2010年11月21日日曜日

新約聖書原典「ヨハネによる福音書」21章の翻訳(私訳)

ヨハネによる福音書 

21章


1.これらの後、イエスはティベリア湖の岸辺で、再び弟子たちに御自身を現わされた。その現れ方はこうであった。2.シモン・ペトロとディディモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの兄弟たちとイエスの他の二人の弟子たちが一緒にいた。3.シモン・ペトロが彼らに「わたしは漁に行く」と言うと、彼らはペトロに「わたし達もあなたと一緒に行く」と言って、出て来て舟に乗りこんだ。しかしその夜は何もとれなかった。4.イエスは朝早く、すでに岸辺に立っておられたが、それでも弟子たちはそれがイエスだとは気づかなかった。5.すると、イエスは彼らに言われた。「子たちよ、何か食べ物はないか」。彼らは「ありません」と答えた。6.それで、イエスは彼らに言われた。「網を舟の右側方向に投げてみなさい。そうすればとれるだろう」。そこで彼らが投げたところ、おびただしい数の魚で、もはや網を引き上げることができなかった。7.すると、イエスの愛しておられたかの弟子がペトロに、「その方は主だ」と言った。すると、シモン・ペトロは「その方は主だ」と聞いて、裸だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。8.しかし他の弟子たちは、魚が入った網を引きながら小舟で戻って来た。岸からはあまり遠くはなく、九十メートルほどのところにいたからである。
9.さて、彼らが岸に上がると炭火が置いてあり、それに魚がのせてあって、パンもあるのを見た。10.イエスは彼らに「今とった魚の内から何匹か持ってきなさい」と言われた。11.そこで、シモン・ペトロは(舟に)上がって、網を陸地に引き上げたが、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったのに網は破れていなかった。12.イエスは彼らに「来て、朝の食事をしなさい」と言われた。しかし、弟子たちの誰も、あえてその人に「あなたはどなたですか」と問いただそうとする者はいなかった。その人が主だと分かっていたからである。13.イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。魚も同じようにされた。14.イエスが死者たちの中から復活されて、弟子たちに現れたのは、これがすでに三度目である。
15.さて、彼らが朝食をすませた時、イエスはシモン・ペトロに言われた。「ヨハネの子シモンよ、あなたは、この人たちが愛する以上にわたしを愛しているか」。ペトロがイエスに言った。「そうです、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」。イエスは彼に言われた。「わたしの小羊たちを飼いなさい」。16.イエスはまた二度目に彼に言われた。「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛しているか」。ペトロがイエスに言った。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」。イエスは彼に言われた。「わたしの羊たちを養いなさい」。17.イエスは三度目に彼に言われた。「ヨハネの子シモンよ。わたしを愛しているか」。ペトロは三度も「わたしを愛しているか」と、イエスが自分に言われたので悲しみ、イエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存知です。わたしがあなたを愛していることは、あなたが承知しておられます」。[イエスは]ペトロに言われた。「わたしの羊たちを飼いなさい。18.よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯を締め、行きたい所へ行っていた。しかし年をとると自分の両手を伸ばし、そして他の人があなたを縛り、行きたくない所へ連れて行くだろう」。19.イエスがこう言われたのは、ペトロがどんな死に方で神に栄光を帰すのかを予告されたのである。また、こう言ってからペトロに「わたしに従いなさい」と言われた。
20.ペトロが振り返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。この弟子は夕食のとき、イエスの胸の方に向き直って「主よ、あなたを引き渡す者とは誰のことですか」と言った人である。21.するとこれを見て、ペトロがイエスに言った。「主よ、この人はどうなのですか」。22.イエスは彼に言われた。「わたしが来る時まで、この人が生きていることをわたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがあるか。あなたはわたしに従いなさい」。23.そこで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちに広まった。しかし、イエスはペトロに、「彼は死なない」と言われたのではなく、ただ、「わたしが来る時まで、この人が生きていることをわたしが望んだとしても、[あなたに何の関わりがあるか]」と言われたのである。

24.これらのことについて証しし、これらのことを書いたのはこの弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。25.イエスがなさったことは他にも数多くあるが、それらをひとつひとつ書き留めるなら、世界もその書かれた書物を収めきれないだろうとわたしは思う。



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●「自然の中で聴く聖書」ヨハネによる福音書 21章


ἀγαπᾷς με πλέον τούτων; λέγει αὐτῷ· ναὶ κύριε, σὺ οἶδας ὅτι φιλῶ σε.(15)
 
 上記のテキストは15節のイエスとペトロのやり取りの一部です。直訳すると「この人たちより多くわたしを愛しているか。彼は彼に(イエスに)言った。そうです、主よ、わたしがあなたを(友として)愛していることは、あなたが知っておられます」となる。イエスが使われた「愛」は「アガペー」であって、神の愛を意味するが、ペトロが使った「愛」は「フィレオー」である。フィレオーは友達同士の親しい愛(友情)を意味する言葉で、ペトロのイエスに対する愛はそのようなものであった。故にこれを訳す場合、単に「愛する」と訳したのでは、2種類の愛の違いが分からない。ゆえに、ペトロがイエスを「愛している」と言ったのは、「友情」または「親しい関係」を意味する愛であったことに注意すべきであろう。イエスが三度ペトロに問うたのは、命をかけて「イエスを愛するか」ということで、「友情」としての愛を求められたのではなかった。このアガペーへの招きがイエスの三度の問いかけとなったのであろう。


★「イエスの胸に寄りかかって」(20)

上記のごとく訳して、そのまま「イエスの胸に寄りかかって」と解釈する場合と、イエスの胸に寄りかかったのではなく、「イエスの胸の方(正面)に向き直って」と訳すこともでき、寄りかかったのは「食卓」あり、ヨハネがイエスの正面に向かって姿勢を変えたことを表しているとも解釈できる。




2010年11月11日木曜日

新約聖書原典「ヨハネによる福音書」20章の翻訳(私訳)

ヨハネによる福音 

20章


1.さて、週の初めの日、早朝くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓へ行き、墓から石が取り除かれているのを見た。2.そこで走って、シモン・ペトロともう一人のイエスの愛しておられた弟子の所へ行って、彼らに言った。「人々が主を墓から取り去りました。彼らが主をどこに置いたのか、わたしたちにはわかりません」。3.そこでペトロと、もう一人の弟子が出かけて墓へ行った。4.二人の弟子は同時に走り出したが、もう一人の弟子の方がペトロより速く前を走り、先に墓に着いた。5.そして彼は、身をかがめてのぞき込み、巻き布が置かれているのを見た。それでも、中には入らなかった。6.さて、シモン・ペトロもその弟子についてやって来て、彼は墓に入って行き、巻き布が置かれているのを確認した。7.また、イエスの頭の上に置かれていた手ぬぐいは、巻き布と一緒にではなく、離れた所に一か所にくるめて置いてあった。8.するとその時、最初に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て信じた。9.彼らは「イエスが必ず死者たちの中から甦えられる」という聖書の言葉を、まだ知らなかったからである。10.こうしてこの弟子たちは、再び自分たちの家に帰って行った。
11.しかし、マリアは墓の外で泣きながら立っていた。泣きながら身をかがめて墓の中をのぞくと、12.純白の衣を着た二人の天使が、一人はイエスの遺体が置かれていた場所の頭のところに、他の一人は足のところに腰をおろしているのを見た。13.するとその人たちが彼女に言った。「婦人よ、なぜ泣いているのか」。彼女はその人たちに「誰かが私の主を取り去ったのです。彼らが主をどこに置いたのかわからないのです」と言った。14.こう言って後ろを振り向くと、彼女はイエスが立っておられるのを見たが、それがイエスだとは気づかなかった。15.イエスは彼女に言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか」。その人が園丁だと思って、彼女がその人に言った。「旦那さま、もしあなたがあの方を取り去ったのなら、どこに置いたのか、私におっしゃってください。私がその方を引き取りますから」。16.イエスは彼女に言われた。「マリアよ」。彼女は振り向いて、その人にヘブライ語で「ラボニ」、すなわち「先生」と言った。17.イエスは彼女に言われた。「わたしに触れてはいけない。まだ父のみもとに上ってはいないのだから。それで、わたしの兄弟たちの所へ行って、彼らにこう言いなさい。『わたしは、わたしの父とあなたがたの父、わたしの神とあなたがたの神のもとへ上って行く』」。18.マグダラのマリアは行って、主にお会いしたことと、主が彼女に言われたことを弟子たちに報告した。
19.さてその日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、自分たちの居る場所の戸に鍵をかけていた。すると、イエスが入って来られ、真ん中に立ち、彼らに「平安あれ」と言われた。20.こう言って両手とわき腹を彼らに見せられた。それで弟子たちは主を見て喜んだ。21.すると、[イエスは]また彼らに言われた。「平安あれ。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わす」。22.こう言って息を吹きかけて、彼らに言われた。「聖霊を受けなさい。23.あなたがたが誰かの罪を赦すなら、それらの罪は赦され、あなたがたが誰かの罪を赦さないでそのままにしておくなら、それらの罪はそのまま残る」。
24.十二弟子の一人でディディモと呼ばれているトマスは、イエスが来られた時、彼らと一緒にいなかった。25.そこで、他の弟子たちが彼に「わたしたちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに言った。「わたしは主の両手に釘の跡を見、わたしの指をその釘の跡に入れ、わたしの手を、そのわき腹に差し入れてみなければ、決して信じない」。
26.八日の後、イエスの弟子たちが再び家の内にいて、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたがイエスが入って来られ、真ん中に立って言われた。「平安あれ」。27.それからトマスに言われた。「あなたの指をここに持ってきて、わたしの両手を見なさい。また、あなたの手を持ってきて、わたしのわき腹に差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。28.トマスは答えてイエスに言った。「わたしの主、わたしの神」。29.イエスは彼に「わたしを見たので信じたのか。見ないで信じる者たちは幸いである」と言われた。

30.さて、イエスは他にも多くのしるしを[ご自分の]弟子たちの前で行われたが、それらのことはこの書物の中には書かれていない。31.これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、信じて、彼の名によって命を得るためである。


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●「自然の中で聴く聖書」ヨハネによる福音書 20章



25.βάλω τὸν δάκτυλόν μου εἰς τὸν τύπον τῶν ἥλων καὶ βάλω μου τὴν χεῖρα εἰς τὴν πλευρὰν αὐτοῦ
    「わたしの指をその釘の跡に入れ、わたしの手を、その脇腹に差し入れてみなければ…」
 
ヨハネは βάλω(バロー・投げる)という言葉を二度ここで使用している。直訳すると、「わたしの指を釘跡に投げ入れ、わたしの手を彼の脇腹に投げ入れ」である。トマスはそれほどに、弟子達のイエスの復活証言を激しくあり得ないこととして、拒否したのである。ここで「釘」(ἥλων・エーローン)は複数。八日後にトマスの前に現れた復活のイエスは、トマスの語ったこの言葉をそのまま彼に返される。
φέρε τὴν χεῖρά σου καὶ βάλε εἰς τὴν πλευράν μου(27)
「あなたの手を持ってきて、わたしの脇腹に差し入れなさい」。直訳すると「あなたの手を持ってきて、わたしの脇腹に投げ入れなさい」となる。



2010年10月27日水曜日

新約聖書原典「ヨハネによる福音書」19章の翻訳(私訳)

ヨハネによる福音書 

19章


1.そこで、ピラトはイエスを引き取って鞭打ちにした。2.それから、兵卒たちは、いばらで冠を編んでイエスの頭に載せ、紫色の衣を着せて、3.イエスのそばに来て「ユダヤ人たちの王、ようこそ」と言いながら、イエスに平手打ちをくらわせた。4.ピラトは再び外へ出て来て、彼らに言った。「見よ、わたしは彼を外へ連れ出す。そうすれば、わたしが彼の内に何の過ちも見出せないことが、あなたがたにもわかるだろう」。5.そこでイエスは、いばらの冠をかぶり、紫色の衣をまとって外に出て来られた。そしてピラトが彼らに言った。「見よ、この人だ」。
6.すると、祭司長たちや下役たちがイエスを見て、叫んで言った。「十字架にかけよ。十字架にかけよ」。ピラトが彼らに言った。「あなたがたが彼を引き取って十字架にかけるがよい。わたしとしては、彼の内に何の過ちも見出せないのだから」。7.ユダヤ人たちがピラトに答えた。「我々には律法があります。律法によれば、その男は死ぬのが当然です。自分を神の子としたのだから」。8.するとピラトはこの言葉を聞いて、ますます恐れた。9.そして再び官邸に入って行ってイエスに言った。「あなたはどこから来たのか」。しかしイエスは何も彼にお答えにならなかった。10.そこでピラトはイエスに言った。「わたしに話さないのか。わたしには、あなたを赦すことも十字架につけることもできる権限があるのを知らないのか」。11.イエスは[彼に]答えられた。「天から与えられたのでなければ、誰もわたしに対して何の権限もない。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はより大きい」。12.このときから、ピラトはイエスを赦そうとしたが、ユダヤ人たちは叫んで言った。「もしこの男を赦すなら、あなたは皇帝の味方ではありません。誰でも自分を王とする者は、皇帝に背くのです」。13.そこでピラトはこれらの言葉を聞くと、イエスを、「敷石」、すなわちヘブライ語で「ガバタ」と呼ばれる場所へ連れ出し、裁判の席についた。14.その日は過越の準備の日で、時は昼の十二時頃であった。そして、ユダヤ人たちに言った。「見よ、あなたがたの王だ」。15.すると、そこにいる人々が叫んだ。「殺せ、殺せ、彼を十字架にかけろ」。ピラトが彼らに「あなたがたの王をわたしが十字架にかけるのか」と言うと、祭司長たちが答えた。「わたしたちには皇帝以外に王はいない」。16.そこで、ピラトはイエスを十字架にかけるため、彼らに引き渡した。
こうして彼らはイエスを引き取った。17.それから、イエス自ら十字架をかつぎ「されこうべ(頭蓋骨)」と呼ばれる所、すなわちヘブライ語で「ゴルゴタ」と呼ばれる所へ出て行かれた。18.その所で、彼らはイエスを十字架にかけた。またイエスと一緒に他の二人の者を、イエスを真ん中にして両側に十字架にかけた。19.ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。そこにはこう書かれていた。
「ナザレ人イエス、ユダヤ人たちの王」。20.多くのユダヤ人たちがこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架にかけられた場所が、都に近い所にあったからである。それはヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。21.すると、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに「『ユダヤ人たちの王』と書かないで、その男が『自分はユダヤ人たちの王であると、ただ言っただけ』と書いてください」と言った。22.ピラトが答えた。「わたしが書いたものは、わたしが(権限で)書いたのだ」。
 23.さて、兵卒たちは、イエスを十字架にかけてから、その上衣を取り四つに分け、それぞれの兵卒の分け前とした。下着も手にしたが、その下着には縫い目がなく、上部から一度に織られたものであった。24.そこで彼らは互いに言った。「それを裂かないで、それが誰のものになるか、くじで決めよう」と言った。それは、
『彼らは、自分のために、わたしの上衣を分け、
わたしの衣服については、くじ引きにした』
[と言う]聖書の言葉が成就するためである。
だから、兵卒たちはこれらのことを行ったのである。
25.さて、イエスの十字架のそばには、イエスの母とイエスの母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。26.するとイエスは、母と、そばにいたイエスの愛しておられた弟子を見て、母に言われた。「婦人よ、御覧、あなたの息子です」。27.次にこの弟子に言われた。「御覧、あなたの母です」。そしてこの時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。
28.この後、イエスはついに全てが成し遂げられたことを悟り、聖書が成就されるために「わたしは渇く」と言われた。29.そこには、酸いぶどう酒が満たされた器が置いてあった。そこで人々は、その酸いぶどう酒をいっぱいに含ませた海綿をヒソプに巻きつけ、イエスの口元に差し出した。30.するとイエスはその酸いぶどう酒を受けられると、「成し遂げられた」と言われ、頭をたれ、息を引き取られた。
31.その日は準備の日であったので、ユダヤ人たちは、それらの遺体を安息日にーその安息日は大事な日であったー十字架上に残したままにしないために、彼らの足を折ってから取り除くようピラトに願い求めた。32.そこで、兵卒たちが来て、イエスと一緒に十字架にかけられた最初の男の足と、もう一人の男の足を折った。33.ところが、彼らがイエスの所に来たが、イエスがすでに死んでおられたのを見たので、その足を折ることをしなかった。34.しかし、兵卒の一人が自分の槍でイエスのわき腹を突き刺した。するとすぐに、血と水が流れ出た。35.そしてこれを見た者が証しした。そして、彼の証しは真実である。その人は、真実を語っていることを知っている。それは、あなたがたも信じるようになるためである。36.これらの事が起こったのは『彼の骨は折られることはない』という聖書の言葉が成就されるためである。37.さらに、また聖書の別の個所では、『彼らは自分たちが刺し通した方を見るであろう』とも言っている。

38.これらの後、イエスの弟子で、ユダヤ人たちを恐れてそのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取りおろしたいとピラトに願い求めた。それでピラトが許したので、彼は行ってイエスの遺体を取りおろした。39.また以前、夜にイエスのもとに行ったことがあるニコデモも、百リトラ程《約三十二キログラム》の没薬とアロエを混ぜたものを携えてやって来た。40.こうして彼らはイエスの遺体を引き取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料と一緒にそれを亜麻布で巻いた。41.さて、イエスが十字架にかけられた場所には園があった。その園には、まだ誰も葬られたことのない新しい墓があった。42.その日はユダヤ人たちの準備の日であり、この墓が近かったので、彼らはそこにイエスを納めた。


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●「自然の中で聴く聖書」ヨハネによる福音書 19章



◆23 Οἱ οὖν στρατιῶται, ὅτε ἐσταύρωσαν τὸν Ἰησοῦν, ἔλαβον τὰ ἱμάτια αὐτοῦ καὶ ἐποίησαν τέσσαρα μέρη, ἑκάστῳ στρατιώτῃ μέρος, καὶ τὸν χιτῶνα. ἦν δὲ ὁ χιτὼν ἄραφος, ἐκ τῶν ἄνωθεν ὑφαντὸς διʼ ὅλου.
 
23.兵卒たちは、イエスを十字架にかけてから、その上衣を取り四つに分け、それぞれの兵卒の分け前とした。下着も手にしたが、その下着には縫い目がなく、上部から一度に織られたものであった。 

複数形の名詞を、その通りに訳すのはむずかしい。だからほとんどの訳では「上着を取り」(口語訳)、「服を取り」(新共同訳)、「着物を取り」(新改訳)というように単数で訳している。しかし単数では、その後の言葉 ἐποίησαν τέσσαρα μέρη,(四つに分けた)が理解困難となる。「一枚の衣服を四つに分けた」と受けとられかねない。ἔλαβον τὰ ἱμάτια αὐτοῦは直訳すると「彼の複数の上衣を受けとり」であって、明らかに数枚の上衣をイエスは着ていたのである。それを四つに分けたのだから、イエスの時代の一般的な服装が、外套と合わせて数枚の上衣を着ていたことになる。 καὶ τὸν χιτῶνα(下着も)の下着は単数である。当時の下着は、膝まである下着であった。この一枚の下着が一度織りのものだったため、今度は四つに分けることが出来ず、くじで決めたのだった。

13 ὁ οὖν Πιλᾶτος ἀκούσας τῶν λόγων τούτων ἤγαγεν ἔξω τὸν Ἰησοῦν καὶ ἐκάθισεν ἐπὶ βήματος εἰς τόπον λεγόμενον Λιθόστρωτον, Ἑβραϊστὶ δὲ Γαββαθα.

13.ピラトはこれらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、「敷石」、すなわちヘブライ語で「ガバタ」と呼ばれる場所へ行き、裁判の席についた ( ἐκάθισεν ἐπὶ βήματος

ここで問題なのは、裁判の席についたのはイエスなのか、それともピラトなのかということである。
新共同訳はイエスだとしており、口語訳、新改訳はピラトだとしている。 ἐκάθισεν (ついた)は3人称単数、アオリストだから、自動詞では「彼は座った」、他動詞では「彼を座らせた」となり、どちらでも訳は可能。しかし、その後の ἐπὶ βήματος(エピ  ベーマトス) は一段高くなった裁判の席を意味し、ピラトはその上に座したのである。このことから裁判官であるピラトが一段高くなった裁判の席についたとするのが自然である。罪人が裁判官より高い位置に座すということはあり得ないからである。







2010年10月11日月曜日

新約聖書原典「ヨハネによる福音書」18章の翻訳(私訳)

ヨハネによる福音書 

18章


1.こう言い終えると、イエスはご自分の弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こう側へ出て行かれた。そこには園があり、イエスと弟子たちはそこへ入って行った。
2.しかし、イエスを引き渡そうとしているユダもその場所を知っていた。なぜならイエスはご自分の弟子たちと共に、度々そこに集まっておられたからである。3.そこでユダは、一隊の兵卒たちと祭司長たち、ファリサイ派の人々から遣わされた下役たちを引き連れ、たいまつやともし火、武器などを持ってそこへやってきた。4.するとイエスは、ご自分に起ころうとしていることをすべて悟って、進み出て彼らに言われた。「誰を捜しているのか」。5.彼らはイエスに答えた。「ナザレのイエスを」。イエスは彼らに言われた。「このわたしがそれである」。イエスを引き渡そうとしているユダも彼らと一緒に立っていた。6.「わたしがそれである」とイエスが言われたので、彼らは後ろに退き地面に倒れた。7.すると再びイエスは彼らに尋ねられた。「誰を捜しているのか」。彼らが言った。「ナザレのイエスを」。8.イエスは答えて彼らに、「わたしがそれである。あなたがたがわたしを捜しているのなら、この人たちが去るのを見逃してあげなさい」と言われた。9.これは、「あなたがわたしに与えてくださった人たちの誰をも、わたしは失いませんでした」とイエスが言われた言葉が成就するためである。10.すると、シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて、大祭司の僕に切りつけ、その右の耳を切り落とした。その僕の名はマルコスであった。11.するとイエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がわたしに与えてくださった杯は、これを飲まずにいられようか」。
12.そこで、兵卒たちと千人隊長およびユダヤ人の下役たちはイエスを捕らえて縛り、13.初めにアンナスのところへ連れて行った。なぜなら、彼はその年の大祭司であったカイアファのしゅうとであったからである。14.「一人の人間が民のために死ぬことは有益だ」と、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。
15.さて、シモン・ペトロと、もう一人の弟子がイエスについてきていた。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の中庭に入って行ったが、16.ペトロは、外で門のそばに立っていた。そこで、大祭司の知り合いである、このもう一人の弟子が出てきて、門番の女に言ってペトロを中に入れさせた。17.すると、若い門番の女がペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子たちの仲間ではないですか」。彼は言った。「そうではない」。18.寒かったので、僕たちや下役たちは炭火をおこし、立って暖を取っていた。ペトロも彼らと一緒にいて、立って火にあたっていた。
19.さて、大祭司がイエスに、彼の弟子達のことや、その教えについて尋ねた。20.イエスは彼に答えられた。「わたしは公然と世に語ってきた。わたしはいつも、会堂やユダヤ人たちがみな集まる神殿で教えてきた。隠れて語ったことは何もない。21.なぜわたしに尋ねるのか。わたしが何を彼らに語ったかは、それを聞いた人々に尋ねなさい。見よ、わたしの言ったことは、その人たちが知っている」。22.イエスがこう言われると、そばに立っていた下役の一人が「大祭司に対してそのような返答があるか」と言って、イエスを平手で打った。23.イエスは彼に答えられた。「もしわたしが悪いことを言ったのなら、その悪いことを証明しなさい。しかし、もし正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」。24.そこでアンナスは、イエスを縛ったまま大祭司カイアファのところに送った。
25.シモン・ペトロは立って火にあたっていた。すると人々が彼に言った。「あなたも彼の弟子ではないのか」。ペトロはそれを打ち消して言った。「そうではない」。26.大祭司の僕たちの中の一人で、ペトロが片耳を切り落とした人の親戚の者が言った。「あなたが園で彼と一緒にいたのを、わたしは見たではないか」。27.ペトロが再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。
28.さて、人々はイエスをカイアファの所から総督の官邸に連れて行った。明け方のことであった。彼らは官邸には入らなかった。それは、汚れなく過越の食事をするためであった。29.そこでピラトは外にいる彼らの所に出て来て言った。「この人に対して、あなたがたはどんな訴えを起こすのか」。30.彼らは答えてピラトに言った。「もしこの男が悪事をしていないのなら、我々は彼をあなたに引き渡したりはしません」。31.するとピラトが彼らに言った。「あなたがたが彼を引き取って、自分たちの律法によって彼を裁くがよい」。ユダヤ人たちはピラトに言った。「わたしたちには誰をも殺すことは許されていない」。32.こう言ったのは、ご自分がどんな死に方をされようとしているかを知らせるために言われたイエスの言葉が成就されるためである。
33.そこでピラトは再び官邸の中に入って行き、イエスを呼んで言った。「あなたはユダヤ人たちの王なのか」。34.イエスは答えられた。「あなたは自分からそう言うのですか、それとも、他の人たちがわたしについて、あなたにそう言ったのですか」。35.ピラトが答えた。「わたしはユダヤ人だろうか。あなたの民と祭司長たちが、わたしにあなたを引き渡したのだ。あなたは何をしたのか」。36.イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではない。もし、わたしの国がこの世のものであったなら、わたしに仕える者たちが、わたしがユダヤ人たちに引き渡されないように闘ったことだろう。しかし今や、わたしの国はこの世のものではない」。37.するとピラトがイエスに言った。「では、あなたは王なのだな」。イエスは答えられた。「あなたが言うとおり、わたしは王である。わたしは真理について証しするために生まれ、そのために世に来た。真理から生まれる者は皆、わたしの声を聞く」。38.ピラトがイエスに言った。「真理とは何か」。

こう言ってピラトは再びユダヤ人たちの所に出て行って、彼らに言った。「わたしは彼の内に何の過ちも見出せない。39.ところで過越祭には、わたしがあなたがたに誰か一人を赦してやる習慣がある。そこで、あのユダヤ人たちの王を赦してやってはどうか」。40.すると彼らは再び叫んで「この男ではなく、バラバのほうを」と言った。しかし、バラバは強盗であった。

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●「自然の中で聴く聖書」ヨハネによる福音書 18章



★「ペトロはそれを否定して」(25) 

   「それ」は「その方(イエス)」とも読める言葉である。
 「ペトロはその方を否定して」

 

 



2010年10月1日金曜日

新約聖書原典「ヨハネによる福音書」17章の翻訳(私訳)

ヨハネによる福音書 

17章


1.イエスはこれらのことを話され、天を見上げて言われた。「父よ、時が来ました。子があなたに栄光を帰すために、子に栄光を現わしてください。2.それは、あなたがすべての人を支配する権能を子に与えてくださったので、子に賜ったすべての人に、永遠の命を与えるためです。3.この永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。4.わたしは、あなたが行うようにとわたしにお与えになった業をこの地上で成し遂げ、あなたに栄光を帰しました。5.父よ、この世界が造られる前にあなたの御そばでわたしが持っていた栄光で、今あなたご自身の御前でわたしに栄光を現わしてください。
6.わたしは、この世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、あなたの御名を現わしました。彼らはあなたのものでしたが、わたしにも彼らを与えてくださり、彼らはあなたの御言葉を守っています。7.今、彼らは、あなたがわたしに与えてくださったものはすべて、あなたからのものであることを知っています。8.なぜなら、わたしはあなたが与えてくださった御言葉を彼らに与えたので、彼らもそれを受け入れ、わたしがあなたから出てきたことを本当に悟ったのです。そして彼らは、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じました。
9.わたしは彼らのためにお願いします。世のためではなく、あなたがわたしに与えてくださった者たちのためにお願いします。なぜなら、彼らはあなたのものだからです。10.わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。11.わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世にいます。そしてわたしはあなたのもとへ参ります。聖なる父よ、わたしにくださったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちが一つである様に、彼らも一つとなるためです。12.わたしは彼らと共にいた時、あなたが与えてくださったあなたの御名によって、彼らを守っていました。わたしが守ったので、滅びの子のほかには彼らの内の誰も滅びませんでした。それは聖書が成就するためです。13.しかし今、わたしはあなたのもとへ参ります。わたしがこれらのことを世で語るのは、彼らがわたしの喜びを抱き、彼ら自身の内に喜びが満たされるようになるためです。14.わたしはあなたの御言葉を彼らに与えましたが、世は彼らを憎みました。それは、わたしが世のものではないように、彼らも世のものではないからです。15.わたしがお願いするのは、彼らを世から取り除くことではなく、彼らを悪い者から守っていただくことです。16.わたしが世のものではないように、彼らも世のものではありません。17.真理によって彼らを聖別してください。あなたの御言葉は真理です。18.あなたがわたしを世にお遣わしになられたように、わたしも彼らを世に遣わしました。19.彼らのために、わたしは自分自身を聖別します。彼らも真理によって聖別された者となるためです。
20.これらの者たちの為ばかりではなく、彼らの言葉を通して、わたしを信じる者たちの為にもお願いします。21.父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしもあなたの内にいるように、すべての人が一つとなるためです。それは彼らもわたしたちの内にいて、あなたがわたしをお遣わしになったことを世が信じるようになるためです。22.あなたがわたしに与えてくださった栄光を、わたしも彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つとなるためです。23.わたしは彼らの内におり、あなたもわたしの内におられます。それは彼らが一つとなって完全な者となり、あなたがわたしをお遣わしになり、わたしを愛されたように、あなたが彼らを愛されたことを世が知るようになるためです。

24.父よ、あなたがわたしにお与えになった人々が、わたしのいるところに、わたしと一緒にいられるようにしてください。それは、あなたがわたしに与えてくださったわたしの栄光、すなわち、世が造られる前から、あなたがわたしを愛してくださった栄光を、彼らが見るようになるためです。25.義なる父よ、世はあなたを知りませんでしたが、わたしはあなたを知っており、彼らも、あなたがわたしを遣わされたことを知っています。26.わたしは彼らに、あなたの御名を知らせました。またこれからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」。

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●「自然の中で聴く聖書」ヨハネによる福音書 17章
https://www.youtube.com/watch?v=sfYtbXfLap0



★「聖なる父よ」(11)
★「義なる父よ」(25)

上の二つの呼びかけの言葉は、父であられる神とキリストにだけ使われる。25節の「義なる父よ」の「義なる」はギリシア語で δίκαιος(ディカイオス) である。「正しい」とも訳せるが、それは人に関して使われる例は聖書にあるが、それが神とキリストに関して使われるときは、「義」と訳すのが適切である。なぜなら、絶対的な意味で δίκαιος「義なる」方 は神(25)とキリスト(1ヨハネ2:1)のみであるからである。

★「父よ、あなたがわたしにお与えになった人々」(24)
    「人々」は、ギリシア語原典ネストレ版と他の写本とでは関係代名詞の単数(中性)、複数(男性)の違いがある。本ネストレ版では単数(中性・「こと・もの」と訳す)だが、この翻訳では文脈上、他の写本に従い、「人々」(男性・複数)と訳した。口語訳、新共同訳ともこれに沿っているが、新改訳は「もの」(中性・単数)と訳している。ちなみに、「人々」とは、23節の「世」のことであろうか。
17:2節でも同様の問題が現れ、そこでは「もの」(中性)が、「者」または「人」(男性)と訳されることに注意。



2010年9月23日木曜日

新約聖書原典「ヨハネによる福音書」16章の翻訳(私訳)

ヨハネによる福音書 

16章


1.「あなたがたにこれらのことを話したのは、あなたがたがつまずくことのないためである。2.人々はあなたがたを会堂から追い出すだろう。それのみか、あなたがたを殺そうとする者がみな、これは神に犠牲を捧げるためだと考える時が来る。3.彼らがこれらのことをするのは、父をも、わたしをも知らないからである。4.しかし、わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、彼らの時が来たとき、わたしがあなたがたに話した彼らのことを、あなたがたが思い出すためである。また、わたしがこれらのことを始めからあなたがたに話さなかったのは、わたしがあなたがたと共にいたからである。5.しかし、わたしは今、わたしを遣わされたかたのもとに行こうとしている。しかも、あなたがたの誰もわたしに『どこへ行こうとしているのか』と尋ねない。6.それどころか、わたしがこれらのことをあなたがたに話したので、あなたがたの心は悲しみでいっぱいなのだ。7.しかしわたしはあなたがたに真実を言おう。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。もしわたしが去って行かなければ、助け主はあなたがたのもとには来ない。もし行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わそう。8.その方が来られるとき、罪について、義について、裁きについて世に誤りを認めさせる。9.罪についてとは、人々がわたしを信じないから。10.義についてとは、わたしが父のもとに行くので、あなたがたがもうわたしを見ることがないから。11.裁きについてとは、この世の支配者がすでに裁かれているからである。
12.あなたがたに言っておきたいことはまだ多くある。しかし、今はあなたがたには耐えられない。13.しかし、その方、すなわち真理の御霊が来られる時、その方はあらゆる真理によってあなたがたを導いてくださる。なぜならその方は自分から語るのではなく、聞くままに語り、これから起ころうとすることを、あなたがたに知らせるからである。14.その方はわたしに栄光を帰される。なぜならわたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからである。15.父が持っておられるものは、全てわたしのものである。だから『わたしのものを受けて、あなたがたに知らせる』とわたしは言ったのである。
16.もうすぐ、あなたがたはわたしを見なくなる。そしてしばらくすると、またわたしを見ることになる」。17.すると、イエスの弟子たちの中のある者が互いに言った。「『もうすぐ、あなたがたはわたしを見なくなる。そしてしばらくすると、またわたしを見ることになる』と我々に言われることとはいったい何のことだろう。また、『わたしが父のもとへ行く』とはどういうことだろう」。18.それに対して(他の)人々も「『もうすぐ』と[言われたこと]は何のことだろうか。何のことを話しておられるのか、わたしたちにはわからない」と言った。
19.イエスは、彼らがご自分に尋ねたがっているのを知って、彼らに言われた。「『もうすぐ、あなたがたはわたしを見なくなるが、しばらくすると、またわたしを見ることになる』とわたしが言ったそのことで、あなたがたは互いに論じ合っているのか。20.よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、世は喜ぶ。あなたがたは苦しめられるが、あなたがたの苦しみは喜びとなる。21.女が子を生む時には、苦しみがある。自分の時が来たからである。しかし、子を産んでしまうと、人がこの世に生まれたことの喜びのゆえに、その苦痛をもう心に留めない。22.だからあなたがたも、今は悲しんでいるが、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたの心は喜ぶ。そして誰もあなたがたからその喜びを奪わない。
23.またその日には、あなたがたは何もわたしに願わないだろう。わたしは心をこめてあなたがたに言う。わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださる。24.今まで、あなたがたは何もわたしの名によって求めなかった。求めなさい。そうすれば与えられる。それはあなたがたの喜びが満たされるようになるためである。
25.わたしはこれらのことを比喩によってあなたがたに話してきた。もう比喩で話すのではなく、むしろあからさまに父についてあなたがたに知らせる時が来る。26.その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるだろう。また、わたしはあなたがたに『わたしはあなたがたのために父にお願いしよう』とは言わない。27.父ご自身があなたがたを愛して下さるのは、あなたがたがわたしを愛していて、わたしが父のもとから出てきたことを信じているからである。28.わたしは父のもとから出て、世に来た。ふたたび世を去って、父のみもとに行こうとしているのである」。

29.イエスの弟子たちが言った。「ご覧なさい。今、あなたはあからさまにお話しになり、もう何も比喩でお話しになりません。30.あなたはすべてをご存知で、何もあなたにお尋ねする必要がないことが、今わかりました。これでわたしたちは、あなたが神から出て来られたのだと信じます」。31.イエスは彼らに答えられた。「今、信じたのか。32.見よ、あなたがたは、わたし一人を残して、それぞれ自分のところに散らされる時が来る。いやすでに来ている。しかし、わたしは一人ではない。父がわたしと共におられるからである。33.これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって、あなたがたが平安を得るためである。この世では苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。


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●「自然の中で聴く聖書」ヨハネによる福音書 16章


★「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来られる時、その方はあらゆる真理によってあなたがたを導いてくださる。」(13)

下線をつけた部分のギリシア語は 
ὅταν δὲ ἔλθῃ ἐκεῖνος, τὸ πνεῦμα τῆς ἀληθείας, ὁδηγήσει ὑμᾶς ἐν τῇ ἀληθείᾳ πάσῃ (13)
である。下線の部分は少し前のギリシア語原典では、後半がεις  την  αλήθειαν  πασαν  となっていて「あなたがたをあらゆる真理導いてくれるであろう」(口語訳)であったが、ネストレ27版からは、上記のように「ἐν τῇ ἀληθείᾳ πάσῃ・あらゆる真理によって」と変わっていることに注意。この真理とは、キリストによって語られた「教え」のことであり、したがって「あらゆる教えによって」と訳すこともできる。真理の御霊はキリストの語られた教えを思い起こさせ、その教えによって人々を導かれるのである。

★πάντα ὅσα ἔχει ὁ πατὴρ ἐμά ἐστιν·(15)
上記は15節の冒頭の言葉である。「父が持っておられるものは、すべてわたしのものである」(新共同訳)と訳されているが、ὅσα は、単に「もの」というより、「どんなもの」(複数対格の代名詞)を意味する。したがって「父が持っておられるどんなものも、すべてはわたしのものである」という意味となる。