2015年11月24日火曜日

新約聖書原典「コリントの人々への手紙二」3章の翻訳(私訳)

コリントの人々への手紙  

3章


1.わたしたちはふたたび、自己推薦を始めようとしているのでしょうか。それとも、ある人たちのように、あなたがたに対しての、あるいは、あなたがたからの推薦状が、わたしたちには必要なのでしょうか。2.わたしたちの推薦状はあなたがたです。それは、あなたがたの心に書かれ、すべての人々によって知られ、また読まれています。3.あなたがたは、わたしたちによって仕えられたキリストの手紙であって、墨によってではなく、生ける神の御霊によって、石で作られた板にではなく、肉の心の板に書き記されたものであることが明らかにされているのです。
4.わたしたちはこのような確信を、キリストを通して神に対して抱いています。5.わたしたちは自分で何かできると考えるほど、自分にその資格があるというのではありません。かえって、わたしたちのその資格は神から与えられるものです。6.神はわたしたちを、文字によってではなく御霊による新しい契約に仕えるのにふさわしい者とされました。というのは、文字は(人を)滅ぼしますが、御霊は(人を)生かすからです。7.もし、石に刻まれた文字による死の務めが栄光のうちに起こり、そのために、イスラエルの子らがモーセの顔を、その顔の消えゆく栄光のゆえに見つめることができなかったとすれば、8.まして御霊の務めは、どんなにか栄光あるものではないでしょうか。9.罪の宣告の務めが栄光あるものだとすれば、まして義の宣告の務めはさらに一層、栄光に満ちています。10.それは、栄光を受けたことが、この場合、さらに優れた栄光のゆえに、栄光を受けないこととなったからです。11.もし、消滅するものが栄光のゆえであったとすれば、まして存続するものは、はるかにまさって栄光のうちにあるからです。

12.だから、わたしたちはこのような希望を抱いているので、強い確信をもって行動し、13.モーセが、消滅するものの最後をイスラエルの子らに見られないように、自分の顔の上に覆いをかけたようなことはしません。14.しかし、彼らの考えはかたくなにされました。今日に至るまで、この同じ覆いが、古い契約を朗読する際に取り除かれないで残ったままになっているのです。それは(今では)キリストによって無効とされているのです。15.しかし、今日に至るまで、モーセ(の書)が読まれるときはいつも、彼らの心には覆いが掛かっているのです。16.しかし、主に立ち帰るならいつでも、覆いは取り除かれます。17.主は霊です。主の霊のあるところには自由があります。18.わたしたちはみな、顔の覆いを取り除かれて、主の栄光を鏡に映して見ながら、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられるのです。これは主の霊によってなされることです。





★「死の務め」ἡ διακονία τοῦ θανάτου(7) 
 「霊の務め」 ἡ διακονία τοῦ πνεύματος(8)

ローマ書7:10でパウロが「死に導く戒め」「命に導く戒め」と呼んでいるものと同一のもの。
前者は文字によって石の板に書かれたが、後者は霊によって心の板に記されている(3)

★「彼らの考え」(14)、「彼らの心には」(15)の「彼らと」は、パウロに批判を浴びせるユダヤ主義者たちのこと。






2015年11月13日金曜日

新約聖書原典「コリントの人々への手紙二」 2章の翻訳(私訳)

コリントの人々への手紙 二 

2章


1.そこでわたしは、また再び悲しみを抱いてあなたがたのところに行くことはすまいと決心しました。2.もし、わたしがあなたがたを悲しませるとすれば、わたしが悲しませる人以外のいったい誰が、わたしを喜ばせてくれるでしょう。3.わたしがこのように書くのは、わたしを喜ばせるべきはずの人々から、そちらに行って悲しい思いをさせられたくないからです。また、わたしの喜びはあなたがた全員の喜びであると、あなたがた一同について確信しているからです。4.わたしは多くの困難と不安な思いで、多くの涙を流しながらあなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、むしろ、わたしがあなたがたに対して溢れるばかりに抱いている愛を知っていただきたいからです。
5.もし、だれかが(人を)悲しませているとすれば、その人はわたしを悲しませているのではなく、重荷を負わせるつもりはありませんが、ある程度は、あなたがた全員を悲しませているのです。6.その人には、多くの人たちから受けたあの懲罰で充分です。7.むしろ、あなたがたはその人が、より大きな悲しみにのみ込まれてしまわないよう彼を赦し、励ましてあげなさい。8.それで、わたしはあなたがたに、彼に愛を示すことを勧めます。9.わたしがこう書くのは、あなたがたがあらゆる点で従順であるかどうか、あなたがたの練られた品性を知るためです。10.あなたがたが何かのことで人を赦すなら、わたしも(その人を)赦します。わたしが誰かを赦している場合、事実、それはわたしがキリストの御前で、あなたがたのためにそれを赦しているのです。11.それは、わたしたちがサタンによって欺かれないためです。わたしたちにはサタンの策略が理解できないからです。
12.わたしがキリストの福音のためにトロアスへ行ったとき、主によってわたしのために門が開かれましたが、13.わたしの兄弟ティトスに会えなかったので、わたしの心は気が気ではなかったのですが、人々に別れを告げてわたしはマケドニアへ出かけて行きました。

14.しかし、神に感謝。神はどんな時にもキリストによってわたしたちを勝利の凱旋に導き、わたしたちを通して、キリストを知る知識の香りを至る所であらわしてくださいます。15.なぜなら、わたしたちは、救われる者たちにとっても滅びる者たちにとっても、神に対しての芳しい香りだからです。16.滅びる者たちにとっては、死から死に至る香りですが、救われる者たちにとっては、命から命に至る香りです。17.わたしたちは多くの人々のように、神の言葉を(自分の益のために)売り物にするような者ではなく、純粋に、しかも神に属する者として、神の御前でキリストにあって語っているのです。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

14~16節に現れる「香り」とは、祭壇の上で焼かれる燔祭の動物から立ち上る芳ばしい香りのことをいう。




2015年11月10日火曜日

新約聖書原典「コリントの人々への手紙二」 1章の翻訳(私訳)

コリントの人々への手紙 二 


1章


1.神のみ旨によってキリスト・イエスの使徒(となった)パウロと兄弟ティモテから、コリントにある神の教会と、アカイアの全域にいるすべての聖徒たちへ。
2.わたしたちの父であられる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように。
3.神はほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父、憐み深い父、また慰めに満ちた神。4.神は、どんな苦しみにあってもわたしたちを慰めてくださり、わたしたち自身も神から慰められているその同じ慰めによって、あらゆる苦しみにある人々を慰めることができるようにしてくださいました。5.なぜなら、キリストの苦難がわたしたちに満ち溢れているように、わたしたちの慰めもキリストを通して満ち溢れているからです。6.もしわたしたちが苦しめられるなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もしわたしたちが慰められるなら、それはあなたがたの慰めのためであって、わたしたちが経験しているのと同じ苦難に耐える力を生み出すためなのです。7.わたしたちがあなたがたについて(抱いている)希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦難にあずかっているように、慰めにもあずかっているのをわたしたちは知っているからです。
8.兄弟たちよ、アジアでわたしたちに起こった苦難については、あなたがたに知らないでいてほしくはありません。というのは、わたしたちは耐えられないほどに極度に押しつぶされ、そうして、生きる望みを失い、9.心の中で死を覚悟しました。それは自分自身を頼みとしないで、むしろ、死者たちを復活させてくださる神を頼みとするようになるためでした。10.神は死の恐怖からわたしたちを救ってくださり、また(これからも)救ってくださるでしょう。これからも救ってくださると、わたしたちは神に望みを置いています。11.あなたがたも、わたしたちのために祈りをもって共に仕えてくれています。それは、多くの人たちからわたしたちに表わされた賜物が、わたしたちに代わって多くの人々によって感謝されるようになるためです。
12.さて、わたしたちは、この世で、特にあなたがたに対し、神の誠実さと純粋さにより、肉による知恵ではなく、神の恵みによって行動してきたことはわたしたちの誇りであり、わたしたちの良心が証しするところです。13.わたしたちはあなたがたが読んで理解できること以外には何も書きませんが、あなたがたには(次のことを)充分に理解していただきたいのです。14.すなわち、あなたがたもある程度はわたしたちのことを理解しておられるように、[わたしたちの]主イエスの日には、あなたがたがわたしたちの誇りであるように、わたしたちもあなたがたの誇りであるということです。
15.こう確信したので、わたしは先ず初めにあなたがたのところへ行こうと思いました。それは、あなたがたに二度の恵みを受けられるようにするためでした。16.そして、あなたがたのところを通ってマケドニアへ行き、また再びマケドニアからあなたがたのところに戻って来て、(その後)あなたがたによってユダヤへ送り出していただきたいのです。17.では、こう望むのは軽率な振る舞いでしょうか。それとも、わたしが考えていることは、肉に従って自分で考えていることで、わたしにとって「然り、然り」であることが、「否、否」となるためでしょうか。18.しかし、神は真実です。あなたがたに対するわたしたちの言葉は、「然り」でも、また「否」でもありません。19.わたしたち、すなわち、わたしとシルワノとティモテによってあなたがたの間で宣べ伝えられた神の子イエス・キリストは、「然り」また「否」になられたのではありません。そうではなく、キリストにおいてはただ「然り」となられたのです。20.神の約束はすべて、この方において「然り」となったからです。ですから、わたしたちはこの方を通して「アーメン」と唱え、わたしたちによって神に栄光を帰すのです。21.わたしたちとあなたがたとを、キリストに堅く結びつけてくださり、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。22.神はまたわたしたちに証印を押して、わたしたちの心に御霊による保証を与えてくださったのです。

23.わたしは神を証人として自分の命にかけて申しますが、わたしがコリントに行かないでいたのは、あなたがたに対して寛容でありたいからです。24.わたしたちは、あなたがたの信仰を支配する者ではなく、むしろあなたがたの喜びのために協力して働く者です。あなたがたが信仰に(堅く)立っているからです。




ἀνεστράφημεν ἐν τῷ κόσμῳ(12)
「私たちはこの世で行動してきた」

パウロがここで述べている『誇れるもの』とは、自分の人間的な(肉の)行動ではなく、神の恵みに導かれた『受動的な振る舞い』のことである。このことはἀνεστράφημεν(振る舞う)が受動態で書かれていることからも分かる。