2014年1月6日月曜日

新約聖書原典「ヨハネの手紙第一」1章の翻訳(私訳)

ヨハネの手紙 一 


1章


1初めからあったもの、わたしたちが聞いてきたもの、わたしたちの目で見てきたもの、わたしたちがよく見てわたしたちの手でさわったもの、すなわち命のことばについて。2.ーこの命が現わされました。わたしたちは見てきて証しし、その永遠の命をあなたがたに伝えるのです。この方は、父のみそばにおられましたが、わたしたちに現わされたのですー 3わたしたちが見てきたもの、聞いてきたものを、あなたがたにも伝えます。それは、あなたがたもまた、わたしたちとの交わりを持つためです。そして、わたしたちのこの交わりとは、父と、御子イエス・キリストとの交わりのことです。4わたしたちが、これらのことを書いているのは、それによって、わたしたちの喜びが満ち溢れるようになるためです。

5わたしたちがイエスから聞いていて、あなたがたに伝える知らせはこれです。すなわち神は光であって、その内には闇がひとつもありません。6もしわたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩くなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではありません。7もしわたしたちが、神が光の中におられるように、光の中を歩むなら、わたしたちは互いに交わりを持ち、御子イエスの血が全ての罪からわたしたちを清めるのです。8もしわたしたちが、自分には罪がないと言うなら、自分を欺いているのであって、真理はわたしたちの内にはありません。9もしわたしたちが、自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、わたしたちの罪を赦し、わたしたちを全ての不義から清めてくださいます。10もしわたしたちが、罪を犯したことがないと言うなら、わたしたちは神を偽り者としているのであって、神の言葉はわたしたちの内にはありません。


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「自然の中で聴く聖書」=新約聖書 / 前田滋彦 訳は下のリンクから聴けます。

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ヨハネの手紙の私訳を始めるにあたり、この手紙の書かれた背景や目的について若干の考察をしたいと思います。  


★Ⅰ.テキストの文学的類型

① 書簡  形式的には手紙ではない(差出人、受取人、出だし、結びの挨拶がない)が、内容的には、論文形式に近い手紙。

② 対象  小アジアの特定地域内の一群(数グループ)の諸集会に向けて書かれた公同書簡

③ 目的  読者の信仰と兄弟愛を強め、彼らを神との交わりの確かさの中に固くして、異端の教師(グノーシス思想家)の脅威から防ぎ守ることにある。

グノーシス的運動が教会発展のある段階でキリストに忠実な集会の中に入り込んできた。教会の告白するキリスト論を否定するもの。

Ⅱ.背景

  グノーシス思想―グノーシス思想家ケリントス(ヨハネと同時代の小アジアの思想家)によれば、その思想の特徴は、

  神は世を救うために霊的存在者キリストを世に遣わした。このキリストは、歴史的なイエスの中に、一時的に宿ったに過ぎない。つまり、イエスの洗礼において、霊なるキリストが肉なるキリストと結合したが、受難に先立って再びこれを離れて神のもとに帰ったというもの。



Ⅲ.著者

  ヨハネによる福音書の著者と同一人物。またヨハネの福音書を知っている(別の?)ヨハネという説もあるが、その文体の特徴から同一人物の可能性が高い。しかし、そのヨハネが使徒のヨハネだとする明確な証拠はなく(教会の伝承ではそう言われているが)、文中に使徒ヨハネを暗示するものは何もないことから、福音書を書いた使徒ヨハネを著者とすることに疑いを持つ人もいる。ただ、1:1,3で著者がイエスの生涯と活動を目の当たりに見たと告白していることから、歴史的同時代性はあると考えられる。ただ「私たちが見てきたもの、聞いてきたもの…」という表現は歴史的出来事の感覚的認識であると同時に、その動詞の使用方法(完了、三人称単数)から推察できることは、その歴史的出来事が、終末論的出来事としての福音の担い手にあずかっていることを強調しているのだとも考えられる(このことについてはブルトマンが1ヨハネ福音書注解の中でかなり詳しく述べている。P21~24)



Ⅳ.1~4の文体とヨハネによる福音書の類似

  ヨハネによる福音書1:1~の序文を参考にしている。

   ἀπʼ ἀρχῆς 「初めから」(1:1)―Ἐν ἀρχῇ「初めに」 (ヨハネ福音書1:1)。

  生命のことば(1:1)―ことばの内に生命があった(ヨハネ福音書1:4)

  父のそばにおられた(1:2)―はじめに神と共にあった(ヨハネ福音書1;2)

  私たちに現わされた(1:2)―ことばは世にあった(ヨハネ福音書1:10)

  神は光であり(1:5)―生命は人間を照らす光であった(ヨハネ福音書1:4)


「聞く」「見る」「触れる」対象としての「命のことば」。感覚的認識の対象であるところの「τοῦ λόγου τῆς ζωῆς —命のことば(男性)」はὃν(おかた) ではなく (もの)という中性の関係代名詞、単数、対格で表わされているのはなぜか。永遠の存在者であられる神(ὃν)が受肉されて、人となり、聞き、見、触れる、感覚的認識の対象()となられたことを表わす。

「私たち」という言葉は1~4節に10回登場する。「私たち」とは誰か?
「私たち」が聞き、見、触れた、ということから、史的イエスの目撃者、歴史上のイエスと直接交わって、イエスの証人となった一群の人々の代表者。として語っている。
しかし単に感覚的に認識した一群ではなく、先在のロゴスが人となったことを認めた一群であることは確かである。
しかし、「著者」のところでも述べたが、1節の「聞いた」「見た」は完了で表わされ、「よく見て、手でさわった」はアオリスト(不定過去)である。著者がこのように時制を使い分けているのは何故であろうか。完了は出来事が過去に終わっていて、その結果が現在に及んでいるから、次の様に解釈されうる。「私たちが聞いてきた(完了)もの、見てきた(完了)もの」の「私たち」とは、イエスにおいて起こった出来事(史的出来事)を、信仰的出来事として受け止め、今や福音の担い手として、歴史の中に立つ人々のことである。事実この手紙が書かれた頃1世紀の終わりごろ、歴史的イエスを感覚的に認識した人々のほとんどは生存していないと思われるからである。

1:3 3節は1節の不完全さ、つまりこの手紙の直接の目的をまず明らかにし、完結する。それは「あなた方にもまた伝える」ことであり、その最終目的は「私たちとの交わりを持つため」である。この命題にはグノーシスなる偽教師たちの存在と、それによる集会の緊迫感が想定されている。偽教師たちの異端の脅威から信仰を守るには、「わたしたちの交わり」である信仰の最初の証人たちの正統な伝承のつながりの中にいるのが安全なのであり、その安全性はその交わりが「父と、また御子イエスキリストとの交わり」にあるからである。

1:4 普通、手紙の挨拶文の締めとして、「あなたがたに喜びがあるように」と読み手の側の願いを代筆するのが普通であるが、「わたしたちの喜びが満ち溢れるように」との願いは不自然さが残るが、「わたしたちとの交わり」を持てたらどんなにか喜ばしいことだろうという著者の願いの表れとすれば、そのほうがより自然かもしれない。





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