2015年9月9日水曜日

新約聖書原典「コリントの人々への手紙一」 9章の翻訳(私訳)


コリントの人々への手紙  

9章


1.わたしは自由ではないのでしょうか。わたしは使徒ではないのでしょうか。わたしは、わたしたちの主イエスを見ていないのでしょうか。あなたがたは、主によるわたしの働きの実ではないのでしょうか。2.わたしは、他の人たちにとっては使徒でないにしても、あなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたが主と共にあることが、わたしが使徒であることのしるしです。3.わたしを批判する人たちへの、わたしの弁明はこうです。4.わたしたちには、食べたり飲んだりする権利がないのでしょうか。5.わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者の妻を連れて歩く権利が全くないのでしょうか。6.それとも、わたしとバルナバだけが、働かずにいる権利を持たないのでしょうか。7.自分でお金を払ってまで、兵士となる者がいるでしょうか。ぶどう園を造りながら、その実を食べない者がいるでしょうか。また、群れを飼いながら、その乳を飲まない者がいるでしょうか。8.わたしがこう言うのは、人間の考えからでしょうか。律法もこう言っているではありませんか。9.モーセの律法にこう書かれています。『穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはならない』。神が気にかけておられるのは、牛のことでしょうか。10.それとも、確かにわたしたちのために言っておられるのでしょうか。わたしたちのために書かれたのです。『耕す者が希望をもって耕し、脱穀する者が分け前にあずかる希望をもつのは当然である』と。11.わたしたちが、あなたがたに霊のものをまいたのなら、わたしたちが、あなたがたから肉のものを刈り取るのは、ひどいことでしょうか。12.他の人たちが、あなたがたからのこの権利にあずかっているとすれば、わたしたちはなおさらではありませんか。しかし、わたしたちは、この権利を用いないで、むしろ、すべてのことを我慢しています。それは、キリストの福音になんの妨げも与えないようにするためです。13.あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人たちは、神殿から下がるものを食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇に(供えられたものに)あずかることを。14.このように、主も福音を宣べ伝える人々が、福音によって生活するようにと命じられたのです。
15.しかし、わたし自身は、これらの(権利の)どれをも用いたことがありません。自分もそうありたいために、このように書いているのではありません。そうなるよりは、死んだ方がまだましです。だれも、わたしのこの誇りを奪うことはできません。16.たとい、わたしが福音を宣べ伝えても、それはわたしにとって誇りにはなりません。その必要に迫られているからです。もし、わたしが福音を宣べ伝えないなら、それはわたしにとって災いです。17.わたしが自発的にそれを行っているなら、わたしは報われます。しかし、自発的でないにしても、それは務めだと信じています。18.では、わたしの報酬とは何ですか。それは、福音を宣べ伝える場合に無報酬で福音を与え、福音に伴うわたしのこの権利を用いないようにということです。
19.わたしはすべての人から自由の身ですが、すべての人に対して自分自身を奴隷として仕えてきました。それは、より多くの人々を得るためです。20.ユダヤ人たちに対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人たちを得るためです。律法の下にある人々に対しては、わたし自身は律法の下にはありませんが、律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人々を得るためです。21.律法のない人々に対しては、わたし自身は、神の律法のない者ではなく、むしろ、キリストの律法に従う者ですが、律法のない者のようになりました。律法のない人々を得るためです。22.弱い人々に対しては、弱い者のようになりました。弱い人々得るためです。すべての人々に対して、すべてとなりました。なんとかして幾人かでも救うためです。23.福音のために、わたしはどんなことでもします。わたしも福音に共にあずかるようになるためです。

24.あなたがたは知らないのですか。競技場で走る人たちはみな走りますが、賞を得るのは一人だけだということを。だから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい。25.競技をする人はみな、何事にも節制します。その人たちは、朽ちる冠を得るためにそうしますが、あなたがたは朽ちない冠を得るためにそうするのです。26.ですから、わたしは目標のないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。27.むしろ、自分の体を打ちたたきながら奴隷として服従させているのです。そうでないと、他の人たちに宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者となるかも知れないのです。






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