」の存在を肯定する言葉ではなく、悪人が最後の刑罰を受ける象徴的な場所を意味する。エルサレムの東にあるケデロン、南にあるヒンノムの谷はイエスの時代に象徴的「地獄」とも考えられていた。 48節の「ゲヘナでは、『うじは死なず、火も消えることがない』。」は、悪人が受ける地獄的刑罰の悲惨さ、苦しみを表現した当時の格言であろう。

★ ἐὰν σκανδαλίζῃ σε ἡ χείρ σου   (9:43)
 「もし、あなたの片方の手があなたを躓かせるなら」

 σκανδαλίζῃ(スカンダリゼー) は「躓かせる」または「罪を犯させる」を意味する。故に 「もし、あなたの片方の手があなたに罪を犯させるなら」と訳しても良い。手、足、目に関して同一の表現が使われており、いずれも単数であるので、「片手」「片足」「片目」を意味する。



2011年11月28日月曜日

新約聖書原典「マルコによる福音書」8章の翻訳(私訳)

マルコによる福音書 

8章


1.そのころ、再び大勢の群衆がいたが、食べるものがなかった。そこでイエスは弟子たちを呼び集めて、彼らに言われた。2.「この群衆がかわいそうだ。もうすでに三日もわたしと一緒に留まっていて、彼らは何も食べていない。3.もしこのまま何も食べずに家に帰したら、途中で弱り果ててしまうだろう。彼らの中には遠くから来ている人たちもいる」。4.すると弟子たちはイエスに、「こんな人も住まない土地で、いったいどこからパンを得て、この人たちにじゅうぶんに食べさせることができるでしょうか」と答えた。5.イエスは彼らに「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは「七つです」と言った。6.そこでイエスは群衆に地面に座るようお命じになり、それらの七つのパンを受け取り、感謝をしてから裂き、群衆に配るため弟子たちに渡された。そして弟子たちは群衆に配った。7.また小さな魚も少しあったので、感謝をしてから、それらも配るようにと言われた。8.人々は食べて満腹になった。そして裂いたかけらの余りを寄せ集めたところ、七つのかごに一杯になった。9.四千人ほどの人々がいたが、イエスは彼らを解散させられた。
10.それからすぐに、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗って、ダルマヌタの地方へ行かれた。11.すると、ファリサイ派の人々が出て来て、イエスに論争をしかけた。イエスを試して、天からのしるしを求めるためであった。12.イエスは心にため息をついて言われた。「どうして、この時代はしるしを求めるのか。よくあなたがたに言っておくが、この時代にしるしは決して与えられない」。13.そして、彼らを残して再び(舟に)乗り込み、向こう岸へ行かれた。
14.弟子たちはパンを持ってくるのを忘れ、舟の中にはひと切れのパン以外には持ち合わせがなかった。15.そこでイエスは彼らに指示して言われた。「注意しなさい。ファリサイ派の人たちのパン種と、ヘロデのパン種を警戒しなさい」。16.(イエスがこう言われたのは)自分たちがパンを持っていないからだと、弟子たちは互いに論じ合った。17.イエスは気づいて彼らに言われた。「パンを持っていないことで、なぜ論じ合うのか。まだ分からないのか、悟らないのか。あなたがたの心が鈍くなってしまったのか。18.『目があっても見ず、耳があっても聞かない』のか。思い出さないか。19.わたしが五つのパンを裂いて五千人に配ったとき、あなたがたが拾い集めたパンのかけらでいっぱいになった籠は、幾つあったか」。弟子たちはイエスに言った。「十二個です」。20.「七つのパンを裂いて四千人に配ったとき、あなたがたが拾い集めたパンのかけらでいっぱいになった籠は、幾つあったか」。弟子たちは[イエスに]言った。「七個です」。21.イエスは彼らに言われた。「まだ悟らないのか」。
22.さて、一行はベトサイダにやってきた。すると、人々が一人の盲人をイエスのところに連れてきて、その人に触れていただきたいとお願いした。23.そこでイエスはその盲人の手をとって村の外に連れて出て、その両目につばをつけ、両手を彼の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。24.すると、彼は見えるようになって言った。「人々が見えます。木々の様で、歩いているのがわかります」。25.そこでイエスが再び両手を彼の両目の上に置いたところ、彼はしっかり見ていたが回復してきて、全てのものがはっきりと見えるようになった。26.イエスは彼を自分の家に帰されたが、「村へは入って行かないように」と言われた。
27.さて、イエスとその弟子たちはフィリポ・カイサリアの村々へ出かけられたが、その途上、弟子たちに尋ねて言われた。「人々はわたしのことを誰だと言っているか」。28.すると彼らはイエスに、「バプテスマのヨハネ、他の人々はエリヤ、また他の人々は預言者たちの一人だと言っています」と言った。29.そこでイエスは弟子たちに尋ねられた。「では、あなたがたはわたしのことを誰だと言うのか」。ペトロが答えてイエスに言った。「あなたはキリストです」。30.イエスは彼らに、「自分のことを誰にも話さないように」とお命じになった。
31.それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たちや祭司長たち、また律法学者たちからも拒まれて捨てられ、また殺されて、三日後に甦るべきことを弟子たちに教え始められた。32.しかも、イエスはあからさまに言葉を語られた。するとペトロがイエスを脇へ引き寄せ、いさめ始めた。33.しかし、イエスは振り向き、弟子たちを見てペトロを叱って言われた。「引き下がれ、サタンよ。お前は神のことを思わないで、人々のことを思っている」。

34.イエスは群衆を、ご自分の弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「もし、わたしのあとに従いたいと思う者は誰でも自分を否定し、そして自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。35.なぜなら、自分の命を救おうと思う者はそれを失うが、わたしの為、また福音の為に自分の命を失う者は、それを救うことになるからである。36.人が全世界を手に入れても、自分の命を失ったら一体何の得になるだろうか。37.人は自分の命と引き替えに、どんな代価を支払えば良いのだろうか。38.だからもし、人がこの不貞の罪深い時代の中にあって、わたしと、わたしたちのこれらの言葉を恥じるなら、人の子もまた、その父の栄光のうちに聖なる御使いたちと共に来るとき、その者を恥じるだろう」。



●「自然の中で聴く聖書」マルコによる福音書 8章

★ Καὶ ἐπελάθοντο λαβεῖν ἄρτους καὶ εἰ μὴ ἕνα ἄρτον οὐκ εἶχον μεθʼ ἑαυτῶν ἐν τῷ πλοίῳ. (14)

 「 弟子たちは数切れのパンを持ってくるのを忘れ、舟の中にはひと切れのパンしか持ち合わせがなかった」

上のテキストは、七つのパンで男4千人を満腹にさせたイエスの奇跡の後、乗り込んだ舟の中で弟子たちが気づいたことである。この中で使われている ἄρτους は(複数のパン)を示している。故に「数個のパン」とも訳せるが、この場合はイエスが裂いて配られたパンのことを意味するのかもしれない。そのあとに現れる ἕνα ἄρτον(単数) は、文字通り 「ひと切れのパン」である。

δεῖ τὸν υἱὸν τοῦ ἀνθρώπου πολλὰ παθεῖν  (31)
  
 人の子は多くの苦しみを受けねばならず
  
  フィリポ・カイサリアの村々を訪れる途上、イエスの弟子たちに対する質問は、弟子たちからメシヤ信仰への確固たる確信を引き出すことがその狙いであったに違いない。「あなたはキリストです」というペトロの返答は確かに表向きは模範解答のようではあった。しかしその中身はどうであったか。ペトロの「信仰告白」の後に31節のイエスの言葉が続く。今初めて、しかもはっきりと(32節)弟子たちに対して語られるこのイエスの「告白」には、強い決意が表現されている。 δεῖ  という言葉がそれを表している。それは「必ず~ねばならない」「~すべきである」という強い意思表現を表す言葉である。苦難(十字架)のイエスを、弟子たちには受け入れる準備が出来ていなかったことは、このあとすぐに証明されることになる。

★ προσλαβόμενος ὁ Πέτρος αὐτὸν ἤρξατο ἐπιτιμᾶν αὐτῷ. (32)
 「ペトロがイエスを脇へ引き寄せ、いさめ始めた 
 
 ἐπετίμησεν Πέτρῳ καὶ λέγει· ὕπαγε ὀπίσω μου, σατανᾶ, (33) 
 「ペトロを叱って言われた。「引き下がれ、サタンよ」

 これほど激しい怒りの言葉があるだろうか。もちろんイエスはペトロを牛耳るサタンに対して怒っておられるのだが興味深いのは、ペトロがイエスをἐπιτιμᾶν(いさめた)のも、イエスがペトロを ἐπετίμησεν(叱った)のも、同じἐπιτιμάωという動詞が使われている点である。この言葉には「命じる」「譴責する」「叱る」などの意味がある。ペトロはイエスを「いさめた」と訳しているのは、事実イエスがペトロを「叱った」のと同じ意味であるが、訳の上では口語訳、新共同訳、新改訳共に多少穏やかに「いさめた」と訳しているが、本訳もそれを参考にしている。。

ἀπαρνησάσθω ἑαυτὸν καὶ ἀράτω τὸν σταυρὸν αὐτοῦ (34)

  自分を捨てなさい(自己を否定しなさい)。そして自分の十字架を背負って」 
  
この訳は最も伝統的な訳として知られている。しかし「自分の十字架を背負う」とはいったいどういうことなのか?と考えるとき、多くの人は、「キリスト者は十字架を負うように義務づけられている」と思うクリスチャンが多い。それでは、わたしたちのかわりに十字架を負ってくださるキリストはどうなってしまうのか。ἀράτωαἴρω の命令形)は、「取り上げる」「持ち上げる」「かつぐ」「負う」などの意味がある。イエスがご自分の受ける苦難を語っておられる文脈の中だけで読むと、確かに「負いなさい」という命令は厳しい命令ではある。しかし、そのあとの35節でその不安は一気に反転させられる。「わたしの為、また福音の為に自分の命を失う者は、それを救うことになるからである。」

★「この不貞の時代の中にあって」(38)
 「不貞」と訳されている言葉は「姦通の女」、「不貞の女」を意味する言葉で、ここで使われているのは、ヘブライ的表現で、生けるヤハヴェを裏切って偶像を拝する者という比喩的形容詞としての「不貞」または「背信」を意味する言葉として使われている。



2011年11月9日水曜日

新約聖書原典「マルコによる福音書」7章の翻訳(私訳)

マルコによる福音書 

7章

 
1.ファリサイ派の人たちと、ある律法学者たちがエルサレムから来て、イエスのもとに集まった。2.そして、イエスの弟子のある者たちが汚れた手、つまり洗わない手でパンを食べているのを見て、3.-ファリサイ派の人たちと全てのユダヤ人たちは、昔の指導者たちの言い伝えを固く守って、入念に手を洗ってからでないと食事をせず、4.また市場から(帰った時は)全身を洗ってからでないと食事をしない。またそのほかにも杯、水差し、容器[また寝台]を洗うなど、(言い伝えを)受け継ぎ固く守っている事柄が沢山あるー。5.ファリサイ派の人たちと律法学者たちがイエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の指導者たちの言い伝えに従った生活をしないで、汚れた手でパンを食べるのですか」。
6.イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者たちについて、よくぞ預言したものだ。このように書かれている。[すなわち]、
『この民は唇ではわたしを崇めるが、
その心はわたしから遠く離れている。
7.彼らはむなしくわたしを拝み、
人間の規定を教えとして教えている。』
8 あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」。9.イエスは続けて言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを立てるため、よくも神の戒めを無にしたものだ。10.だからモーセは言ったのだ。『あなたの父と母を敬え』。また『父または母を悪く言う者は死で終わらせよ』と。11.しかしあなたがたは、『もし、人が父または母に対して、このささげもの、すなわち、あなたがわたしから受けて得をするかもしれないものは、コルバン(神のためのささげもの)です、と言えば、12.その人は、父または母に対してもう何もしなくても構わないのだ』と言っている。13.あなたがたは自分たちが受け継いだ言い伝えで神の言葉を無効にし、これらと同じような事をたくさん行っている」。
14.イエスは再び群衆を招き寄せて彼らに言われた。「皆は、わたしの(言葉を)聞いて悟りなさい。15.人の外から入るもので、その人を汚すことができるものは何もない。かえって、人から出て来るものが人を汚すのである」。
17.イエスが群衆を離れて家に入られると、イエスの弟子たちが譬えについてイエスに尋ねた。18.イエスは彼らに言われた。「あなたがたも、そんなに物わかりが悪いのか。外から人に入ってくるどんなものも、その人を汚すことはできないという事がわからないのか。19.なぜなら、それは人の心に入るのではなく腹に入り、そして外に出て行く」。イエスは、すべての食物を清いものとされた。20.さらにこう言われた。「人から出てくるもの、それが人を汚す。21.内側から、つまり人々の心から、悪い思いが出てくるからである。不品行、盗み、殺人、22.姦淫、貪欲、不正、だまし、放縦、ねたみ、悪意、ののしり、高慢、無分別など、23.これらの悪はすべて中から出てきて、人を汚すのである」。
24.さて、イエスはそこを立ち去り、ティルスの地方へ行かれた。そして誰にも知られないように、ある家に入られたが、隠れていることができなかった。25.それどころか、汚れた霊にとりつかれた幼い娘を持つ女が、イエスのことをすぐに聞きつけ、来てその足元にひれ伏した。26.女はギリシア人で、シリア・フェニキア生まれの婦人であったが、イエスに、「自分の娘から悪霊を追い出してくださるように」とお願いした。27.イエスは女に言われた。「先ず、子供たちに充分食べさせなければならない。だから、子供たちのパンを取り上げて、小犬たちに投げてやるのは良いことではない」。28.しかし、女は答えてイエスに言った。「主よ、食卓の下の小犬たちも、幼子たちの落としたパン屑は食べます」。29.そこでイエスは彼女に言われた。「そうまで言うのだから、お帰り。悪霊は、あなたの娘さんから出て行った」。30.そこで女が自分の家に戻ってみると、幼子が寝台の上に横たわり、悪霊がすでに出て行ったのがわかった。

31.それからイエスは再びティルスの地方を出て、シドンを経てデカポリス地方の間のガリラヤ湖へ行かれた。32.すると、人々は耳が聞こえず、話すことも不自由な人をイエスのもとに連れてきて、「手を彼の上に置いてくださるように」とお願いした。33.イエスは群衆の中から密かにその人を脇に連れ出し、ご自分の指をその人の両耳に差し入れ、(指に)つばをつけて、その人の舌に触れられた。34.そして、天を見上げ深く息をして、その人に「エッファタ」と言われた。これは「開け」という意味である。35.すると[すぐに]その人の聴覚が開かれ、また舌の縛りもゆるんで正確に話し出した。36.イエスは人々に、「誰にも話さないように」と厳しくお命じになった。しかし、厳しくお命じになればなるほど、彼らはかえってますます言い広めた。37.また、人々は非常に驚いて言った。「この方がなさったことは、みな素晴らしい。耳の聞こえない人々を聞こえるようにし、口の利けない人々を話せるようにされた」。



●「自然の中で聴く聖書」マルコによる福音書 7章


★ κοιναῖς χερσίν, τοῦτʼ ἔστιν ἀνίπτοις
  「汚れた手、つまり洗わない(手)」 2節 

「汚れた手」についてマルコ自身が注釈していることによれば、「汚れた手」とは「洗わない手」のことである。ただしここで使われている ἀνίπτοις (洗わないー形容詞、複数)は宗教上の儀式主義(ritual)を意味する。故に「洗わない手」とは、単に衛生上の「よごれた手、不潔な手」を意味するのではなく、宗教儀礼上の「けがれた手」を意味する。

 οὐδέν ἐστιν ἔξωθεν τοῦ ἀνθρώπου εἰσπορευόμενον εἰς αὐτὸν ὃ δύναται κοινῶσαι αὐτόν, ἀλλὰ τὰ  ἐκ τοῦ ἀνθρώπου ἐκπορευόμενά ἐστιν τὰ κοινοῦντα τὸν ἄνθρωπον.(15)
  人の外から入るもので、その人を汚すことができるものは何もない。かえって、人から出てくるものが人を汚すのです」 15節
   
  πᾶν τὸ ἔξωθεν εἰσπορευόμενον εἰς τὸν ἄνθρωπον οὐ δύναται αὐτὸν κοινῶσαι
  「外から人に入ってくるどんなものも、その人を汚すことはできない」 18節

  καθαρίζων πάντα τὰ βρώματα;
  「イエスは、すべての食物を清いとされた」 19節

上記のテキストを理解するには、2~4節のテキストから始める必要がある。つまり、文脈は宗教儀礼上の汚れ(けがれ)について言及し(2節)、さらに食事の前の「念入りな手洗い」(3節)、市場から帰った時の「全身洗い」、食器や寝台に至るまで宗教儀礼上の「清め」の細部についてのことであった。食器も寝台も人間の衣、食、住に直接関わるものであるにせよ、それらはファリサイ派の人たちや律法学者が言うように(ユダヤ教が言うように)昔の言い伝えどうりに、宗教上の様々な理由により汚されるものなのか。イエスはそれに反論する形で、そういう意味での汚れの理由を否定されたのである。このような文脈の中で19節を読めば、イエスの言われた意味が理解できる。イエスが個々の食物のことを言われたのではいことは明白である。彼らが言うような理由で汚れるものは一つとしてないのだということを言われたのである。ここで「汚す」と訳されているギリシア語の元の動詞は、すべてκοινόω(コイノオー) であり、一般的な「汚す」を意味する動詞であるが、7章全体の文脈の中では、2節の ἀνίπτοις(アニプトイス)  (儀式主義の「 あらわない手」)と同義語として理解すべき。むしろ人間から出てくるものこそが(罪が)人を汚すのである(20節)。

★「入念に手を洗ってからでないと食事をせず」(3)
「入念に」にを表すギリシア語は πυγμή(ピュグメー)。これは「こぶし」「げんこつ」を意味する言葉。ゆえに「念入りに洗う」とは、手のひらをもう片方の手のげんこつにした手にこすりつけて洗うという動作を意味するものと解釈する学者もいる。



2011年10月2日日曜日

新約聖書原典「マルコによる福音書」6章の翻訳(私訳)

マルコによる福音書 

6章


1.さて、イエスはそこを出て、ご自分の故郷へ行かれた。イエスの弟子たちも彼に従った。2.安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々が聞いていて、仰天して言った。「この人はこれらの事をどこから得たのだろう。また、この人が授かった知恵と、その手によって行われているこのような力は、誰が与えたのだろうか。3.この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟であって、彼の姉妹たちはここに我々のところにいるではないか」。こうして彼らはイエスを疑っていた。4.そこでイエスは彼らに、「預言者が敬われないのは、自分の故郷や自分の親戚、また自分の家族の間だけである」と言われた。5.そしてそこでは、わずかな病人に手を置いて癒された以外は、何も力ある業を行うことがお出来にならなかった。6.イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは村々を行き巡って教えられた。
7.また十二人の者たちをお召しになり、彼らを二人ずつ遣わすこととし、彼らに汚れた霊どもを(追い出す)権能をお授けになった。8.そして「旅に出るのに、杖一本の他は、パンも袋も、腰帯の中に銅貨も何も持たず、9.ただ、履き物をはき、二枚の下着を身に着けてはならない」と彼らにお命じになった。10.そして彼らに言われた。「もし、どこかの家に入ったら、そこから立ち去るまでは、そこにとどまりなさい。11.しかし、あなたがたを迎え入れようとせず、あなたがたの(話を)聞こうともしない地域があれば、そこから出て行く時、彼らに対する証明として、あなたがたの足の下についたほこりを払い落としなさい」。12.そこで彼らは出かけて行って、人々に悔い改めるようにと宣べ伝えた。13.また多くの悪霊を追い出し、オリーブ油を塗って多くの病気の人たちを癒していた。
14.さて、イエスの名が知れわたることとなり、ヘロデ王の耳にも入った。また人々は、「バプテスマのヨハネが死人たちの中から生き返ったのだ。だから彼の中に力が働いているのだ」と言っていた。15.しかし他の人々は「エリヤだ」と言い、他の人々は「預言者たちの中の一人ではないだろうか」と言っていた。16.ところがヘロデがこれを聞いて、「わたしが首を斬ったあのヨハネが生き返ったのだ」と言った。
17.このヘロデは、自分の兄弟であるフィリポの妻ヘロディアと結婚したが、その事で人を遣わしてヨハネを捕らえ、彼を牢獄につないだ。18.それは、ヨハネがヘロデに、「あなたの兄弟の妻を自分のものとするのは律法で許されていない」と言っていたからである。19.だから、ヘロディアはヨハネに恨みを抱き、彼を殺そうと思っていたが出来ないでいた。20.なぜなら、ヘロデはヨハネが正しく聖なる人であることを知って、彼を畏れ保護していて、その話しを非常に当惑しながらも、喜んで聞いていたからである。
21.ところが良い機会が訪れた。ヘロデは自分の誕生日に、自分の高官たちや千人隊長たち、またガリラヤの重だった人々を招いて宴会を催した。22.そこへ、ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデと同席の人たちを喜ばせた。王は少女に、「欲しいものは何でも求めなさい。お前にあげよう」と言った。23.また、「お前が望むなら、わたしのこの国の半分でもお前にあげよう」と、[きっぱりと]誓ったのである。24.そこで少女は出て行き彼女の母親に、「何をお願いしましょうか」と言うと、母親は、「バプテスマのヨハネの首を」と言った。25.そこで少女はすぐに急いで王の所へ入って行き、願って「今すぐ、バプテスマのヨハネの首を盆にのせて私にいただきたいのです」と言った。26.王は深く悲しんだが、誓ったことゆえ、列席者たちの手前もあり、少女(の願い)を拒みたくなかった。27.そこで王は直ちに刑吏を遣わして、バプテスマのヨハネの首を持ってくるように命じた。刑吏は行って、牢の中でヨハネの首を切った。28.彼はヨハネの首を盆にのせて運び、それを少女に与え、少女はそれを自分の母親に与えた。29.ヨハネの弟子たちは(この出来事を)聞いてやって来て、その遺体を引き取り墓に納めた。
30.さて、使徒たちはイエスの所に集まって来て、自分たちが行ったこと、教えたことひとつひとつ全てを報告した。31.イエスは彼らに「さあ、あなたがただけで人のいない所へ行って、しばらく休みなさい」と言われた。なぜなら大勢の人々が行き来していて、弟子たちは食事をとる時間もなかったからである。
32.そこで彼らは自分たちだけで、舟で人のいない所へ行った。33.ところが、弟子たちが出かけて行くのを見て、多くの人々がそれと知って、あらゆる町から陸地を通ってその所へ一斉に走り、弟子たちより先に着いた。
34.イエスは(舟から)上がられると、多くの群衆をご覧になり、彼らに深い同情を寄せられた。彼らが飼い主のいない羊たちのようであったからである。そして多くの事を彼らに教え始められた。
35.時間もすでにだいぶ過ぎ、弟子たちがイエスのそばに来て「ここはさびしい所です。また時間もすでにだいぶ過ぎています。36.人々を解散させ、集落や村の辺りへ行って、何か自分のために食べものを買うようにさせてください」と言った。37.しかしイエスは答えて彼らに言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。弟子たちはイエスに言った。「わたしたちが二百デナリオンのパンを買いに行って、彼らに食べさせるのですか」。38.イエスは弟子たちに言われた。「パンは幾つあるか。行って見てきなさい」。そこで弟子たちは確かめて言った。「五つあります。それに魚が二匹です」。39.イエスは弟子たちに、みんなをいくつもの組に分けて青草の上に座らせるようにお命じになった。40.人々はそれぞれ百人と五十人の組になって座った。41.それからイエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで感謝の祈りをささげ、それらのパンをさいて人々に配るために弟子たちに渡された。また二匹の魚も全員に分け与えられた。42.すべての人が食べて満腹になった。43.そして、パンのかけらと魚の余りを寄せ集めると、十二のかごにいっぱいになった。44.[パンを]食べた人々は男が五千人であった。
45.それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、ご自分が群衆を解散させておられる間に、向こう岸のベトサイダへ先におやりになった。46.そして彼らと別れてから、イエスは祈るために山へ出かけられた。47.夕方となり、舟は湖の真ん中にあったが、イエスご自身はおひとり陸地におられた。48.ところが、逆風のために弟子たちが舟を漕ぎ悩まされているのをご覧になり、夜が明ける頃、イエスは湖の上を歩いて彼らのところに来られ、彼らのそばを通り過ぎようとされた。49.そこで弟子たちは、湖の上を歩いておられるイエスを見て幽霊だと思い、叫び声をあげた。50.みんなの者たちは、イエスを見て心が乱されたからである。しかし、イエスはすぐに弟子たちと話しをされ、彼らに言われた。「勇気を出しなさい。わたしだ。恐れることはない」。51.そして、舟に乗り込んで弟子たちのそばに来られると風は止んだ。彼らは内心、非常に[過度に]驚いていた。52.それはパンのことを理解しておらず、彼らの心が鈍くなっていたからである。

53.こうして彼らは湖を渡ってゲネサレトの地に着いて舟をつないだ。54.彼らが舟から上がると、人々はすぐそれがイエスだと分かった。55.一行はその地方全域を駆けめぐり、人々はイエスがおられる場所を聞いては、そこへ病気の人たちを床に乗せたまま、運び始めたのである。56.イエスが入って行かれる村や町や里はどこでも、人々は病気の人たちを広場に置いて、せめてその衣のふさにでも触れさせたいとイエスに願った。そしてイエスに触れた者たちはみな救われていた。



●「自然の中で聴く聖書」マルコによる福音書 6章


καὶ ἐσκανδαλίζοντο ἐν αὐτῷ. 「こうして彼らはイエスを疑っていた」(3節)

上記はイエスがご自分の故郷へお帰りになった時、安息日に語られた教えに対する村の人々の反応である(3節)。ここの訳は、口語訳、新共同訳、新改訳とも「躓いた」と訳している部分である。σκανδαλίζω(ἐσκανδαλίζοντοは未完了過去、受動態、3複) という言葉は「罪を犯させる」「罪に落とす」「信仰を無くさせる」などのほか、ἐν がその後に来る場合、「~を拒絶する」「~を疑う」の意味を持つ。「疑っていた」は原典に未完了過去・受動態が使われていているためである、ここは文脈の上からも「躓いた」より、「疑っていた」がより原典の意味に近いと思われる。

καὶ μὴ ἐνδύσησθε δύο χιτῶνας. 「二枚の下着を身に着けてはならない」(9節)

上記は十二弟子派遣にあたりイエスが彼らに言われた言葉である。マタイ(10:10)、ルカ(9:3)では「二枚の下着を持つな」であるが、マルコでは「身に着けるな」又は「着るな」となっていることに注意。「下着」は袖の短い膝までの肌着のこと。2枚重ねで下着を着ることは、当時のユダヤ人の習慣でもあった。

ὅτι ἦσαν ὡς πρόβατα μὴ ἔχοντα ποιμένα, 「彼らが飼い主のいない羊たちのようであったからである」(34節)

 ποιμένα は「羊飼い」の意味。「彼らが羊飼いのいない羊たちのようであったからである」のほうが良いかも知れない。

★「人々はそれぞれ百人と五十人の組になって座った」(40)
百人と五十人の組がいくつも出来上がり、それぞれの組が長方形をなして向かい合う形で座った。40節の「組になって」πρασιαί πρασιαί(プラシアイ  プラシアイ)は、「いくつもの長方形の花壇のように整然と座った人々の群れを、主格(複数)で副詞的に表現した句」(新約聖書ギリシア語辞典・織田 昭)である。 

καὶ ἰδὼν αὐτοὺς βασανιζομένους ἐν τῷ ἐλαύνειν「彼らが舟を漕ぎ悩まされているのを見て…」(48節)

逆風に悩まされた時の弟子たちの様子である。場所はガリラヤ湖の真ん中、夜の嵐の湖上、小さな舟の中である。懸命のオール操作もむなしく、舟は風の力に勝てず流されるままであった。イエスはこの時、舟には乗り合わせず陸におられた。しかし、上の一文は弟子たちのこの一夜の出来事をイエスは見ておられた、または知っておられたのである。 ἰδὼν は五感によって「見る」「知る」の意味がある。

★「イエスの衣の房に触れた者たちはみな救われていた」(56)
「救われていた」εσώζοντο は、「治される」でもよいが、「救出される」「助けられる」「死の危険から解放される」の意味合いが強い。イエスの衣の房に触れた人々は、イエスによって病気が治されただけでなく、実際、死の危険から救出された、さらには霊的な意味で「救われた」のである。実際、新約聖書の多くの箇所で、この言葉は「霊的救い」を意味する言葉として訳されている。