2015年10月28日水曜日

新約聖書原典「コリントの人々への手紙一」16章の翻訳(私訳)


コリントの人々への手紙  

16章


1.聖徒たちへの募金については、わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも同じように実行しなさい。2.わたしが行った時はじめて募金を集めるようなことがないように、週の初めの日ごとに、あなたがたはそれぞれ、恵まれてもうけたものがあれば、幾らかでも手元に蓄えて置きなさい。3.わたしが到着したら、あなたがたが承認した人たちに、(わたしの)手紙を持たせて、あなたがたの親切を届けるために、その人たちをエルサレムに行かせましょう。4.わたしも行く方がよければ、一緒に行きましょう。
5.あなたがたのところへ行くときは、マケドニアを通って行くことになるでしょう。マケドニアを経由しますから。6.おそらくあなたがたのところに滞在し、あるいは冬を過ごすことになるでしょう。そうして、わたしがどこへ行くにせよ、あなたがたにわたしを送り出していただきたいのです。7.わたしは今、あなたがたと、通りがかりに会うようなことはしたくありません。主が許されるなら、しばらくはあなたがたのところに滞在したいと望んでいます。8.ただ、五旬節まではエフェソに滞在することになるでしょう。9.わたしのために、大きく有力な門が開かれているからです。反対する人々も多くいますが。
10.ティモテが(この手紙を持って)そちらに行ったら、あなたがたのところで不安なく過ごせるように心を配ってください。彼もわたしと同じく主の働きに携わっているのですから。11.だから、だれも彼を軽んじてはいけません。彼がわたしのところに帰って来られるように、安らかに彼を送り出してください。わたしは彼が兄弟たちと一緒に来るのを待っていますから。12.兄弟のアポロについてですが、わたしは彼が兄弟たちと一緒にあなたがたのところへ行けるように彼を大いに説得しましたが、彼には、今は行こうという意思は全くありません。適当な機会が来れば行くことになるでしょう。
13.目を覚ましていなさい。信仰のうちに堅く立っていなさい。雄々しくありなさい。強くありなさい。14.すべてのことを、愛をもって行いなさい。
15.兄弟たちよ、あなたがたにお願いします。あなたがたはステファナの家族のことをご存知でしょう。すなわち、彼はアカイアの(伝道の)初穂で、聖徒たちに仕えるために自分自身をささげてくれました。16.ですから、あなたがたもこの人たちや、共に働き共に苦労しているすべての人々に従ってください。17.ステファナとフォルトナトとアカイコが来てくれたことをわたしは喜んでいます。この人たちは、あなたがたの足りない分を補ってくれたからです。18.彼らは、わたしの心とあなたがたの心を休ませてくれました。だから、こういう人たちを認めてあげなさい。
19.アジアの諸教会が、あなたがたによろしくと言っています。アキラとプリスカが、その家ごとに集う教会と共に、主にあって心からあなたがたによろしくと言っています。20.すべての兄弟たちが、あなたがたによろしくと言っています。聖なる接吻をもって互いに挨拶を交わしなさい。

21.パウロが自分の手で挨拶を書きます。22.主を愛さない者がいれば、その人は呪われよ。マラナ・タ(われらの主よ、来てください)。23.主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。24.わたしの愛が、キリスト・イエスにあってあなたがたすべての人と共にあるように。




τὸ ὑμέτερον ὑστέρημα οὗτοι ἀνεπλήρωσαν· (17)
「この人たちは、あなたがたの足りない分を補ってくれた」

「足りない分」の意味するところは何か?  この章の冒頭に「募金」という言葉がでてくるので、そのことかと考えたくなるが、おそらくそのことではなく、15節に登場するアカイア州からパウロの伝道に奉仕するためにやってきた三人の協力者が、自身を捧げてまで(15)パウロの伝道に協力した「人的労力」「人的献身」を意味するのであろう。この三人はアカイア(コリント)からパウロの伝道に協力するためにやってきたが、コリントにとどまっている人たちの「足りない分(労力)」を補ったのである。ちなみに、新共同訳はそのことを具体的(意訳)に訳出している。「この人たちは、あなたがたのいないときに、代わりを務めてくれた」(新共同訳)


2015年10月21日水曜日

新約聖書原典「コリントの人々への手紙一」15章の翻訳(私訳)


コリントの人々への手紙  

15章


1.さて兄弟たちよ、わたしがあなたがたに宣べ伝えた福音を教えてあげましょう。その福音を、あなたがたは受け入れ、その福音によってあなたがたは(今)立っているのです。2.わたしがどんな言葉であなたがたに宣べ伝えたかをしっかり保っていれば、あなたがたはその福音によって救われるのです。そうでないと、あなたがたが信じたことが無駄になってしまいます。3.わたしは自分が受けたことを、まず初めにあなたがたに伝えたのです。それは、聖書に書かれているとおり、キリストがわたしたちの罪のために死なれたこと、4.また、聖書に書かれているとおり、葬られ三日目に復活させられたこと、5.そしてケファに現れ、次に十二人に現れたこと、6.その後、一度に五百人以上の兄弟たちに現れました。その中の何人かはすでに眠りにつきましたが、大部分の者たちは今日まで生きています。7.その後、ヤコブに現れ、次にすべての使徒たちに現れました。8.最後にいわば月足らずで生まれたようなわたしにも現れてくださったのです。9.わたしは使徒たちの中で最も小さい者で、使徒と呼ばれるに値しない者です。なぜなら、わたしは神の教会を迫害したのですから。10.しかし、神の恵みによって今のわたしがあります。わたしに与えられた神の恵みは無駄にはならず、むしろ、彼らの中のだれよりも多く働きました。しかし、働いたのはわたしではなく、わたしと共にある神の恵みです。11.ですから、わたしにしても、かの人たちにしても、わたしたちがこうして宣べ伝えたので、あなたがたはこのように信じたのです。
12.ところで、キリストが死者たちの中から復活させられたと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある人たちは、死者たちの復活などはない、と言っているのはどうしてでしょうか。13.もしも、死者たちの復活がないとすれば、キリストも復活させられなかったでしょう。14.もし、キリストが復活させられなかったとすれば、わたしたちの宣教は空しく、わたしたちの信仰も空しい。15.もし本当に死者たちが復活させられないとすれば、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたとして、わたしたちは神に反する証しを立てて、神を偽って証言していることになります。16.もし、死者たちが復活させられないとすれば、キリストも復活させられなかったことでしょう。17.もしキリストが復活させられなかったとすれば、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたはなお罪の中にいることになるのです。18.すると、キリストにあって眠りについている人々は滅びたことになります。19.もし、わたしたちが、この世の生活でキリストに希望を抱いているだけだとすれば、わたしたちはすべての人々の中で最もみじめな存在です。
20.しかし、今や、キリストは死者たちの中から復活させられて、眠った人々の初穂となられたのです。21.なぜなら、死は一人の人によってもたらされたのですから、死者たちの復活も一人の人によってもたらされるのです。22.アダムによってすべての人が死んでいるのと同じように、こうしてキリストによってすべての人が生きることとなるのです。23.各自には、それぞれ定められた順序があります。初めにキリスト、次にキリストの来臨の際にキリストに属する者たち、24.それから終わりが(来ます)。その時、キリストはすべての支配とすべての権威と力とを滅ぼし、父でもある神に王権を渡されます。25.それは、キリストが、すべての敵をご自分の足下に置くその時まで、王である必要があるからです。26.最後の敵である死が滅ばされます。27.『キリストは、すべてのものをその足下に服従させた』からです。しかし、すべてが服従させられたと宣言されるとき、すべてのものをご自身に服従させた方はそれに含まれないことは明白です。28.すべてのものがキリストに服従するとき、その時に、御子自身も、すべてのものをご自分に服従させてくださった方に服従されるでしょう。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。
29.こう言う訳なのに、死んだ人々のためにバプテスマを受ける人たちは、いったいなぜそういうことをするのでしょうか。実際、死者たちが復活しないのなら、どうして彼らのためにバプテスマを受けるのでしょうか。30.わたしたちはなぜいつも危険をおかすのでしょうか。31.日々、わたしは死んでいます。[兄弟たちよ]、これは、わたしたちの主キリスト・イエスにあってわたしが持っているあなたがたの誇りにかけて(言えます)。32.わたしが人間的にエフェソで野獣と戦ったとしたら、わたしに何の益があったでしょうか。もし、死者たちが復活させられないとすれば、『我々は食い飲みしよう、明日は死ぬのだから』。33.惑わされてはいけません。「悪い付き合いは、良い習慣を破壊」します。34.酔いをさまして身を正しなさい。罪を犯してはいけません。神について無知な人々がいるからです。わたしはあなたがたを恥じ入らせるためにこう言っているのです。
35.ところが、死者たちは、どのようにして復活させられるのだろう、どんな体で現れるのだろう、とある人たちは言います。36.愚かな者よ、あなたが蒔くものは、死ななければ生きたものとはなりません。37.あなたが蒔いているものは、やがて現れる体ではなく、ひょっとしたら穀物か何かその他のただの種粒です。38.しかし、神はみこころに従ってそれに体を与え、それらの種の一つひとつに固有の体をお与えになります。39.すべての肉が同じ肉なのではなく、人の肉もあれば動物の肉もあり、鳥の肉もあれば魚の肉もあります。40.また、天上の体もあり、地上の体もあります。しかし、天上の輝きと、地上の輝きとは異なります。41.ほかにも太陽の輝き、月の輝き、星々の輝きがあり、星と星とにもその輝きに違いがあります。
42.これと同じように、死者たちの復活も、朽ちるものとして蒔かれますが、朽ちないものとして復活させられます。43.卑しい者で蒔かれますが、栄光の内に復活させられます。弱い者で蒔かれますが、強い者で復活させられます。44.自然のままの体で蒔かれますが、霊的な体で復活させられます。自然のままの体があるなら、霊的な体もあります。45.『最初の人アダムは生きる者となった』と書かれているように、最後のアダムは命を与える霊の人となったのです。46.しかし、霊的な体が最初なのではありません。自然のままの体が最初です。その後に霊的な体となるのです。47.最初の人は地から出て土から造られましたが、第二の人は天から出られました。48.土から造られた人がそうであるように、土から造られた人たちもまさにそれと同じです。天から出た方がそうであるように、天から出た人たちもまさにそれと同じです。49.わたしたちが土から造られ姿を着たように、天から出た姿をも着ることになるでしょう。
50.兄弟たち、わたしはこう言っておきます。肉や血は神の国を受け継ぐことができないし、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。51.ごらんなさい。わたしはあなたがたに奥義を告げましょう。わたしたちすべての者は眠り続けるのではなく、わたしたちすべての者は変えられるのです。52.最後のラッパが鳴り響く中、またたく間に一瞬にして変えられます。ラッパが鳴ると、死者たちは朽ちないものとして復活させられ、わたしたちは変えられます。53.なぜなら、この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着ることになるからです。54.この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る時、こう書かれている言葉が実現するのです。
『死は勝利にのまれた。
55.死よ、おまえの勝利はどこか。
死よ、おまえのとげはどこか。』

56.死のとげは罪であり、罪の力は律法です。57.しかし、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を与えてくださっている神に感謝します。58.ですから、わたしの愛する兄弟たちよ、堅固で動かされることなく、主の業にいつも励んでいなさい。あなたがたは自分たちの労苦が主の御前に無駄ではないことを知っているのですから。




Εἰ δὲ Χριστὸς κηρύσσεται ὅτι ἐκ νεκρῶν ἐγήγερται (12)
「キリストは死者たちの中から復活させられたと宣べ伝えられているのに…」

15章は死者の復活を扱っていますが、パウロによると、死者の復活はイエスの復活をその根拠にあげています。15章で、「復活された」という言葉が多く出てきますが、いずれもἐγήγερται と完了形、受動態で現れます。ギリシア語では完了形の場合、受動態と中動態は同じ形をしているので、中動態として「(自ら復活した」とも訳し得るが、15節を読むと、「神がキリストを復活させて…」と言っているので、ἐγήγερται は「復活させられた」と訳すのが正しいと思われる。したがってキリストは自ら復活されたのではなく、死者たちが「復活させられる」のと同様に、神によって「復活させられた」のである。







2015年10月13日火曜日

新約聖書原典「コリントの人々への手紙一」14章の翻訳(私訳)


コリントの人々への手紙  

14章


1.愛を追い求めなさい。しかし、預言をするために、霊の賜物をさらに熱心に求めなさい。2.異言で語る人は、人々に語るのではなく神に語るのです。それはだれにも理解できません。霊によって神秘を語っているからです。3.しかし、預言する人は、人々を建て上げ、励まし、慰めるために、人々に対して語ります。4.異言で語る人は、自分自身を建て上げますが、預言する人は教会を(霊的に)建て上げます。5.わたしは、あなたがた全員に異言を語ってほしいのですが、それ以上に、もっと預言をしてほしいのです。異言を語る人が、教会を霊的に建て上げるためにそれを解釈するのでなければ、それより預言する人の方が優れています。
6.ですから、兄弟たちよ、もし、わたしがあなたがたの所に行って異言で語るとしても、啓示か、知識か、預言か、教えかによって語らなければ、あなたがたに何の益があるでしょうか。7.同様に、命のない物が音を出す場合、それが笛であれ竪琴であれ、音に違いを出さなければ、どうして、笛を吹く音と竪琴を弾く音を聞き分けることができるでしょうか。8.また、もし、ラッパが不明瞭な音を出したら、だれが戦いに備えることができるでしょうか。9.このように、あなたがたも、わかりやすい言葉ではなく、異言によって語ったとしたら、どうして人はその語られたことを理解することができるでしょうか。それは空に向かって語ることになるからです。10.あるいは、世界にどれほど多くの種類の言葉があろうとも、発音できない言葉はありません。11.ですから、言葉の意味がわからなければ、話す人にとってわたしは異国人でしょうし、わたしにとってもその話している人は異国人ということになります。12.このように、あなたがたも霊の賜物を熱心に求める人たちですから、教会を霊的に建て上げるために、それが増し加えられるように熱心に求め続けなさい。
13.ですから、異言で語る人は、解き明かすことができるように祈りなさい。14.もし、わたしが異言で祈るなら、わたしの霊は祈りますが、わたしの知性は実を結びません。15.では、どうすればよいのでしょうか。それは、わたしが霊で祈り、知性でも祈ることです。霊で讃美し、知性でも讃美することです。16.そうでなければ、たとえあなたが霊で祝福を求めて祈っても、初心者の席にいる人が、あなたの感謝の祈りに対して、どうしてアーメンと唱えることができるでしょうか。あなたが何を言っているのか、その人には理解できないからです。17.あなたが感謝の祈りをささげるのは構いませんが、他の人が建て上げられるわけではありません。18.わたしは、あなたがたのだれにもまさって異言を語れることを、神に感謝しています。19.しかし、教会では、異言によって一万の言葉を語るよりも、わたしは他の人々をも教えるために、自分の知性によって五つの言葉を語りたいのです。
20.兄弟たちよ、判断力においては子供となってはいけません。むしろ、悪においては幼児となりなさい。しかし、判断力においては大人となりなさい。21.律法にはこう書かれています。すなわち、
『この民に、わたしは異国の言葉によって、
異国の人々の唇によって語るであろう。
しかし、それでもなお、彼らはわたしに聞き従わない』と主は言われる。
22.ですから、異言は、信じる者たちのためではなく、むしろ信じない者たちのためのしるしです。しかし、預言は、信じない者たちのためではなく、むしろ、信じる者たちのためのしるしです。23.だからもし、教会が全員一緒に集まり、皆が異言を語っているところに、初心者か未信者が入って来たとすると、『あなたたちは気が狂っている』と言わないでしょうか。24.しかし、もし、全員が預言をしているなら、未信者か初心者の誰かが入って来ても、皆から誤りを悟らされ、皆から指摘を受けて、25.自分の心の隠れたことを明かされて、こうして『確かに神はあなたがたの中におられる』と知らされ、御前にひれ伏し、神に礼拝をささげるようになるのです。
26.兄弟たちよ、では、どうすればよいのでしょうか。あなたがたが共に集まる場合、それぞれ讃美をする者、教える者、啓示する者、異言を語る者、それを解釈する者は、皆が(教会を霊的に)建て上げるためにそうしなさい。27.もし、異言を語るなら、二人か、多くとも三人が順番に語り、一人が解釈しなさい。28.しかし、もし解釈する者がいなければ、教会では黙っていなさい。ただ、自分自身と神に対して語りなさい。29.しかし、預言する者たちは、二人か三人が語り、他の者たちはそれを吟味しなさい。30.席についている他の人に啓示が与えられたなら、初めの者は黙りなさい。31.あなたがた一人ひとりは皆、預言できるのですから。それは、皆が学び、皆が励まされるためなのです。32.また、預言する者たちの霊は、預言する者たちに従わせられます。33.神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。
聖なる者たちの諸教会がすべてそうであるように、34.諸教会においては、妻たちは黙していなさい。彼女たちには、語ることが許されていないからです。むしろ、律法も言っているように、彼女たちは(夫に)服従していなさい。35.しかし、もし何か知りたいのなら、家で自分たちの夫に尋ねなさい。妻にとって、教会で語ることは恥ずべきことだからです。36.それとも、神の言葉は、あなたがたから出たのでしょうか。それとも、神の言葉は、あなたがただけに伝わったのでしょうか。
37.もし、自分は預言者であるとか、霊の人であると思う人がいれば、わたしがあなたがたに書いていることは主の戒めであると心得なさい。38.もし分からないとすれば、その人は(霊の人とは)認められません。

39.[わたしの]兄弟たちよ、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい。また、異言で語ることも妨げてはいけません。40.しかし、すべては適切に、秩序正しく行いなさい。




αἱ γυναῖκες ἐν ταῖς ἐκκλησίαις σιγάτωσαν (34)
「教会では妻たちは黙していなさい」

αἱ γυναῖκες  は「婦人たち」の意味と「妻たち」の意味があるが、ここでは35節とのつながりから、夫を持つ婦人(妻)たちと訳すべきでしょう。



2015年10月5日月曜日

新約聖書原典「コリントの人々への手紙一」13章の翻訳(私訳)


コリントの人々への手紙  

13章


1.たとい、わたしが、人々の言語や御使いたちの言語をもって語っても、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバルでしかありません。2.たとい、わたしに、預言する能力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を動かす程のいかなる信仰があっても、愛がなければわたしは無意味です。3.たといまた、わたしのすべての財産を(貧しい人々に)分け与え、わたしの体を焼かれるためにささげても、愛がなければ、わたしは何の価値もありません。
4.愛は忍耐深く、愛は親切です。[愛は]ねたまず、誇らず、高ぶらず、5.不作法に振る舞わず、自分(の利益)を求めず、人を怒らせず、悪意を抱かず、6.不義を喜ばず、真理によって共に喜びます。7.すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐えます。

8.愛は決して滅びることはありません。たとい、預言する能力がすたれ、異言がやみ、知識が役立たなくなっても。9.というのは、わたしたちが知っているのは一部分であり、わたしたちが預言しているのも一部分だからです。10.完全なものが来る時には、部分的なものは滅びます。11.わたしが幼子であったときには、幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていました。大人になった今では、幼子らしさを捨てました。12.わたしたちは、今は、鏡によって見るように、ぼんやりと見ていますが、その時には、顔と顔を合わせて見るのです。今は、一部分しか知りませんが、その時には、わたしたちが充分に知られているように、わたしたちも充分に知ることになるのです。13.こうして、いつまでも残り続けるものは、信仰、希望、愛、これらの三つです。しかし、これらの中で最もすぐれているものは愛です。




★「わたしの体を焼かれるために渡しても」(3)
 ἐὰν παραδῶ τὸ σῶμά μου ἵνα καυχήσωμαι
「わたしの体を自慢しようとささげても」

ネストレ28版は、上記のように、καυχήσωμαι (自慢する、誇る)という言葉が使われているが、他の写本では、καυθήσωμαι (焼かれる)が使われている。一字違いで写本時にこうなったのかも知れないが、両者では意味が全く異なる。本訳では、ネストレ28版を低本として訳しているが、ここは他の写本を使用することにした。「自慢しようと」では文脈上、意味がつながらないからである。ちなみに、新共同訳では「自分のからだを 誇ろうとして」と訳しているが、どうなのか。ちなみに、聖書協会共同訳2018の新しい訳では、(焼かれる)が採用されている。

★「予言する能力がすたれ」8節
  「預言がすたれ」でないことに注意!。預言すること、預言する力、または預言する活動がすたれるの意味で、旧約聖書時代から受け継いできた預言そのものが消滅するという意味ではない。






2015年10月2日金曜日

新約聖書原典「コリントの人々への手紙一」 12章の翻訳(私訳)


コリントの人々への手紙  

12章


1.兄弟がたよ、霊の賜物については、あなたがたに無知でいてほしくはありません。2.あなたがたがかつて異邦人であったときは、誘われるままに声も出せない偶像のもとへ連れて行かれたのを覚えておられるでしょう。3.ですから、あなたがたには知ってもらいたいのです。すなわち、神の霊によって語る人はだれも、『イエスは呪われたもの』とは言わないし、聖霊によらなければだれも、『イエスは主である』と言うことができません。
4.賜物には違いがありますが、(それをお与えになるのは)同じ御霊です。5.奉仕には違いがありますが、(それをお与えになるのは)同じ主です。6.働きには違いがありますが、すべてにおいてすべてをなされる方は同じ神です。7.各自に御霊の現れが与えられているのは、(全体の)益のためです。8.ある人には、御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、この同じ御霊によって知識の言葉が、9.ほかの人には、この同じ御霊によって信仰が、またほかの人には、この一つの御霊によって癒しの賜物が、10.またほかの人には、力強い働きが、またほかの人には預言が、またほかの人には霊を判別することが、別の人には種々の異言が、またほかの人には異言を解釈する(能力)が与えられています。11.これらすべてのことをなさっておられるのは一つの同じ御霊で、この方が御旨のままにそれぞれ一人ひとりに(賜物を)分け与えておられるのです。

12.体は一つでも、多くの肢体があるように、体の各肢体は多くても体は一つです。キリストの場合も同様です。13.というのは、わたしたちは、ユダヤ人であろうと、ギリシア人であろうと、奴隷であろうと、自由の身であろうと、皆が一つの御霊によって一つの体となるようにバプテスマを受け、また、わたしたちはみな一つの御霊を飲ませていただいたのですから。14.体は一つの肢体ではなく、多くの肢体から成っています。15.もし、足が、『わたしは手ではないから体には属さない』と言っても、それで体に属さないでおれるでしょうか。16.もし、耳が、『わたしは目ではないから体には属さない』と言っても、それで体に属さないでおれるでしょうか。17.体全部が目なら、どこで聞くのでしょうか。体全部が耳なら、どこでかぐのでしょうか。18.しかし今や、神はみこころに従って、体の中にそれぞれに各肢体を備えてくださいました。19.体全部が一つの肢体なら、体はいったいどこにありますか。20.ですから、肢体は多くあっても、体は一つなのです。21.目が手に向かって『お前はいらない』と言うことはできないし、あるいは、頭が足に向かって『お前たちはいらない』と言うこともできません。22.むしろ、体の最も弱いと思える肢体がかえってますます必要なのであり、23.体の見劣りがすると思える部分を覆って、わたしたちはそれらをより良くし、わたしたちの不恰好なところをもっと形の良いものにするのです。24.わたしたちの中の形の良い部分は、そうする必要がありませんが、神は不足した部分に一層の価値を与えて体を組み立てられました。25.それは、体に分裂がなく、各肢体が互いにいたわり合うためなのです。26.もしも、一つの肢体が苦しめば、(他の)すべての肢体も共に苦しみ、もしも、一つの肢体が尊ばれれば、(他の)すべての肢体も共に喜ぶのです。27.あなたがたはキリストの体であり、(一人ひとりは)それらの肢体の一部です。28.神は教会の中に人々を置かれました。それは第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に力ある業を行う者、次に癒しの賜物を持つ者、援助者、管理者、異言を語る者などです。29.全員が使徒でしょうか。全員が預言者でしょうか。全員が教師でしょうか。全員が力ある業を行うのでしょうか。30.全員が癒しの賜物を持つのでしょうか。全員が異言を語るのでしょうか。全員が(異言を)解釈するのでしょうか。31.しかし、あなたがたは、さらに優れた賜物を求めなさい。そこで、わたしはあなたがたに、最も優れた道を示しましょう。