2016年12月16日金曜日

新約聖書原典「エフェソの人々への手紙」2章の翻訳(私訳)

エフェソの人々への手紙 

2章


1.あなたがたは自分の罪過と罪とによって死んでいた者であり、2.かつては、それらの罪の中にあって、この世のならわしと空中の権を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働く霊に従って歩んでいました。3.わたしたちも皆、かつては彼らの中にあって、おのれの肉の欲望の赴くままに生活し、肉と思いの欲することを行っていて、ほかの人々と同じように、生まれながらに(神の)怒りを受けるべき子供たちでありました。4.しかし、憐れみに富んでおられる神は、わたしたちを愛してくださったその大いなる愛によって、5.罪過によって死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、―あなたがたが救われたのは恵みによるのですー 6.キリスト・イエスにあって共に復活させ、共に天における座につかせてくださったのです。7.それは、キリスト・イエスによってわたしたちに与えられた慈愛により、神の卓越した恵みの豊かさを来るべき世に示すためでありました。8.あなたがたが救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのです。それはあなたがたから出たものではなく、神の賜物です。9.行いによるのではありません。それは、だれも誇ることのないためです。10.なぜなら、わたしたちは神によって造られたものであり、神があらかじめ用意された善き業のために、またそれらによってわたしたちが生活するようにとキリスト・イエスにあって創造されたからです。

11.こういうわけですから、思い出してもみなさい。あなたがたは、肉によればかつては異邦人であり、手によって行われる肉による割礼を受けたと称される人々からは、無割礼の者と呼ばれていました。12.すなわち、その頃のあなたがたはキリストとは無縁であり、イスラエルの住民からは遠ざけられ、約束された種々の契約にも縁がなく、この世で希望もなく神もない者たちでした。13.しかし、かつては遠くにあったあなたがたですが、今は、キリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者とされたのです。14.実に、キリストは、わたしたちの平和であって、両者を一つとし、ご自分の肉によって敵意という隔ての仕切り壁を打ち壊し、15.諸規定からなる命令の律法を無用にされました。それは、これら双方をご自分によって一人の新しい人に創造して平和をもたらし、16.十字架によって両者を一つの体として神と和解させるためであり、敵意を十字架によって滅ぼされたのです。17.こうして、キリストは来られて、遠くにいるあなたがたに平和を告げ知らせ、近くにいる人々にも平和を告げ知らせられたのです。18.というのは、このキリストによって、わたしたち両方の者が、一つの御霊によって御父に近づくことができるからです。19.こういうわけですから、あなたがたはもはや、よそ者でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族であって、20.使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられているのです。キリスト・イエスご自身が隅のかなめ石であって、21.キリストによって建物全体が組み合わせられ、主にある聖なる神殿へと成長するのです。22.あなたがたも主にあって共に建てられ、御霊によって神の住まいとなるのです。



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★「両者(二つのもの)を一つとし」(14)の「両者(二つのもの)」は「両方の者」(16、18)と同じギリシア語ἀμφότεροι(両方の者)が使われている。つまり、ユダヤ人と異邦人の両方の意。それに対し、15節の「双方」は「二者」(τοὺς δύοの訳。しかし、「両者」「双方」はいずれもユダヤ人と異邦人の二者を指すことに変わりはない。


★「諸規定からなる戒めἐντολῶνー命令とも訳すー複数の律法(νόμον単数)を無用に(廃止)されました」(15)

前後の文脈から、これらの律法がユダヤ人と異邦人との間を隔てる「敵意という隔ての壁」(14)となっていたことは明らか。ユダヤ人は旧約時代から律法を彼らの宗教(ユダヤ教)の中心に置いて、他の民族との壁を作ってきた。今やキリスト教(17節でパウロが言う『平和の福音』と呼ぶもの)が異邦人に伝えられるに及んで、ユダヤ人が築いてきたこの律法の壁こそが異邦人への敵意の原因となっていたことが問題の本質として浮かび上がって来る。ユダヤ人は『平和の福音』を受け入れた異邦人に対しても彼らに律法を強要したが、パウロはイエスがご自分の死によって打ち砕かれた敵意という壁こそが、このような形骸化、形式化された律法のことであり、そのようなものはすでに打ち砕かれて無用(廃止)とされたのであり、両者は十字架によって一つにされたのだと言おうとしているのである。ゆえに、15節を解釈する場合、どの律法が廃されたのかといういわば律法廃止論を導き出すのではなく、第一義的には、ユダヤ人と異邦人を隔てている『敵意という隔ての壁』としての律法が廃止されたと解釈すべきであろう。
 その上で、上記15節の言葉の使い方に注目すると、まず、『諸規定』(ドグマシン=複数)はエフェソ2:15以外に、新約聖書においては、コロサイ2:14『その諸規定もろともぬり消し、これを取り除いて十字架につけてしまわれた』だけで使われ、両者共、廃止されたという否定的な意味で使われている。また、『戒め』ἐντολῶν:複数属格形)も、多くは単数形で新約聖書に登場するが、複数属格形で使われているのは新約聖書でエフェソを含め3か所(マタイ5:19『これらの最も小さい戒めの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれる』、一コリント7:19『割礼があってもなくてもそれは問題ではない。大事なのは神の戒めを守ることである』)だけで、新約では極めてめずらしい。いずれの場所でも、戒めを守ることの重要性を強調していて、肯定的な意味で使われている。15節の「諸規定からなる…律法」ように諸規定(ドグマシン)が戒めや律法と共に使用される場合、これは、旧約時代の聖所にかかわる諸礼典、犠牲制度や割礼などを指すという解釈がある。




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