2011年10月2日日曜日

新約聖書原典「マルコによる福音書」6章の翻訳(私訳)

マルコによる福音書 

6章


1.さて、イエスはそこを出て、ご自分の故郷へ行かれた。イエスの弟子たちも彼に従った。2.安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々が聞いていて、仰天して言った。「この人はこれらの事をどこから得たのだろう。また、この人が授かった知恵と、その手によって行われているこのような力は、誰が与えたのだろうか。3.この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟であって、彼の姉妹たちはここに我々のところにいるではないか」。こうして彼らはイエスを疑っていた。4.そこでイエスは彼らに、「預言者が敬われないのは、自分の故郷や自分の親戚、また自分の家族の間だけである」と言われた。5.そしてそこでは、わずかな病人に手を置いて癒された以外は、何も力ある業を行うことがお出来にならなかった。6.イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは村々を行き巡って教えられた。
7.また十二人の者たちをお召しになり、彼らを二人ずつ遣わすこととし、彼らに汚れた霊どもを(追い出す)権能をお授けになった。8.そして「旅に出るのに、杖一本の他は、パンも袋も、腰帯の中に銅貨も何も持たず、9.ただ、履き物をはき、二枚の下着を身に着けてはならない」と彼らにお命じになった。10.そして彼らに言われた。「もし、どこかの家に入ったら、そこから立ち去るまでは、そこにとどまりなさい。11.しかし、あなたがたを迎え入れようとせず、あなたがたの(話を)聞こうともしない地域があれば、そこから出て行く時、彼らに対する証明として、あなたがたの足の下についたほこりを払い落としなさい」。12.そこで彼らは出かけて行って、人々に悔い改めるようにと宣べ伝えた。13.また多くの悪霊を追い出し、オリーブ油を塗って多くの病気の人たちを癒していた。
14.さて、イエスの名が知れわたることとなり、ヘロデ王の耳にも入った。また人々は、「バプテスマのヨハネが死人たちの中から生き返ったのだ。だから彼の中に力が働いているのだ」と言っていた。15.しかし他の人々は「エリヤだ」と言い、他の人々は「預言者たちの中の一人ではないだろうか」と言っていた。16.ところがヘロデがこれを聞いて、「わたしが首を斬ったあのヨハネが生き返ったのだ」と言った。
17.このヘロデは、自分の兄弟であるフィリポの妻ヘロディアと結婚したが、その事で人を遣わしてヨハネを捕らえ、彼を牢獄につないだ。18.それは、ヨハネがヘロデに、「あなたの兄弟の妻を自分のものとするのは律法で許されていない」と言っていたからである。19.だから、ヘロディアはヨハネに恨みを抱き、彼を殺そうと思っていたが出来ないでいた。20.なぜなら、ヘロデはヨハネが正しく聖なる人であることを知って、彼を畏れ保護していて、その話しを非常に当惑しながらも、喜んで聞いていたからである。
21.ところが良い機会が訪れた。ヘロデは自分の誕生日に、自分の高官たちや千人隊長たち、またガリラヤの重だった人々を招いて宴会を催した。22.そこへ、ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデと同席の人たちを喜ばせた。王は少女に、「欲しいものは何でも求めなさい。お前にあげよう」と言った。23.また、「お前が望むなら、わたしのこの国の半分でもお前にあげよう」と、[きっぱりと]誓ったのである。24.そこで少女は出て行き彼女の母親に、「何をお願いしましょうか」と言うと、母親は、「バプテスマのヨハネの首を」と言った。25.そこで少女はすぐに急いで王の所へ入って行き、願って「今すぐ、バプテスマのヨハネの首を盆にのせて私にいただきたいのです」と言った。26.王は深く悲しんだが、誓ったことゆえ、列席者たちの手前もあり、少女(の願い)を拒みたくなかった。27.そこで王は直ちに刑吏を遣わして、バプテスマのヨハネの首を持ってくるように命じた。刑吏は行って、牢の中でヨハネの首を切った。28.彼はヨハネの首を盆にのせて運び、それを少女に与え、少女はそれを自分の母親に与えた。29.ヨハネの弟子たちは(この出来事を)聞いてやって来て、その遺体を引き取り墓に納めた。
30.さて、使徒たちはイエスの所に集まって来て、自分たちが行ったこと、教えたことひとつひとつ全てを報告した。31.イエスは彼らに「さあ、あなたがただけで人のいない所へ行って、しばらく休みなさい」と言われた。なぜなら大勢の人々が行き来していて、弟子たちは食事をとる時間もなかったからである。
32.そこで彼らは自分たちだけで、舟で人のいない所へ行った。33.ところが、弟子たちが出かけて行くのを見て、多くの人々がそれと知って、あらゆる町から陸地を通ってその所へ一斉に走り、弟子たちより先に着いた。
34.イエスは(舟から)上がられると、多くの群衆をご覧になり、彼らに深い同情を寄せられた。彼らが飼い主のいない羊たちのようであったからである。そして多くの事を彼らに教え始められた。
35.時間もすでにだいぶ過ぎ、弟子たちがイエスのそばに来て「ここはさびしい所です。また時間もすでにだいぶ過ぎています。36.人々を解散させ、集落や村の辺りへ行って、何か自分のために食べものを買うようにさせてください」と言った。37.しかしイエスは答えて彼らに言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。弟子たちはイエスに言った。「わたしたちが二百デナリオンのパンを買いに行って、彼らに食べさせるのですか」。38.イエスは弟子たちに言われた。「パンは幾つあるか。行って見てきなさい」。そこで弟子たちは確かめて言った。「五つあります。それに魚が二匹です」。39.イエスは弟子たちに、みんなをいくつもの組に分けて青草の上に座らせるようにお命じになった。40.人々はそれぞれ百人と五十人の組になって座った。41.それからイエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで感謝の祈りをささげ、それらのパンをさいて人々に配るために弟子たちに渡された。また二匹の魚も全員に分け与えられた。42.すべての人が食べて満腹になった。43.そして、パンのかけらと魚の余りを寄せ集めると、十二のかごにいっぱいになった。44.[パンを]食べた人々は男が五千人であった。
45.それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、ご自分が群衆を解散させておられる間に、向こう岸のベトサイダへ先におやりになった。46.そして彼らと別れてから、イエスは祈るために山へ出かけられた。47.夕方となり、舟は湖の真ん中にあったが、イエスご自身はおひとり陸地におられた。48.ところが、逆風のために弟子たちが舟を漕ぎ悩まされているのをご覧になり、夜が明ける頃、イエスは湖の上を歩いて彼らのところに来られ、彼らのそばを通り過ぎようとされた。49.そこで弟子たちは、湖の上を歩いておられるイエスを見て幽霊だと思い、叫び声をあげた。50.みんなの者たちは、イエスを見て心が乱されたからである。しかし、イエスはすぐに弟子たちと話しをされ、彼らに言われた。「勇気を出しなさい。わたしだ。恐れることはない」。51.そして、舟に乗り込んで弟子たちのそばに来られると風は止んだ。彼らは内心、非常に[過度に]驚いていた。52.それはパンのことを理解しておらず、彼らの心が鈍くなっていたからである。

53.こうして彼らは湖を渡ってゲネサレトの地に着いて舟をつないだ。54.彼らが舟から上がると、人々はすぐそれがイエスだと分かった。55.一行はその地方全域を駆けめぐり、人々はイエスがおられる場所を聞いては、そこへ病気の人たちを床に乗せたまま、運び始めたのである。56.イエスが入って行かれる村や町や里はどこでも、人々は病気の人たちを広場に置いて、せめてその衣のふさにでも触れさせたいとイエスに願った。そしてイエスに触れた者たちはみな救われていた。



●「自然の中で聴く聖書」マルコによる福音書 6章


καὶ ἐσκανδαλίζοντο ἐν αὐτῷ. 「こうして彼らはイエスを疑っていた」(3節)

上記はイエスがご自分の故郷へお帰りになった時、安息日に語られた教えに対する村の人々の反応である(3節)。ここの訳は、口語訳、新共同訳、新改訳とも「躓いた」と訳している部分である。σκανδαλίζω(ἐσκανδαλίζοντοは未完了過去、受動態、3複) という言葉は「罪を犯させる」「罪に落とす」「信仰を無くさせる」などのほか、ἐν がその後に来る場合、「~を拒絶する」「~を疑う」の意味を持つ。「疑っていた」は原典に未完了過去・受動態が使われていているためである、ここは文脈の上からも「躓いた」より、「疑っていた」がより原典の意味に近いと思われる。

καὶ μὴ ἐνδύσησθε δύο χιτῶνας. 「二枚の下着を身に着けてはならない」(9節)

上記は十二弟子派遣にあたりイエスが彼らに言われた言葉である。マタイ(10:10)、ルカ(9:3)では「二枚の下着を持つな」であるが、マルコでは「身に着けるな」又は「着るな」となっていることに注意。「下着」は袖の短い膝までの肌着のこと。2枚重ねで下着を着ることは、当時のユダヤ人の習慣でもあった。

ὅτι ἦσαν ὡς πρόβατα μὴ ἔχοντα ποιμένα, 「彼らが飼い主のいない羊たちのようであったからである」(34節)

 ποιμένα は「羊飼い」の意味。「彼らが羊飼いのいない羊たちのようであったからである」のほうが良いかも知れない。

★「人々はそれぞれ百人と五十人の組になって座った」(40)
百人と五十人の組がいくつも出来上がり、それぞれの組が長方形をなして向かい合う形で座った。40節の「組になって」πρασιαί πρασιαί(プラシアイ  プラシアイ)は、「いくつもの長方形の花壇のように整然と座った人々の群れを、主格(複数)で副詞的に表現した句」(新約聖書ギリシア語辞典・織田 昭)である。 

καὶ ἰδὼν αὐτοὺς βασανιζομένους ἐν τῷ ἐλαύνειν「彼らが舟を漕ぎ悩まされているのを見て…」(48節)

逆風に悩まされた時の弟子たちの様子である。場所はガリラヤ湖の真ん中、夜の嵐の湖上、小さな舟の中である。懸命のオール操作もむなしく、舟は風の力に勝てず流されるままであった。イエスはこの時、舟には乗り合わせず陸におられた。しかし、上の一文は弟子たちのこの一夜の出来事をイエスは見ておられた、または知っておられたのである。 ἰδὼν は五感によって「見る」「知る」の意味がある。

★「イエスの衣の房に触れた者たちはみな救われていた」(56)
「救われていた」εσώζοντο は、「治される」でもよいが、「救出される」「助けられる」「死の危険から解放される」の意味合いが強い。イエスの衣の房に触れた人々は、イエスによって病気が治されただけでなく、実際、死の危険から救出された、さらには霊的な意味で「救われた」のである。実際、新約聖書の多くの箇所で、この言葉は「霊的救い」を意味する言葉として訳されている。