2011年11月28日月曜日

新約聖書原典「マルコによる福音書」8章の翻訳(私訳)

マルコによる福音書 

8章


1.そのころ、再び大勢の群衆がいたが、食べるものがなかった。そこでイエスは弟子たちを呼び集めて、彼らに言われた。2.「この群衆がかわいそうだ。もうすでに三日もわたしと一緒に留まっていて、彼らは何も食べていない。3.もしこのまま何も食べずに家に帰したら、途中で弱り果ててしまうだろう。彼らの中には遠くから来ている人たちもいる」。4.すると弟子たちはイエスに、「こんな人も住まない土地で、いったいどこからパンを得て、この人たちにじゅうぶんに食べさせることができるでしょうか」と答えた。5.イエスは彼らに「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは「七つです」と言った。6.そこでイエスは群衆に地面に座るようお命じになり、それらの七つのパンを受け取り、感謝をしてから裂き、群衆に配るため弟子たちに渡された。そして弟子たちは群衆に配った。7.また小さな魚も少しあったので、感謝をしてから、それらも配るようにと言われた。8.人々は食べて満腹になった。そして裂いたかけらの余りを寄せ集めたところ、七つのかごに一杯になった。9.四千人ほどの人々がいたが、イエスは彼らを解散させられた。
10.それからすぐに、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗って、ダルマヌタの地方へ行かれた。11.すると、ファリサイ派の人々が出て来て、イエスに論争をしかけた。イエスを試して、天からのしるしを求めるためであった。12.イエスは心にため息をついて言われた。「どうして、この時代はしるしを求めるのか。よくあなたがたに言っておくが、この時代にしるしは決して与えられない」。13.そして、彼らを残して再び(舟に)乗り込み、向こう岸へ行かれた。
14.弟子たちはパンを持ってくるのを忘れ、舟の中にはひと切れのパン以外には持ち合わせがなかった。15.そこでイエスは彼らに指示して言われた。「注意しなさい。ファリサイ派の人たちのパン種と、ヘロデのパン種を警戒しなさい」。16.(イエスがこう言われたのは)自分たちがパンを持っていないからだと、弟子たちは互いに論じ合った。17.イエスは気づいて彼らに言われた。「パンを持っていないことで、なぜ論じ合うのか。まだ分からないのか、悟らないのか。あなたがたの心が鈍くなってしまったのか。18.『目があっても見ず、耳があっても聞かない』のか。思い出さないか。19.わたしが五つのパンを裂いて五千人に配ったとき、あなたがたが拾い集めたパンのかけらでいっぱいになった籠は、幾つあったか」。弟子たちはイエスに言った。「十二個です」。20.「七つのパンを裂いて四千人に配ったとき、あなたがたが拾い集めたパンのかけらでいっぱいになった籠は、幾つあったか」。弟子たちは[イエスに]言った。「七個です」。21.イエスは彼らに言われた。「まだ悟らないのか」。
22.さて、一行はベトサイダにやってきた。すると、人々が一人の盲人をイエスのところに連れてきて、その人に触れていただきたいとお願いした。23.そこでイエスはその盲人の手をとって村の外に連れて出て、その両目につばをつけ、両手を彼の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。24.すると、彼は見えるようになって言った。「人々が見えます。木々の様で、歩いているのがわかります」。25.そこでイエスが再び両手を彼の両目の上に置いたところ、彼はしっかり見ていたが回復してきて、全てのものがはっきりと見えるようになった。26.イエスは彼を自分の家に帰されたが、「村へは入って行かないように」と言われた。
27.さて、イエスとその弟子たちはフィリポ・カイサリアの村々へ出かけられたが、その途上、弟子たちに尋ねて言われた。「人々はわたしのことを誰だと言っているか」。28.すると彼らはイエスに、「バプテスマのヨハネ、他の人々はエリヤ、また他の人々は預言者たちの一人だと言っています」と言った。29.そこでイエスは弟子たちに尋ねられた。「では、あなたがたはわたしのことを誰だと言うのか」。ペトロが答えてイエスに言った。「あなたはキリストです」。30.イエスは彼らに、「自分のことを誰にも話さないように」とお命じになった。
31.それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たちや祭司長たち、また律法学者たちからも拒まれて捨てられ、また殺されて、三日後に甦るべきことを弟子たちに教え始められた。32.しかも、イエスはあからさまに言葉を語られた。するとペトロがイエスを脇へ引き寄せ、いさめ始めた。33.しかし、イエスは振り向き、弟子たちを見てペトロを叱って言われた。「引き下がれ、サタンよ。お前は神のことを思わないで、人々のことを思っている」。

34.イエスは群衆を、ご自分の弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「もし、わたしのあとに従いたいと思う者は誰でも自分を否定し、そして自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。35.なぜなら、自分の命を救おうと思う者はそれを失うが、わたしの為、また福音の為に自分の命を失う者は、それを救うことになるからである。36.人が全世界を手に入れても、自分の命を失ったら一体何の得になるだろうか。37.人は自分の命と引き替えに、どんな代価を支払えば良いのだろうか。38.だからもし、人がこの不貞の罪深い時代の中にあって、わたしと、わたしたちのこれらの言葉を恥じるなら、人の子もまた、その父の栄光のうちに聖なる御使いたちと共に来るとき、その者を恥じるだろう」。



●「自然の中で聴く聖書」マルコによる福音書 8章

★ Καὶ ἐπελάθοντο λαβεῖν ἄρτους καὶ εἰ μὴ ἕνα ἄρτον οὐκ εἶχον μεθʼ ἑαυτῶν ἐν τῷ πλοίῳ. (14)

 「 弟子たちは数切れのパンを持ってくるのを忘れ、舟の中にはひと切れのパンしか持ち合わせがなかった」

上のテキストは、七つのパンで男4千人を満腹にさせたイエスの奇跡の後、乗り込んだ舟の中で弟子たちが気づいたことである。この中で使われている ἄρτους は(複数のパン)を示している。故に「数個のパン」とも訳せるが、この場合はイエスが裂いて配られたパンのことを意味するのかもしれない。そのあとに現れる ἕνα ἄρτον(単数) は、文字通り 「ひと切れのパン」である。

δεῖ τὸν υἱὸν τοῦ ἀνθρώπου πολλὰ παθεῖν  (31)
  
 人の子は多くの苦しみを受けねばならず
  
  フィリポ・カイサリアの村々を訪れる途上、イエスの弟子たちに対する質問は、弟子たちからメシヤ信仰への確固たる確信を引き出すことがその狙いであったに違いない。「あなたはキリストです」というペトロの返答は確かに表向きは模範解答のようではあった。しかしその中身はどうであったか。ペトロの「信仰告白」の後に31節のイエスの言葉が続く。今初めて、しかもはっきりと(32節)弟子たちに対して語られるこのイエスの「告白」には、強い決意が表現されている。 δεῖ  という言葉がそれを表している。それは「必ず~ねばならない」「~すべきである」という強い意思表現を表す言葉である。苦難(十字架)のイエスを、弟子たちには受け入れる準備が出来ていなかったことは、このあとすぐに証明されることになる。

★ προσλαβόμενος ὁ Πέτρος αὐτὸν ἤρξατο ἐπιτιμᾶν αὐτῷ. (32)
 「ペトロがイエスを脇へ引き寄せ、いさめ始めた 
 
 ἐπετίμησεν Πέτρῳ καὶ λέγει· ὕπαγε ὀπίσω μου, σατανᾶ, (33) 
 「ペトロを叱って言われた。「引き下がれ、サタンよ」

 これほど激しい怒りの言葉があるだろうか。もちろんイエスはペトロを牛耳るサタンに対して怒っておられるのだが興味深いのは、ペトロがイエスをἐπιτιμᾶν(いさめた)のも、イエスがペトロを ἐπετίμησεν(叱った)のも、同じἐπιτιμάωという動詞が使われている点である。この言葉には「命じる」「譴責する」「叱る」などの意味がある。ペトロはイエスを「いさめた」と訳しているのは、事実イエスがペトロを「叱った」のと同じ意味であるが、訳の上では口語訳、新共同訳、新改訳共に多少穏やかに「いさめた」と訳しているが、本訳もそれを参考にしている。。

ἀπαρνησάσθω ἑαυτὸν καὶ ἀράτω τὸν σταυρὸν αὐτοῦ (34)

  自分を捨てなさい(自己を否定しなさい)。そして自分の十字架を背負って」 
  
この訳は最も伝統的な訳として知られている。しかし「自分の十字架を背負う」とはいったいどういうことなのか?と考えるとき、多くの人は、「キリスト者は十字架を負うように義務づけられている」と思うクリスチャンが多い。それでは、わたしたちのかわりに十字架を負ってくださるキリストはどうなってしまうのか。ἀράτωαἴρω の命令形)は、「取り上げる」「持ち上げる」「かつぐ」「負う」などの意味がある。イエスがご自分の受ける苦難を語っておられる文脈の中だけで読むと、確かに「負いなさい」という命令は厳しい命令ではある。しかし、そのあとの35節でその不安は一気に反転させられる。「わたしの為、また福音の為に自分の命を失う者は、それを救うことになるからである。」

★「この不貞の時代の中にあって」(38)
 「不貞」と訳されている言葉は「姦通の女」、「不貞の女」を意味する言葉で、ここで使われているのは、ヘブライ的表現で、生けるヤハヴェを裏切って偶像を拝する者という比喩的形容詞としての「不貞」または「背信」を意味する言葉として使われている。



2011年11月9日水曜日

新約聖書原典「マルコによる福音書」7章の翻訳(私訳)

マルコによる福音書 

7章

 
1.ファリサイ派の人たちと、ある律法学者たちがエルサレムから来て、イエスのもとに集まった。2.そして、イエスの弟子のある者たちが汚れた手、つまり洗わない手でパンを食べているのを見て、3.-ファリサイ派の人たちと全てのユダヤ人たちは、昔の指導者たちの言い伝えを固く守って、入念に手を洗ってからでないと食事をせず、4.また市場から(帰った時は)全身を洗ってからでないと食事をしない。またそのほかにも杯、水差し、容器[また寝台]を洗うなど、(言い伝えを)受け継ぎ固く守っている事柄が沢山あるー。5.ファリサイ派の人たちと律法学者たちがイエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の指導者たちの言い伝えに従った生活をしないで、汚れた手でパンを食べるのですか」。
6.イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者たちについて、よくぞ預言したものだ。このように書かれている。[すなわち]、
『この民は唇ではわたしを崇めるが、
その心はわたしから遠く離れている。
7.彼らはむなしくわたしを拝み、
人間の規定を教えとして教えている。』
8 あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」。9.イエスは続けて言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを立てるため、よくも神の戒めを無にしたものだ。10.だからモーセは言ったのだ。『あなたの父と母を敬え』。また『父または母を悪く言う者は死で終わらせよ』と。11.しかしあなたがたは、『もし、人が父または母に対して、このささげもの、すなわち、あなたがわたしから受けて得をするかもしれないものは、コルバン(神のためのささげもの)です、と言えば、12.その人は、父または母に対してもう何もしなくても構わないのだ』と言っている。13.あなたがたは自分たちが受け継いだ言い伝えで神の言葉を無効にし、これらと同じような事をたくさん行っている」。
14.イエスは再び群衆を招き寄せて彼らに言われた。「皆は、わたしの(言葉を)聞いて悟りなさい。15.人の外から入るもので、その人を汚すことができるものは何もない。かえって、人から出て来るものが人を汚すのである」。
17.イエスが群衆を離れて家に入られると、イエスの弟子たちが譬えについてイエスに尋ねた。18.イエスは彼らに言われた。「あなたがたも、そんなに物わかりが悪いのか。外から人に入ってくるどんなものも、その人を汚すことはできないという事がわからないのか。19.なぜなら、それは人の心に入るのではなく腹に入り、そして外に出て行く」。イエスは、すべての食物を清いものとされた。20.さらにこう言われた。「人から出てくるもの、それが人を汚す。21.内側から、つまり人々の心から、悪い思いが出てくるからである。不品行、盗み、殺人、22.姦淫、貪欲、不正、だまし、放縦、ねたみ、悪意、ののしり、高慢、無分別など、23.これらの悪はすべて中から出てきて、人を汚すのである」。
24.さて、イエスはそこを立ち去り、ティルスの地方へ行かれた。そして誰にも知られないように、ある家に入られたが、隠れていることができなかった。25.それどころか、汚れた霊にとりつかれた幼い娘を持つ女が、イエスのことをすぐに聞きつけ、来てその足元にひれ伏した。26.女はギリシア人で、シリア・フェニキア生まれの婦人であったが、イエスに、「自分の娘から悪霊を追い出してくださるように」とお願いした。27.イエスは女に言われた。「先ず、子供たちに充分食べさせなければならない。だから、子供たちのパンを取り上げて、小犬たちに投げてやるのは良いことではない」。28.しかし、女は答えてイエスに言った。「主よ、食卓の下の小犬たちも、幼子たちの落としたパン屑は食べます」。29.そこでイエスは彼女に言われた。「そうまで言うのだから、お帰り。悪霊は、あなたの娘さんから出て行った」。30.そこで女が自分の家に戻ってみると、幼子が寝台の上に横たわり、悪霊がすでに出て行ったのがわかった。

31.それからイエスは再びティルスの地方を出て、シドンを経てデカポリス地方の間のガリラヤ湖へ行かれた。32.すると、人々は耳が聞こえず、話すことも不自由な人をイエスのもとに連れてきて、「手を彼の上に置いてくださるように」とお願いした。33.イエスは群衆の中から密かにその人を脇に連れ出し、ご自分の指をその人の両耳に差し入れ、(指に)つばをつけて、その人の舌に触れられた。34.そして、天を見上げ深く息をして、その人に「エッファタ」と言われた。これは「開け」という意味である。35.すると[すぐに]その人の聴覚が開かれ、また舌の縛りもゆるんで正確に話し出した。36.イエスは人々に、「誰にも話さないように」と厳しくお命じになった。しかし、厳しくお命じになればなるほど、彼らはかえってますます言い広めた。37.また、人々は非常に驚いて言った。「この方がなさったことは、みな素晴らしい。耳の聞こえない人々を聞こえるようにし、口の利けない人々を話せるようにされた」。



●「自然の中で聴く聖書」マルコによる福音書 7章


★ κοιναῖς χερσίν, τοῦτʼ ἔστιν ἀνίπτοις
  「汚れた手、つまり洗わない(手)」 2節 

「汚れた手」についてマルコ自身が注釈していることによれば、「汚れた手」とは「洗わない手」のことである。ただしここで使われている ἀνίπτοις (洗わないー形容詞、複数)は宗教上の儀式主義(ritual)を意味する。故に「洗わない手」とは、単に衛生上の「よごれた手、不潔な手」を意味するのではなく、宗教儀礼上の「けがれた手」を意味する。

 οὐδέν ἐστιν ἔξωθεν τοῦ ἀνθρώπου εἰσπορευόμενον εἰς αὐτὸν ὃ δύναται κοινῶσαι αὐτόν, ἀλλὰ τὰ  ἐκ τοῦ ἀνθρώπου ἐκπορευόμενά ἐστιν τὰ κοινοῦντα τὸν ἄνθρωπον.(15)
  人の外から入るもので、その人を汚すことができるものは何もない。かえって、人から出てくるものが人を汚すのです」 15節
   
  πᾶν τὸ ἔξωθεν εἰσπορευόμενον εἰς τὸν ἄνθρωπον οὐ δύναται αὐτὸν κοινῶσαι
  「外から人に入ってくるどんなものも、その人を汚すことはできない」 18節

  καθαρίζων πάντα τὰ βρώματα;
  「イエスは、すべての食物を清いとされた」 19節

上記のテキストを理解するには、2~4節のテキストから始める必要がある。つまり、文脈は宗教儀礼上の汚れ(けがれ)について言及し(2節)、さらに食事の前の「念入りな手洗い」(3節)、市場から帰った時の「全身洗い」、食器や寝台に至るまで宗教儀礼上の「清め」の細部についてのことであった。食器も寝台も人間の衣、食、住に直接関わるものであるにせよ、それらはファリサイ派の人たちや律法学者が言うように(ユダヤ教が言うように)昔の言い伝えどうりに、宗教上の様々な理由により汚されるものなのか。イエスはそれに反論する形で、そういう意味での汚れの理由を否定されたのである。このような文脈の中で19節を読めば、イエスの言われた意味が理解できる。イエスが個々の食物のことを言われたのではいことは明白である。彼らが言うような理由で汚れるものは一つとしてないのだということを言われたのである。ここで「汚す」と訳されているギリシア語の元の動詞は、すべてκοινόω(コイノオー) であり、一般的な「汚す」を意味する動詞であるが、7章全体の文脈の中では、2節の ἀνίπτοις(アニプトイス)  (儀式主義の「 あらわない手」)と同義語として理解すべき。むしろ人間から出てくるものこそが(罪が)人を汚すのである(20節)。

★「入念に手を洗ってからでないと食事をせず」(3)
「入念に」にを表すギリシア語は πυγμή(ピュグメー)。これは「こぶし」「げんこつ」を意味する言葉。ゆえに「念入りに洗う」とは、手のひらをもう片方の手のげんこつにした手にこすりつけて洗うという動作を意味するものと解釈する学者もいる。