2015年10月5日月曜日

新約聖書原典「コリントの人々への手紙一」13章の翻訳(私訳)


コリントの人々への手紙  

13章


1.たとい、わたしが、人々の言語や御使いたちの言語をもって語っても、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバルでしかありません。2.たとい、わたしに、預言する能力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を動かす程のいかなる信仰があっても、愛がなければわたしは無意味です。3.たといまた、わたしのすべての財産を(貧しい人々に)分け与え、わたしの体を焼かれるためにささげても、愛がなければ、わたしは何の価値もありません。
4.愛は忍耐深く、愛は親切です。[愛は]ねたまず、誇らず、高ぶらず、5.不作法に振る舞わず、自分(の利益)を求めず、人を怒らせず、悪意を抱かず、6.不義を喜ばず、真理によって共に喜びます。7.すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐えます。

8.愛は決して滅びることはありません。たとい、預言する能力がすたれ、異言がやみ、知識が役立たなくなっても。9.というのは、わたしたちが知っているのは一部分であり、わたしたちが預言しているのも一部分だからです。10.完全なものが来る時には、部分的なものは滅びます。11.わたしが幼子であったときには、幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていました。大人になった今では、幼子らしさを捨てました。12.わたしたちは、今は、鏡によって見るように、ぼんやりと見ていますが、その時には、顔と顔を合わせて見るのです。今は、一部分しか知りませんが、その時には、わたしたちが充分に知られているように、わたしたちも充分に知ることになるのです。13.こうして、いつまでも残り続けるものは、信仰、希望、愛、これらの三つです。しかし、これらの中で最もすぐれているものは愛です。




★「わたしの体を焼かれるために渡しても」(3)
 ἐὰν παραδῶ τὸ σῶμά μου ἵνα καυχήσωμαι
「わたしの体を自慢しようとささげても」

ネストレ28版は、上記のように、καυχήσωμαι (自慢する、誇る)という言葉が使われているが、他の写本では、καυθήσωμαι (焼かれる)が使われている。一字違いで写本時にこうなったのかも知れないが、両者では意味が全く異なる。本訳では、ネストレ28版を低本として訳しているが、ここは他の写本を使用することにした。「自慢しようと」では文脈上、意味がつながらないからである。ちなみに、新共同訳では「自分のからだを 誇ろうとして」と訳しているが、どうなのか。ちなみに、聖書協会共同訳2018の新しい訳では、(焼かれる)が採用されている。

★「予言する能力がすたれ」8節
  「預言がすたれ」でないことに注意!。預言すること、預言する力、または預言する活動がすたれるの意味で、旧約聖書時代から受け継いできた預言そのものが消滅するという意味ではない。






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