2010年11月21日日曜日

新約聖書原典「ヨハネによる福音書」21章の翻訳(私訳)

ヨハネによる福音書 

21章


1.これらの後、イエスはティベリア湖の岸辺で、再び弟子たちに御自身を現わされた。その現れ方はこうであった。2.シモン・ペトロとディディモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの兄弟たちとイエスの他の二人の弟子たちが一緒にいた。3.シモン・ペトロが彼らに「わたしは漁に行く」と言うと、彼らはペトロに「わたし達もあなたと一緒に行く」と言って、出て来て舟に乗りこんだ。しかしその夜は何もとれなかった。4.イエスは朝早く、すでに岸辺に立っておられたが、それでも弟子たちはそれがイエスだとは気づかなかった。5.すると、イエスは彼らに言われた。「子たちよ、何か食べ物はないか」。彼らは「ありません」と答えた。6.それで、イエスは彼らに言われた。「網を舟の右側方向に投げてみなさい。そうすればとれるだろう」。そこで彼らが投げたところ、おびただしい数の魚で、もはや網を引き上げることができなかった。7.すると、イエスの愛しておられたかの弟子がペトロに、「その方は主だ」と言った。すると、シモン・ペトロは「その方は主だ」と聞いて、裸だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。8.しかし他の弟子たちは、魚が入った網を引きながら小舟で戻って来た。岸からはあまり遠くはなく、九十メートルほどのところにいたからである。
9.さて、彼らが岸に上がると炭火が置いてあり、それに魚がのせてあって、パンもあるのを見た。10.イエスは彼らに「今とった魚の内から何匹か持ってきなさい」と言われた。11.そこで、シモン・ペトロは(舟に)上がって、網を陸地に引き上げたが、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったのに網は破れていなかった。12.イエスは彼らに「来て、朝の食事をしなさい」と言われた。しかし、弟子たちの誰も、あえてその人に「あなたはどなたですか」と問いただそうとする者はいなかった。その人が主だと分かっていたからである。13.イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。魚も同じようにされた。14.イエスが死者たちの中から復活されて、弟子たちに現れたのは、これがすでに三度目である。
15.さて、彼らが朝食をすませた時、イエスはシモン・ペトロに言われた。「ヨハネの子シモンよ、あなたは、この人たちが愛する以上にわたしを愛しているか」。ペトロがイエスに言った。「そうです、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」。イエスは彼に言われた。「わたしの小羊たちを飼いなさい」。16.イエスはまた二度目に彼に言われた。「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛しているか」。ペトロがイエスに言った。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」。イエスは彼に言われた。「わたしの羊たちを養いなさい」。17.イエスは三度目に彼に言われた。「ヨハネの子シモンよ。わたしを愛しているか」。ペトロは三度も「わたしを愛しているか」と、イエスが自分に言われたので悲しみ、イエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存知です。わたしがあなたを愛していることは、あなたが承知しておられます」。[イエスは]ペトロに言われた。「わたしの羊たちを飼いなさい。18.よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯を締め、行きたい所へ行っていた。しかし年をとると自分の両手を伸ばし、そして他の人があなたを縛り、行きたくない所へ連れて行くだろう」。19.イエスがこう言われたのは、ペトロがどんな死に方で神に栄光を帰すのかを予告されたのである。また、こう言ってからペトロに「わたしに従いなさい」と言われた。
20.ペトロが振り返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。この弟子は夕食のとき、イエスの胸の方に向き直って「主よ、あなたを引き渡す者とは誰のことですか」と言った人である。21.するとこれを見て、ペトロがイエスに言った。「主よ、この人はどうなのですか」。22.イエスは彼に言われた。「わたしが来る時まで、この人が生きていることをわたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがあるか。あなたはわたしに従いなさい」。23.そこで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちに広まった。しかし、イエスはペトロに、「彼は死なない」と言われたのではなく、ただ、「わたしが来る時まで、この人が生きていることをわたしが望んだとしても、[あなたに何の関わりがあるか]」と言われたのである。

24.これらのことについて証しし、これらのことを書いたのはこの弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。25.イエスがなさったことは他にも数多くあるが、それらをひとつひとつ書き留めるなら、世界もその書かれた書物を収めきれないだろうとわたしは思う。



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●「自然の中で聴く聖書」ヨハネによる福音書 21章


ἀγαπᾷς με πλέον τούτων; λέγει αὐτῷ· ναὶ κύριε, σὺ οἶδας ὅτι φιλῶ σε.(15)
 
 上記のテキストは15節のイエスとペトロのやり取りの一部です。直訳すると「この人たちより多くわたしを愛しているか。彼は彼に(イエスに)言った。そうです、主よ、わたしがあなたを(友として)愛していることは、あなたが知っておられます」となる。イエスが使われた「愛」は「アガペー」であって、神の愛を意味するが、ペトロが使った「愛」は「フィレオー」である。フィレオーは友達同士の親しい愛(友情)を意味する言葉で、ペトロのイエスに対する愛はそのようなものであった。故にこれを訳す場合、単に「愛する」と訳したのでは、2種類の愛の違いが分からない。ゆえに、ペトロがイエスを「愛している」と言ったのは、「友情」または「親しい関係」を意味する愛であったことに注意すべきであろう。イエスが三度ペトロに問うたのは、命をかけて「イエスを愛するか」ということで、「友情」としての愛を求められたのではなかった。このアガペーへの招きがイエスの三度の問いかけとなったのであろう。


★「イエスの胸に寄りかかって」(20)

上記のごとく訳して、そのまま「イエスの胸に寄りかかって」と解釈する場合と、イエスの胸に寄りかかったのではなく、「イエスの胸の方(正面)に向き直って」と訳すこともでき、寄りかかったのは「食卓」あり、ヨハネがイエスの正面に向かって姿勢を変えたことを表しているとも解釈できる。




2010年11月11日木曜日

新約聖書原典「ヨハネによる福音書」20章の翻訳(私訳)

ヨハネによる福音 

20章


1.さて、週の初めの日、早朝くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓へ行き、墓から石が取り除かれているのを見た。2.そこで走って、シモン・ペトロともう一人のイエスの愛しておられた弟子の所へ行って、彼らに言った。「人々が主を墓から取り去りました。彼らが主をどこに置いたのか、わたしたちにはわかりません」。3.そこでペトロと、もう一人の弟子が出かけて墓へ行った。4.二人の弟子は同時に走り出したが、もう一人の弟子の方がペトロより速く前を走り、先に墓に着いた。5.そして彼は、身をかがめてのぞき込み、巻き布が置かれているのを見た。それでも、中には入らなかった。6.さて、シモン・ペトロもその弟子についてやって来て、彼は墓に入って行き、巻き布が置かれているのを確認した。7.また、イエスの頭の上に置かれていた手ぬぐいは、巻き布と一緒にではなく、離れた所に一か所にくるめて置いてあった。8.するとその時、最初に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て信じた。9.彼らは「イエスが必ず死者たちの中から甦えられる」という聖書の言葉を、まだ知らなかったからである。10.こうしてこの弟子たちは、再び自分たちの家に帰って行った。
11.しかし、マリアは墓の外で泣きながら立っていた。泣きながら身をかがめて墓の中をのぞくと、12.純白の衣を着た二人の天使が、一人はイエスの遺体が置かれていた場所の頭のところに、他の一人は足のところに腰をおろしているのを見た。13.するとその人たちが彼女に言った。「婦人よ、なぜ泣いているのか」。彼女はその人たちに「誰かが私の主を取り去ったのです。彼らが主をどこに置いたのかわからないのです」と言った。14.こう言って後ろを振り向くと、彼女はイエスが立っておられるのを見たが、それがイエスだとは気づかなかった。15.イエスは彼女に言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか」。その人が園丁だと思って、彼女がその人に言った。「旦那さま、もしあなたがあの方を取り去ったのなら、どこに置いたのか、私におっしゃってください。私がその方を引き取りますから」。16.イエスは彼女に言われた。「マリアよ」。彼女は振り向いて、その人にヘブライ語で「ラボニ」、すなわち「先生」と言った。17.イエスは彼女に言われた。「わたしに触れてはいけない。まだ父のみもとに上ってはいないのだから。それで、わたしの兄弟たちの所へ行って、彼らにこう言いなさい。『わたしは、わたしの父とあなたがたの父、わたしの神とあなたがたの神のもとへ上って行く』」。18.マグダラのマリアは行って、主にお会いしたことと、主が彼女に言われたことを弟子たちに報告した。
19.さてその日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、自分たちの居る場所の戸に鍵をかけていた。すると、イエスが入って来られ、真ん中に立ち、彼らに「平安あれ」と言われた。20.こう言って両手とわき腹を彼らに見せられた。それで弟子たちは主を見て喜んだ。21.すると、[イエスは]また彼らに言われた。「平安あれ。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わす」。22.こう言って息を吹きかけて、彼らに言われた。「聖霊を受けなさい。23.あなたがたが誰かの罪を赦すなら、それらの罪は赦され、あなたがたが誰かの罪を赦さないでそのままにしておくなら、それらの罪はそのまま残る」。
24.十二弟子の一人でディディモと呼ばれているトマスは、イエスが来られた時、彼らと一緒にいなかった。25.そこで、他の弟子たちが彼に「わたしたちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに言った。「わたしは主の両手に釘の跡を見、わたしの指をその釘の跡に入れ、わたしの手を、そのわき腹に差し入れてみなければ、決して信じない」。
26.八日の後、イエスの弟子たちが再び家の内にいて、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたがイエスが入って来られ、真ん中に立って言われた。「平安あれ」。27.それからトマスに言われた。「あなたの指をここに持ってきて、わたしの両手を見なさい。また、あなたの手を持ってきて、わたしのわき腹に差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。28.トマスは答えてイエスに言った。「わたしの主、わたしの神」。29.イエスは彼に「わたしを見たので信じたのか。見ないで信じる者たちは幸いである」と言われた。

30.さて、イエスは他にも多くのしるしを[ご自分の]弟子たちの前で行われたが、それらのことはこの書物の中には書かれていない。31.これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、信じて、彼の名によって命を得るためである。


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●「自然の中で聴く聖書」ヨハネによる福音書 20章



25.βάλω τὸν δάκτυλόν μου εἰς τὸν τύπον τῶν ἥλων καὶ βάλω μου τὴν χεῖρα εἰς τὴν πλευρὰν αὐτοῦ
    「わたしの指をその釘の跡に入れ、わたしの手を、その脇腹に差し入れてみなければ…」
 
ヨハネは βάλω(バロー・投げる)という言葉を二度ここで使用している。直訳すると、「わたしの指を釘跡に投げ入れ、わたしの手を彼の脇腹に投げ入れ」である。トマスはそれほどに、弟子達のイエスの復活証言を激しくあり得ないこととして、拒否したのである。ここで「釘」(ἥλων・エーローン)は複数。八日後にトマスの前に現れた復活のイエスは、トマスの語ったこの言葉をそのまま彼に返される。
φέρε τὴν χεῖρά σου καὶ βάλε εἰς τὴν πλευράν μου(27)
「あなたの手を持ってきて、わたしの脇腹に差し入れなさい」。直訳すると「あなたの手を持ってきて、わたしの脇腹に投げ入れなさい」となる。