2015年11月10日火曜日

新約聖書原典「コリントの人々への手紙二」 1章の翻訳(私訳)

コリントの人々への手紙 二 


1章


1.神のみ旨によってキリスト・イエスの使徒(となった)パウロと兄弟ティモテから、コリントにある神の教会と、アカイアの全域にいるすべての聖徒たちへ。
2.わたしたちの父であられる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように。
3.神はほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父、憐み深い父、また慰めに満ちた神。4.神は、どんな苦しみにあってもわたしたちを慰めてくださり、わたしたち自身も神から慰められているその同じ慰めによって、あらゆる苦しみにある人々を慰めることができるようにしてくださいました。5.なぜなら、キリストの苦難がわたしたちに満ち溢れているように、わたしたちの慰めもキリストを通して満ち溢れているからです。6.もしわたしたちが苦しめられるなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もしわたしたちが慰められるなら、それはあなたがたの慰めのためであって、わたしたちが経験しているのと同じ苦難に耐える力を生み出すためなのです。7.わたしたちがあなたがたについて(抱いている)希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦難にあずかっているように、慰めにもあずかっているのをわたしたちは知っているからです。
8.兄弟たちよ、アジアでわたしたちに起こった苦難については、あなたがたに知らないでいてほしくはありません。というのは、わたしたちは耐えられないほどに極度に押しつぶされ、そうして、生きる望みを失い、9.心の中で死を覚悟しました。それは自分自身を頼みとしないで、むしろ、死者たちを復活させてくださる神を頼みとするようになるためでした。10.神は死の恐怖からわたしたちを救ってくださり、また(これからも)救ってくださるでしょう。これからも救ってくださると、わたしたちは神に望みを置いています。11.あなたがたも、わたしたちのために祈りをもって共に仕えてくれています。それは、多くの人たちからわたしたちに表わされた賜物が、わたしたちに代わって多くの人々によって感謝されるようになるためです。
12.さて、わたしたちは、この世で、特にあなたがたに対し、神の誠実さと純粋さにより、肉による知恵ではなく、神の恵みによって行動してきたことはわたしたちの誇りであり、わたしたちの良心が証しするところです。13.わたしたちはあなたがたが読んで理解できること以外には何も書きませんが、あなたがたには(次のことを)充分に理解していただきたいのです。14.すなわち、あなたがたもある程度はわたしたちのことを理解しておられるように、[わたしたちの]主イエスの日には、あなたがたがわたしたちの誇りであるように、わたしたちもあなたがたの誇りであるということです。
15.こう確信したので、わたしは先ず初めにあなたがたのところへ行こうと思いました。それは、あなたがたに二度の恵みを受けられるようにするためでした。16.そして、あなたがたのところを通ってマケドニアへ行き、また再びマケドニアからあなたがたのところに戻って来て、(その後)あなたがたによってユダヤへ送り出していただきたいのです。17.では、こう望むのは軽率な振る舞いでしょうか。それとも、わたしが考えていることは、肉に従って自分で考えていることで、わたしにとって「然り、然り」であることが、「否、否」となるためでしょうか。18.しかし、神は真実です。あなたがたに対するわたしたちの言葉は、「然り」でも、また「否」でもありません。19.わたしたち、すなわち、わたしとシルワノとティモテによってあなたがたの間で宣べ伝えられた神の子イエス・キリストは、「然り」また「否」になられたのではありません。そうではなく、キリストにおいてはただ「然り」となられたのです。20.神の約束はすべて、この方において「然り」となったからです。ですから、わたしたちはこの方を通して「アーメン」と唱え、わたしたちによって神に栄光を帰すのです。21.わたしたちとあなたがたとを、キリストに堅く結びつけてくださり、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。22.神はまたわたしたちに証印を押して、わたしたちの心に御霊による保証を与えてくださったのです。

23.わたしは神を証人として自分の命にかけて申しますが、わたしがコリントに行かないでいたのは、あなたがたに対して寛容でありたいからです。24.わたしたちは、あなたがたの信仰を支配する者ではなく、むしろあなたがたの喜びのために協力して働く者です。あなたがたが信仰に(堅く)立っているからです。




ἀνεστράφημεν ἐν τῷ κόσμῳ(12)
「私たちはこの世で行動してきた」

パウロがここで述べている『誇れるもの』とは、自分の人間的な(肉の)行動ではなく、神の恵みに導かれた『受動的な振る舞い』のことである。このことはἀνεστράφημεν(振る舞う)が受動態で書かれていることからも分かる。



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