2014年1月3日金曜日

新約聖書原典「ルカによる福音書」24章の翻訳(私訳)

ルカによる福音書 

24章


1.週の初めの日の夜明け前に、婦人たちは用意した香料を持って墓へ行った。2.ところが墓から石が転がされているのを見た。3.彼女たちは中に入ったが、主イエスの遺体は見当たらなかった。4.彼女たちがそのことで途方に暮れていると、見よ、輝く衣を着た二人の者が、彼女たちの傍らに立った。5.彼女たちが恐れをなして地に顔を伏せると、二人は彼女たちに言った。「なぜ、生きている方を死者たちの中に捜しているのか。6.その方はもうここにはおられない。復活されたのだ。その方がまだガリラヤにおられた時、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。7.『人の子は必ず罪人たちの手に渡され、十字架にかけられ、そして三日目に復活する』と言われたことを」。8.そこで、婦人たちはイエスの語られた言葉を思い出した。
9.そして、墓から戻って、これら全てのことを十一人とほかのすべての人たちに知らせた。10.それはマグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、それに彼女たちと一緒だった他の婦人たちであった。彼女たちがこれらのことを使徒たちに話したのである。11.使徒たちにとって、それらの言葉が愚かな話のように思われたので、彼女たちの言うことを信じなかった。12.しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走って行き、身をかがめて中をのぞき込むと、巻き布だけが見えたので、その出来事に驚きながら自分の家に帰って行った。
13.さて、その日、弟子たちの内の二人の者が、エルサレムから六十スタディオン《十一キロメートル余り》離れたエマオという村へ向かって歩いていた。14.彼らはこれら全ての出来事について互いに語り合っていた。15.彼らが語り合いまた論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来られ、彼らと一緒に歩き始められた。16.しかし、二人の目がさえぎられていて、その人が誰だか分からなかった。17.イエスは彼らに「あなたがたが歩きながら互いに語り合っているその話しは何のことか」と言われた。二人は暗い表情で立ち止まった。18.そして、クレオパという名の方が答えてその人に言った。「エルサレムに滞在していながらあなただけが、この数日その都で起こった事をご存知なかったのですか」。19.イエスが彼らに「どんなことか」と言われると、彼らは言った。「ナザレのイエスのことです。あの方は神と全ての民衆の前に、業にも言葉にも力ある預言者でした。20.それなのに、祭司長たちとわたしたちの役人たちが、あの方を死の裁きに引き渡し、十字架にかけたのです。21.わたしたちは、イスラエルを解放しようとするのはこの人だと望みをかけていました。しかもその上、そのことが起こってから今日が三日目なのです。22.ところが、わたしたちの仲間のある婦人たちが、わたしたちを大変驚かせたのです。彼女たちが朝早く墓に行ったのですが、23.あの方の遺体は見当たらず、戻って来て言うには、天使たちが現われて『あの方は生きておられる』と言うのです。24.そこでわたしたちの仲間のある者たちが墓に行って見ると、婦人たちが言った通りだとわかったのですが、あの方は見当たりませんでした」。25.イエスは彼らに言われた。「ああ、愚かで預言者たちが話した全てのことを信じられない心の鈍い者たちよ。26.キリストは必ずこれらの苦しみを受け、その栄光に入るはずではなかったか」。27.そして、モーセとすべての預言者たちから始め、聖書全体にわたってご自分について書いてあることを彼らに解き明かされた。
28彼らは行こうとしていた村へと近づいたが、イエスはさらに先へ行かれる様子であった。29.そこで彼らはイエスに、「わたしたちと一緒にお泊りください。夕方になりかけて、すでに日も傾いていますから」と言って強いて引き止めた。それでイエスは彼らと一緒に泊まる為、(家に)入られた。30.そしてイエスは彼らと一緒に食卓につかれ、パンを取って、感謝の祈りを捧げ、裂いて、彼らに渡された。31.すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かった。するとイエスは彼らから見えなくなった。32.そこで彼らは互いに言った。「道すがら、(あの方が)わたしたちにお話しになり、聖書をわたしたちに解き明かされていた時、わたしたちの心が[わたしたちの内で]燃えていたではないか」。
33.彼らは直ちに立ち上がってエルサレムに戻ってみると、十一人と彼らの仲間たちが共に集まっていて、34.彼らが「主は本当に甦られてシモンに現れた」と言っていたので、35.二人もまた、道すがら起こったことや、パンを裂かれた時に(イエスだと)分かったことなどを詳しく説明して聞かせた。
36.二人がこれらのことを話していると、イエスが彼らの真ん中に立たれ、彼らに「あなたがたに平安があるように」と言われた。37.彼らは恐れ、恐怖におののき、霊を見ているのだと思った。38.すると彼らに言われた。「なぜ心を騒がすのか。どうして心に疑いを抱くのか。39.わたしの両手両足を見なさい。このわたしだ。わたしに触れてよく見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見ているように、わたしにはそれがある」。40.こう言って、彼らに両手両足をお見せになった。41.しかし、まだ彼らが喜びのあまり信じられずに驚いているので、「ここに何か食べ物はあるか」と彼らに言われた。42.そこで彼らはイエスに焼いた魚の一切れを差し出すと、43.イエスはそれを受け取り、彼らの前でお食べになった。
44.そして、彼らに言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいた時、あなたがたに話したわたしの言葉はこれである。すなわち、モーセの律法と諸預言書と詩編とに、わたしについて書かれていることは全て成就されなければならない」。45.その時、イエスは聖書を悟らせるため彼らの理解力を開いて、46.彼らに言われた。「こう書かれている。すなわちキリストは苦しみを受け、三日目に死者たちの中から復活する。47.また彼の名による罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。48.あなたがたはこれらのことの証人である。49.[見よ、]わたしはあなたがたに、わたしの父が約束されたものを遣わす。だからあなたがたは、上から力を着せられるまで都にとどまりなさい」。
50.イエスは彼らをベタニアまで連れて行かれ、その両手を上げて彼らを祝福された。51.彼らを祝福しておられると、イエスは彼らから離れて天に上げられた。

52.一同はイエスをひれ伏して拝し、大きな喜びを抱いてエルサレムに帰って行った。53.そして絶えず神殿の庭にいて、神をほめたたえていた。






   ★ルカによる福音書24章28節~35節の釈義的研究★  -前田滋彦ー 


Ⅰ.背景とコンテクスト

ルカ24章13~32はイエスのエマオ途上での顕現として知られている。これを報告しているのは、ルカとマルコだけである(マル16:12)。このうちマルコは、「イエスはちがった姿で御自身をあらわされた」と短く報告しているにすぎない。「ちがった姿で」と言うことによって、「マグダラのマリヤに御自身を現わされた」(16:9、11、マタイ28:9参照)のとは違った仕方、つまりマリヤは復活のイエスに出会ったとき、すぐイエスだと分かったが、エマオ途上では、彼らの目に見える姿で現れたにもかかわらず、途上の二人は、それがイエスだとは気付かなかった。それが食事のとき、彼らがイエスだと分かった途端、姿が見えなくなったことを、短く報告したのである。

ルカの報告はもっと詳細でドラマティックなもので、神学的にも重要な事柄が多く含まれている。二人がイエスと気付かなかったのは、「彼らの目がさえぎられていて(ἐκρατοῦντο ※『さえぎられていて』は意訳で、原義は『つかまえられて』『縛られて』である )」イエスを認めることができなかったからであり、イエスだと分かったのは、「彼らの目が開かれた(διηνοίχθησαν)」からであった。いずれも受動態が使われており、イエスがイエスと分るのは人間の五感による認識によるのではなく、ただ上からの業であることを教えている。

登場人物は三人いるが、それは二人の弟子と、ご自分を人の認識から隠されたイエスである。二人の弟子の内の一人はクレオパという人物で、彼の名が登場するのは、新訳聖書中、この場面においてだけである。もう一人が誰であったかルカは報告していないが、エマオへの途上、見知らぬ旅人との会話の中で、イエスの復活の事を女たちから聞いた(24:22,23)と話していることから、この報告を女たち(マグダラのマリヤ、ヨハンナ、ヤコブの母マリヤ、他の女たち24:10)から聞いた、十一人の弟子と、その他の人たち(24:9)の中にいた二人であることは疑い得ない。二人はエルサレムから十一キロメートル離れたエマオという村に向かって歩いていた。夕暮れが迫っていた(29)ことから、その村にはおそらく彼らの家があって、その家路についていたのかも知れない。二人の弟子のこの時の姿は、全体として暗く沈んだものとして描かれている(24:17、20、21)。あの女たちの報告にもかかわらず、彼らにはそれが「愚かな話」(24:11)のように思え、到底信じることが出来なかったのである。師の亡きあとの途方に暮れた二人は、過去を忘却しようとするかのように、力なくエルサレムを後にしていた。そこに、彼らの目がさえぎられて、イエスだと分からないイエスが近づいてきて「互いに語り合っているその話は何のことか」と、彼らに話しかけられる。ここからクレオパとイエスとの会話が始まるのだが、両者の間には、聖書の預言解釈について大きな隔たりがあった。

この三日間、エルサレムでは、大事件が起こっており、町全体が大騒ぎをしているさ中、その事すら知らないでエルサレムから来たこの「旅人」を多少軽蔑の念を持って応答(24:18)したあと、死んだナザレのイエスについて、ユダヤ主義的な自分流の解釈を始めた。それは政治的、地上的メシア期待論であった。「あの方は、神とすべての民衆との前に、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが…わたしたちは、イスラエルを解放しようとするのはこの人だと、望みをかけていました」(24:19,21)。この誤った解釈は、旅人によって愚かな解釈として、完全に覆される。旅人の解釈によれば、「キリストは必ずこれらの苦難を受けて、その栄光に入るはず」(24:26)であった。この解釈は新しいものではなく、すでに預言者たちよって説かれていたものである(24:25)。このキリスト論的解釈は使徒時代の教会に中心的教えとして引き継がれる(使17:3)。それで、さらに「モーセとすべての預言者たちからはじめて、聖書全体にわたってご自分について書いてある事を、彼らに解き明かされた」(24:27)。

この時、二人の弟子の心に火がつき、「わたしたちの心が[わたしたちの内で]燃えたではないか」(32)と後になって回顧しているのであるが、彼らの目はその時はまだ、さえぎられたままであった。



28節~35節は3つの段落に分けられる。


 28a 村へ近づく

28b イエスがさらに先へ行こうとされる

29a イエスに泊まるよう強いて勧める

29b イエス家に入られる


 30  食卓につき、パンを取り、感謝し、裂いて、手渡された

31a 二人の目が開かれ、イエスだとわかる

31b イエスが見えなくなる

32  心が燃やされたことへの回顧


 33a 急いでエルサレムに戻る

33b 十一人と仲間たちを見つける

34  「主がシモンに現れた」と話していたのを聞く

35  二人の弟子の報告



解説

エマオの村に近づいて(28~29)

二人が旅人から、モーセからはじめて旧約聖書全体にわたって、イエスについて書かれてあることを聞かされ、それによって心が燃やされたのに、村に着いてもなおイエスとは気付かなかったのだろうか、という疑問が生じる。言葉づかいや、語りぐせというのは誰にでもあるものだが、彼らにそれが分らなかったのは、彼らが十一人の弟子たち程、イエスに近い弟子たちではなかったのかも知れない。しかし、二人にとって、この旅人は気になる存在であったことは確かである。イエスがなおも先へ歩いて行こうとされると、彼らはイエスを呼び止め、自分たちと一緒に家に泊まるようにと強く勧めたのである。「イエスはさらに先へ行かれる様子であった」(28b)というのは、近東の習慣であって、普通、客はこうしたもてなしを受けても、数回は断るのが習慣で、何度も繰り返し、熱心に勧められたあと、もてなしを受けるように義務付けられていた(創世記19:2~3参照 注1 )。「様子であった」Προσεποιήσατο は、「~ふりをする」の意味があり、イエスは本当は先へ行くつもりはなく、弟子たちの何度も繰り返される熱心なもてなしを初めから期待されていたのであり、それに何度か断った後で応じるつもりであった。「強いて」Παρεβιάσαντο という言葉は使徒言行録16:15でもルカは使用しており、そこではルデヤという婦人がパウロを強いて自分の家に連れて行って泊めたとある。そこでもこの習慣に添ってもてなしがなされたのであるが、いずれも、もてなす側の熱心さが強調される言葉で、二人の弟子は、この旅人から、イエスについての更なる聖書の解き明かしを聞きたいと懇願したのである。ここに真理を求める者の態度はどうあらねばならないか、という信仰的テーマが隠されている。

「それで(イエスは)彼らと一緒に泊まる為、(家に)入られた」(29b)。イエスが親しく、み言葉を語られるのは、多くの場合、家庭であった。この「家の教会」というモチーフはルカの書いた使徒言行録にも一貫して貫かれている。この家が誰の家であったか、この二人の弟子のどちらの家であったかなどはこの文脈の中では全く問題にされていない。ルカの関心はそこで行われたイエスの業と出来事に集中している。その業と出来事とは何であるのか。今我々は事柄の核心へと向かおうとしているのである。



エマオでの食事

「そしでイエスは彼らと一緒に食卓につかれ、パンを取って、感謝の祈りを捧げ、裂いて、彼らに渡された」(30)。我々はすぐに、この少し前の夜に行われたあの食事の場面を思い起こす(22:19)。そこでも同様のことが行われており、今また、再びここエマオでも行われた。この行為がイエスによって弟子たちに対し行われたあの食事と同様の意味を持つものなのか、更に言えば、聖餐式の食事を意味するものなのかは、意見の分かれるところでもある(注2)が、今日の大方の解釈は、それが聖餐を意味するものとなっている。

ここでイエスによって行われた四つの行為、「取って」「感謝の祈りを捧げ」「裂いて」「彼らに渡された」は、イエスが人々と共に会食を行われる時に伴う特別な行為と考えられる。イエスがそのように行われるのは、人々から隠されていたある重要な事柄を思い起こさせようとされたからである。その重要な事柄とは何か。この四つの行為は、例えば五千人に対する給食でも行われている(マタイ14:19、マルコ8:6、ルカ9:16、ヨハネ6:11 ※但し、ヨハネだけが「裂いて」を省略した)が、その奇跡の後、いずれの記録も、イエスが神の子、キリストとして、弟子たちと人々によって告白されていることに注目しなければならない(マタイ14:33、マルコ8:29、ルカ9:20、ヨハネ6:14、68,69)。    エマオに於ける食事も、あの夜の聖餐の食事、すなわち、「パンを取り、感謝の祈りを捧げ、これを裂き、弟子たちに与えられた」のと同様の仕方で行われており、その食事を通して、またそのことにより、イエスを思い出す事がまさに期待されていたのである(22:19、1コリント11:24,26も参照)。事実、エマオにおいては、その期待が現実の出来事となったのである。

「すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かった」(31a)。16節で彼らは「目がさえぎられて」イエスを認めることが出来なかったのであるが、今、エマオでの聖餐の食事によって、「彼らの目が開かれ」聖餐で期待されていた「イエスを思い出すこと」が出来たのである。先にも書いたが、「さえぎられたἐκρατοῦντο」「開かれたδιηνοίχθησαν」は受動態で、その事が外からの力によるものであることを示している。Διανοίγω(開く)は32節、45節にも現れるが、32節はイエスが彼らに聖書を「解き始められたΔιήνοιγεν 」を意味するのに使っているように、「開く」ことと「解く」ことは同義であり、そのことによって、はじめて我々はイエスとその死の意味を知るのである。「イエスだと分かったἐπέγνωσαν」。福音書の中で使われているἐπιγινώσκω は、その殆どは本義の「知る」「見分ける」「気づく」「認知する」などの意味として使われていて、これはルカにおいても同様であるが、エマオの物語の場合は、『復活のイエスを見ること、また、体験して知ることをも意味している』(新約聖書釈義辞典)。

ルカは、このような仕方(聖餐式の食事)でイエスを知っている教会の物語として、このエマオの物語を書いている(注3)。それ以来、教会は繰り返し聖餐式において、イエスを体験し、その死の意味を確認してきたのである。だが、しかし、イエスは何故、彼らの前から、再び見えなくなったのか。「するとイエスは彼らから見えなくなった」(31b)。ここで使われている形容詞「見えない ἄφαντος」は、一般的な意味で使われていて、それ自体には転義はないが、彼らの前から見えなくなった理由が32節以降にあるように思われる。 彼らの反応は、直ちにイエスの言葉を思い出したことだった。「道すがら、あの方が私たちにお話しになり、聖書を私たちに解き明かされていた時、私たちの心が[私たちの内で」燃えていたではないか」(32)。思い出すという行為は、すでに最後の食事の席でイエスが弟子たちに命じられていた事であった(22:19) 。それは、聖餐の食事の度に、イエスとその死を思い出す(ἀνάμνησιν.)のである。さらにイエスの復活後、墓を訪れた女達に天使が「ガリラヤにおられたとき、あなた方にお話しになったことを思い出しなさい」と言った(24:6)。「そこで婦人たちはイエスの言葉を思い出した」(24:8)。イエスが道すがら聖書を解き始めたとき、この二人の弟子が当初どのような反応を示したかは何も語られていない。しかし、イエスが彼らの前から見えなくなった時、即座にその時、彼らの心が燃えたのを思い出したのである。「燃えた καιομένη」は先の「ἐκρατοῦντοさえぎられた」、「διηνοίχθησαν開かれた」と共に受動態で書かれており、人間の力ではない外からの力によってそれが行なわれたことを意味する。本義では継続的に燃えているともし火(ルカ12:35、ヨハネ5:35、黙4:5)、または、枝などが燃やされること(ヨハネ15:6)を表わすが、ルカ24:32では転義でこれを使っていて(注4)、本当は心が燃えて躍り上がるような興奮状態にあったのである。しかしそれが何故なのかはその時は分らなかったが、今はっきりとその理由が分かったのである。



エルサレムへの帰還

次の33~35節は3番目の段落となる。かの方がイエスだと分かり、道々、心が燃えた理由がはっきりしたからには、じっとしてはおられない。ふたたび心が燃え出したのである。「彼らは直ちに立ち上がって、エルサレムに戻り…」(33a)。彼らがエルサレムから出てきたつい数時間前は、悲しみと失望の状態にあったが、今、エルサレムに戻る彼らの内には喜びと希望が満ち溢れていたに違いない。このエルサレムへの帰還が、どういう意味を持つのか。我々は33aのエルサレム帰還への言及が、24:13~29のエルサレムからエマオへの長い記述に比べ、余りにも短いのに驚くのだが、この短い記述の中に、見落としてはならない三つの重要なメッセージを読み取ることができる。

第一に、エルサレムへの帰還は、イエスとの食卓に共にあずかることによって、悲しみと失望から立ち直った彼らが、イエスを思い出し、イエスについての良き知らせを、他の弟子たちに伝え、喜びを共有することとなった。(信仰の一致)

第二に、エルサレム帰還により、二人の経験が、ペテロとイエスとの出会いの経験(34)と一体となり共通の理解が使徒達の中に生まれることとなった。(福音の理解の一致)

第三に、エルサレム帰還によって、再びイエスとの新たな出会いが生じ(36~)、イエスに対する新たな確信のもと、使徒たちの内に宣教への備えがなされることとなった(49)。(宣教への一致)

エルサレムは、福音の出来事がおこった場所であり、福音がそこに於いて使徒たちによって確認され、福音はそこから使徒たちによって、世界にもたらされることになっていた(24:47)。つまりルカによれば、エルサレムはそこから福音が伝えられ世界に広まってゆくべき場所、拠点であった。だから彼らは上から力を帰せられるまでは、エルサレムに留まっているべきであると命ぜられたのである(24:49)。

「十一人と彼らの仲間たちが共に集まっていて…」(33b)。ルカは敢えて「十一人と彼らの仲間たち(正確には十一人と彼らと共にいる者たち)」という表現を用いることによって、すでにかの十二人の集団は壊れており、他の仲間たちを含めた新たな集団が出来つつあることを示した(注5)。この新たな集団が何の目的で集まっていたかについてルカは直接には触れていない。この日が週の初めの日である(24:1)ことから、この集会が、初期のキリスト教徒が礼拝のために集まっていたとか、また、その原型となることを示すような事柄は一切語られていない。二人の弟子がエマオに向かったのはこの日(13)であり、その事実は、むしろ礼拝がその日に行われていなかったことを示すものである。この集会は、この日の朝早くに、女たちから主の復活の報告を受け(9,10 )、話を聞いたが、たわごとの様に思った「十一人と、ほかのすべての人たち」(9)、が、更に新たな証人として現れたシモンの話を詳しく聞くために緊急に集まったか、単にユダヤ人を恐れて見つからないように一か所に身を隠していた(ヨハネ20:19)と解釈する方が自然であろう。彼らはシモンから詳しく証言を聞いて、「主は本当に甦られてシモンに現れた」(34)と言ったのである。ルカは先に「しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走って行き、身をかがめて中をのぞくと、巻き布だけが見えたので、その出来事に驚き自分の家に帰った」(24:12)として、ペトロへのイエスの顕現については何も報告していない(注6)。しかし34節の間接的な言い回しは、ルカが、「ケファに現れ」た(1コリント15:5)とするイエスの復活に関する初期のケリュグマの影響をすでに受けており、ペトロをエマオの二人の弟子よりも先のイエス顕現の体験者とする伝承を承認していることを示している(注7)。しかし、新約聖書の中には、ペトロへのイエス顕現自体についての記録はない。

「主は本当に甦られて」は神学的に重要な一文である。「本当にὄντως」は、たわごととして信じなかった(24:11 )弟子たちの心情を良く表している。確かに復活使信はごく初期の時代には、疑いの目(心)にさらされていた。だから、復活の使信を語る場合、聖書の証言が付加され「聖書に書いてあるとおり」(1コリント15:4)というように権威化されて語られた(注8) 。シモンの証言や、エマオにおける二人の弟子証言のように、復活使信が、目撃者による証言として語られることによって、その信頼性は一層確かなものになる。事実、彼らはあらゆる機会、あらゆる場所において、主の復活の証人として語っているし(使徒3:15、4:10、5:30~32)、そのことによって復活信仰は、原始キリスト教会の極めて重要な中心的使信となっていったのである(1コリント15:13~20)。

エルサレムの家に集まった十一人とその仲間は、シモンの証言を今初めて、はっきりと聞いた。ほんの今朝がた、墓に現れた輝く衣を着た二人の人が女たちに、「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(24:6)と言った。そこで使われている「復活なさった ἠγέρθη」は、アオリスト、受動態。 ここでも「主は本当に甦えられて ἠγέρθη」(34)も同じアオリスト、受動態が使われており、このことは復活という出来事を引き起こす主体はほかの誰でもない神ご自身であることを示している。同時にここで ἠγέρθη が使用されたのは、女たちから報告を受けた十一人とその仲間が、空になった墓において二人の人が女達に語ったその言葉 ἠγέρθη を思い出して言っているものと思われる。さらに二人の人は言葉を続けて、イエスの言葉を思い出せと言った。「まだ、ガリラヤにおられた時、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。『人の子は必ず罪人たちの手に渡され、十字架にかけられ、そして三日目に復活するであろう』と言われたことを」(24:6、7 、18:32,33参照)。彼らはペトロの証言を得て、まさに二人の人が言ったように、イエスの言葉を思い出したのである。先にも述べた様に「思い出す」「記憶にとどめる」という行為がこの24章全体において、非常に重要なこととして扱われており、それが何度も繰り返し現れてくるのである。

「シモンに現れた」(34) はルカの間接的な表現である。ルカを含め(24:12参照)、他の福音書記者、および新約聖書のどこにも、シモンへのイエスの顕現を直接に記録しているところはない。1コリント15:5でパウロはケファへのイエス顕現の伝承の存在を認め、それは彼自身が受けた事であり、それを重要なこととして、またあなた方にも伝えているという、自らがその伝承の担い手であることを公言した。「シモンに現れた」は、ルカもその同じ伝承の系列の中にあったことを示すものであろう。

「二人もまた、道すがら起こった事や、パンを裂かれた時にイエスだと分かったことなどを詳しく説明し始めた」(35)。二人は、シモンがみんなに、自分のイエス顕現の体験を話しているまさにその最中か、その後にエルサレムに到着し、この家に現れたのであり、十一人からシモンの話を聞いた後、遅ればせながら“二人もまた…説明し始めた”と報告することによって、ルカ福音書の「順序正しい記述」(1:3)という原則に従ってルカは、シモンのイエス顕現が二人のそれよりも先であり、優先すべきであることを示したのである。ただ、十一人と仲間たちが、二人の報告を聞いて、どのような反応を示したかについてルカは何も記していない。マルコによると「この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった」(マルコ16:13)として、伝承は彼らの不信仰を示している。これが真実なら、十一人と仲間たちが二人の証言は信じないで、シモンの証言だけを信じたということだろうか。本当はシモンの証言も信じていなかったのではないか。「主は本当に甦られてシモンに現れた」というのは、あくまでシモンの証言に対する彼らの間接的表現にすぎないのか。

甦ったイエスが突然彼らの前に現れ(36~)「なぜ心を騒がすのか。どうして心に疑いを抱くのか」(38)と言われたことから推測すると、どちらの証言に対しても疑いの心を抱いていたことだけは確かなようである。二人の弟子の証言は、エマオの一日を簡潔に二つに要約して語ったものである。第一は、イエスの死によって失望の中、エマオに向かう二人には、目がさえぎられて、近づいて話しかけるイエスがいても、それがイエスだとは分からなかった。第二は、それが、道すがらイエスによって聖書が説き始められた(開かれた)(διήνοιγεν)ことと、「パンを取り、感謝の祈りを捧げ、裂いて、二人に渡された時に、彼らの目が開かれ(διηνοίχθησαν)たことでイエスだと彼らに分かったこと(ἐγνώσθη)」(31)である。隠されることと開かれること、この二つの主要テーマを繰り返すことによって、ルカはこの物語の中心的なメッセージを語る。それは、信仰に関するすべての事柄は、開かれない限り人間には理解できないが、それがイエスによって開かれた時、目が開かれ、信仰に関することを理解することができるということである。そのための必要なのは『思い出す』ということである。



説教への適応

エマオ物語は暗から明へと変化するキリスト者の姿をリアルなタッチで描いている。それゆえに、この物語は説教の好材料を多く含んでいると言える。すべてのキリスト者はその信仰生活のあらゆる局面において、常に明であるとは限らない。ともすれば、予期せぬ出来事や経験によって、突然暗闇の中に迷い込んでしまうことがあるかも知れない。我々の姿を、物語の中のあの失望と落胆の内に暗く沈み込んだ二人の弟子の姿に重ね合わせることができる。彼らは何故、失望と落胆の中にあったのだろうか。それを解明することが、すなわちそれは、キリスト者の今日的な問題を解くカギともなるのである。

 聖書は彼らが失望したのは、イエスの語られた言葉を忘れたことにあったのだから、それを思い出しなさいと勧める(6)。イエスの死は確かに弟子たちの期待を大きく裏切るものであった(19~21)。しかし、イエスの言葉にはご自分の復活が約束されていたのである(7.26)。彼らはこの復活のことを理解できないでいた。復活を理解できない時に十字架は恐ろしい刑罰の死でしかあり得ない。彼らの目はさえぎられてイエスを認めることができなかった。エマオは今日的な意味で、イエスから目をそむけること、逃避を意味する。キリスト以前の無信仰な世界を意味する。そこへ逃げ込むことは容易である。キリスト者と言えども、またいつでもそこに逃げ込む危険がある。しかし、重要なことは、イエスは常にご自分の方から近づいて来られ、我々にその真の姿を現わそうとしておられるということである。二人の弟子は、主と食卓を囲み、パンを渡されるまで、イエスとは分らなかった。パンを「取り、感謝し、裂き、手渡す」という、イエスの典礼的な馴染みある行為によって、初めてイエスだと気づいた(目が開かれた)のである。その結果として、過去における主との出会いを思い出し(32)、復活への確信を深め、再び教会の交わりの中へ戻っていく(エルサレムへの帰還)。エマオの物語は、今日のキリスト者の日常においても常に繰り返されることである




注1 NIB新約聖書注解 ルカによる福音書636 ATD,NTD聖書注解刊行会

注2 現代聖書注解F.Bクラドック ルカによる福音書 466(日本キリスト教団出版局)はこの行為が、聖餐式の食事であり、主の晩餐であったと解釈している。その理由はパンを「取り …祝福し…裂き…与えた」というその言葉の使い方にあると言う。これに対し、NIB新約聖書注解 637(ATD.NTD聖書注解刊行会)は、この行為は聖餐を意味するものではなく、歓待と食卓の交わりを神聖な機会となしうる可能性が、すべての食事に備わっていることを意味するとしている。

注3 現代聖書注解(F.Bクラドック)466

注4 新約聖書釈義辞典 καιομένη

   καίω は本義では火を付ける、ともす、燃える、燃やす、焼くなどの意味があり、NTでは11回使用されている。マタイ5:15では、火をともす行為ではなく、明かりがすでに「ついている」状態に重点が置かれている。受動態では、継続的に「燃えている」ともし火(ルカ12:35.ヨハネ5:35.黙4:5.8:8。10.19:20)を意味する。ただしルカ24:32では転義的にルカはこれを使用している。

注5 SACRA PAGINA―Danniel J Harrington―Appearance to Two Disciples 397

注6 24:12は後日の編集句である可能性がある。

注7  NIB新約聖書注解 638

注8 新約聖書釈義辞典 ἠγέρθη 430

   さらに復活使信に信頼性を与えるために、ルカ24:34と1コリント15:4以下では、特に復活者の目撃証人が引き合いに出される。弁証的傾向の強い墓の物語においては、復活使信は神の啓示として語られており、その上、空の墓がそれを証拠立てる確かなしるしとして言及されている。



参考資料、参考文献

本文テキスト ネストレ=アーラント ギリシャ語新約聖書(第27版)日本聖書協会

NIB新約聖書注解 (ATD,NTD聖書注解刊行会)

現代聖書注解(F.Bクラドックー日本キリスト教団出版局)

新聖書注解(いのちのことば社)

SACRA PAGINA―Danniel J Harrington―S,J.Editor-Appearance to Two Disciples

新約聖書釈義辞典




重要語句

28.Προσεποιήσατο (προσποιέομαι ~では、~の様子―アオ、中、3単)

29.Παρεβιάσαντο ( παραβιάζομαι 強いるーアオ、中、3複)

30.κατακλιθῆναι (κατακλίνω 食卓につくーアオ、受、不)

   λαβὼν (λαμβάνω 取る、受け取るーアオ、能、分、単、主、男)

   εὐλόγησεν (εὐλογέω 感謝をささげるーアオ、能、3単)

   κλάσας (κλάω 裂くーアオ、能、分、単、主、男)

   ἐπεδίδου (ἐπιδίδωμι 与える、手渡すー未完了過去、能、3単)

31.Διηνοίχθησαν (διανοίγω 開かれるーアオ、受、3複)

   ἐπέγνωσαν (ἐπιγινώσκω 認める、認識するーアオ、能、3複)

   ἄφαντος (見えない、隠れた 形容詞)

32.Καιομένη (καίω 燃えるー現、受、分、単、主、女)

   Διήνοιγεν (διανοίγω 開く、説明するー未完了過去、能、3単)

33.ὑπέστρεψαν εἰς Ἰερουσαλὴμ (ὑποστρέφω エルサレムに戻るーアオ、能、3複)

   ἠθροισμένους (ἀθροίζω 共に集まるー完、受、分、複、対、男)

34.ὄντως ἠγέρθη ὁ κύριος (主は本当に甦られた)





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