2016年10月20日木曜日

新約聖書原典「ローマの人々への手紙」9章の翻訳(私訳)

ローマの人々への手紙 

9章


1.キリストにあって、わたしは真実を語り、偽りを言いません。聖霊によって、わたしの良心もわたしに証ししていることですが、2.わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。3.というのは、このわたし自身は、肉によるわたしの同族の兄弟たちのためなら、キリストから離されて、呪われた者となることさえ願っていたのです。4.彼らはイスラエル人です。彼らの、子となる身分も、栄光も、種々の契約も、律法を与えられたのも、神への礼拝も、種々の約束も、5.父祖たちも、彼らに属するものであり、肉によれば、キリストも彼らから出られたのです。このキリストは万物の上におられ、永遠にほめ讃えられるべき神です。アーメン。
6.しかし、神の言葉が効力を失ったというわけでは決してありません。というのは、イスラエルから出た人々がみなイスラエル人なのではなく、7.また、アブラハムの子孫がみな(アブラハムの)子なのではないからです。むしろ、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる』。8.このことはすなわち、肉による子たちが、そのまま神の子なのではなく、むしろ、約束による子たちが子孫と見なされるのです。9.約束の言葉はこうです。『来年の今頃、わたしは来ます。そして、サラにはひとりの男の子がいるでしょう』。
10.それだけではなく、リベカが、一人の人、すなわち、わたしたちの父イサクによって身ごもったときも、11.まだ子供たちが生まれてもおらず、良いことも悪いことも何も行っていないのに、神の選びによる計画が続くよう、12.行いによらず、召しによって、『兄は弟に仕えるであろう』と、彼女に言われたのです。13.『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書かれているとおりです。
14.では、何と言いましょうか。神の側に不正があるのでしょうか。決してそうではありません。15.神はモーセに、『わたしは、憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとする者を慈しむ』と言われました。16.ですから、これは(人の)意志や努力によるのではなく、神の憐れみによるのです。17.聖書はファラオについて、『わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を示すため、また、わたしの名が全地に告げ知られるようになるためである』と言っています。18.それゆえに、神は憐れもうと思う者を憐れみ、かたくなにしようと思う者をかたくなにされるのです。
19.そこで、あなたはわたしに言うでしょう。「[では]なぜ、神は、なおも(人を)責められるのか。神の意志に、だれが逆らい得ようか」と。20.人よ、いや、むしろ、神に言い逆らうあなたは、いったい何者ですか。かたち造られたものが造った者に対し、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。21.それとも、陶器師は、同じ粘土の塊から、一つは尊い器に、また一つは粗末な器に造る権利を持たないのでしょうか。22.神が怒りを表して、その力を知らせようとされるとき、滅びることになっている怒りの器を、大いなる忍耐をもって忍ばれ、23.かつ、栄光にあずからせるため、あらかじめ用意された憐れみの器に、ご自分の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうでしょうか。24.神は、彼らを、またわたしたちを、ユダヤ人たちの中からだけでなく、異邦人たちの中からも召し出してくださったのです。25.ホセアによって言われているように。
『わたしは、わたしの民でない者を、
わたしの民と呼び、
愛されていなかった者を、
愛されている者と呼ぶであろう。
26.彼らは、“あなたがたは、わたしの民ではない”と言われた場所にいて、その所で、生ける神の子たちと呼ばれるであろう。』
27.また、イザヤはイスラエルのために叫んでいます。
『たとえ、イスラエルの子らの数が、
海の砂のようであっても、
残された者が救われるであろう。
28.主はみ言葉を成就するために、
速やかに地の上に行われるであろう。』
29.また、イザヤが以前に言っていたとおりです。
『万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったなら、
わたしたちはソドムのように、
またゴモラのようになっていたであろう。』
30.では何と言いましょうか。義を追い求めなかった異邦人は義、しかも信仰による義を得ました。31.しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、律法(の要求)には達しませんでした。32.なぜでしょうか。信仰によらないで、行いによって達せられるかのように(追い求めていたからです)。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。33.こう書かれているとおりです。

『見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、つまずきの岩を置く。主に信頼する者は、失望させられないであろう。』



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●「自然の中で聴く聖書」ローマの人々への手紙 9章



キリストから離されて、呪われた者となることさえ願っていたのです。(3)
 
「願っていたのです」の動詞は未完了過去形で、過去の継続を表す。そうだとすると、過去にそう願っていた時期もあったという意味に解釈するほうが良いかもしれない。したがって、これが直ちに、「現在の」(この手紙を書いている時の)パウロの気持ちであるというような結論を出すことはできない。


★「神の選びのための計画が続くように」(11)
 ἵνα ἡ κατʼ ἐκλογὴν πρόθεσις τοῦ θεοῦ μένῃ
 
「選びのための計画」と訳する κατʼ ἐκλογὴν πρόθεσιςκατάをどう訳すかで変わり、「選びの計画」「選びによる計画」、いずれにも訳せる。要は、神のイスラエルを選ばれたのは、『神の選び』の故のものであったし、その神の選びによって神の計画は動いてきたということである。その神の選びの基準はどこにあるのか。その答えは、神がモーセに言われた次の言葉にすべて言い表されている。わたしは、憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとする者を慈しむ』(15)『ですから、これは(人の)意志や努力によるのではなく、神の憐れみによるのです』(16)




          古代ローマ遺跡:チルコ・マッシモ。戦車競技場。筆者撮影

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