2016年9月28日水曜日

新約聖書原典「ローマの人々への手紙」3章の翻訳(私訳)

ローマの人々への手紙 

3章


1.では、ユダヤ人の優れた点は何ですか。あるいは、割礼の利点は何ですか。2.それは、いろいろな点で多くあります。先ず、神の言葉が彼らに委ねられたことです。3.これはどういうことでしょうか。彼らの中のある者たちが不信仰だったとしても、その人たちの不信仰が、神の真実を無効にするのでしょうか。4.決してそんなことはありません。すべて人を偽り者としても、神は真実であるとすべきです。
『あなたは自分の言葉によって義とされ、あなたが裁かれるとき、勝利を得るため』と書かれているとおりです。
5.もし、わたしたちの不義が、神の義を立証するのだとすれば、わたしたちは何と言ったらいいか、人間的な言い方をしますが、怒りをもたらす神は正しくないというのでしょうか。6.決してそんなことはありません。もしそうだとすると、神はこの世をどう裁かれるでしょうか。7.もし、神の真実がわたしの虚偽によってご自分の栄光を富ませるなら、どうして、わたしがなお罪人として裁かれるのでしょうか。8.ある人たちは、「善を来たらすために、わたしたちは悪をしようではないか」と、わたしたちが言っているかのように言いふらし、―わたしたちはののしられているようですがー、この人たちが裁かれるのは当然です。
9.すると、どうなのでしょうか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。以前にも言いましたが、ユダヤ人たちも、ギリシア人たちも、みな罪の下にあるのです。10.このように書かれています。
『義人はいない。一人もいない。
11.悟りのある者はいない。
神を求める者はいない。
12.すべての者は迷い出て、
一人残らず無益なものとなった。
善を行う者はいない。
一人も[いない]。
13.彼らののどは、開かれた墓であり、
彼らは自分たちの舌で(人を)欺き、
彼らの唇にはまむしの毒がある。
14.彼らの口は、呪いと苦々しい胆汁とで満ちている。
15.彼らの足は血を流すのに速く、
16.彼らの旅路には破壊と悲惨とがある。
17.そして、彼らは平和の道を知らない。
18.彼らの目には、神への恐れがない。』
19.律法が言うのは、律法に依るところの人々に対して言っているのだということを、わたしたちは知っています。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神によって裁きを受けるためです。20.なぜなら、律法を行うことによっては、すべての肉なるものは、神の御前では義とされないからです。というのは、律法によっては、罪の認識が(生じる)からです。

21.しかし、今、律法とは関係なしに、神の義が律法と預言者たちによって明らかにされ、立証されています。22.すなわち、神の義はイエス・キリストによる信仰をとおして、信じるすべての人々に(与えられます)。そこには差別がありません。23.というのは、すべての人々は罪を犯し、神の栄光に欠乏しているので、24.彼らは、賜物として、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いによって義とされるのです。25.神はご自分の義を示すために、このキリストを、その血による、また信仰による贖いの供え物として提示されました。それは、今まで(人々が)犯してきた数々の罪を無罪放免とするためです。26.それは、今の時に、神の忍耐によって、ご自身の義を示すためでした。すなわち、それは、ご自身が正しい方であること、また、イエスを信じる者を義となさる方であることを示すためだったのです。27.では、(人間の)誇りはどこにあるのでしょうか。(その誇りは人の思いから)閉め出されました。どんな法則によってでしょうか。行いの法則によってでしょうか。そうではなく、信仰の法則によってです。28.なぜなら、人が義とされるのは、律法の行いとは関係なく、信仰によってであるとわたしたちは考えているからです。29.それとも、神は、ユダヤ人たちだけの神でしょうか。異邦人たちの神でもあるのではないでしょうか。そうです。異邦人たちの神でもあられます。30.事実、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、割礼のない者をも信仰によって義とされるのです。31.では、わたしたちは信仰のゆえに、律法を無用にするのでしょうか。決してそんなことはありません。かえって、わたしたちは(信仰のゆえに)律法を確立するのです。



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●「自然の中で聴く聖書」ローマの人々への手紙 3章


★「彼らの道(旅路)」(16)、「律法を行うこと(行い)」(20)はいずれも複数。

★「彼らは平和の道を知らない」(17)太字の動詞は過去形、ゆえに(知らなかった)が正確。

★「律法が言うのは、律法による(依る)ところの人々に対して言っている」(19)
 原語の太字部分は τοῖς ἐν τῷ νόμῳ である。多くの訳は、「律法の下(もと)」と訳しているが、ローマ6:15の「律法の下」(ὑπὸ νόμον) とは表現が異なる。正確には、「律法に依存する」という意味。

★「すべての人々は罪を犯して、神の栄光に欠乏しているので」(23)
太字のギリシア語はὑστεροῦνται 。これは、「欠乏する」「足りない」の意味。主な訳では「神の栄光を受けられなくなっており」であるが、罪の結果、人は神の栄光に窮乏している。(元来は、神の形に似た被造物として、神の栄光を反映する存在であったが、いまでは罪の結果、その栄光が窮乏しているという意味)

★「人が義とされるのは、律法の行いとは無関係に」(28)
 これは、21節の「しかし、今、律法とは関係なしにχωρὶς νόμου の繰り返しで、パウロが最も強調しているテーマである。

μὴ γένοιτο 「決してそうではありません」「決してそんなことにならないように」
この言葉は3章に3回現れる(4.6.31)。コイネーギリシア語新約聖書ではごく稀に現れる希求法と言われる用法。希望や願望を表現するときに使用されるものである。新約聖書では3章以外に数ヵ所に現れるだけである。例えば、ルカ1:38に、「お言葉どおりこの身になりますように」という例がある。ローマ3章に現れるのも同じで、希望、願望をあらわす。このμὴ γένοιτο の訳として、『断じてそうではない』(口語訳)、『決してそうではない』(新共同訳)、『絶対にそんなことはありません』と、いずれも断定否定で訳しているが、いずれも「強い否定を含む願望」であると理解する必要がある。
 


     
          筆者撮影

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