2016年9月22日木曜日

新約聖書原典「ローマの人々への手紙」2章の翻訳(私訳)

ローマの人々への手紙 

2章


1.だから、ああ、すべて(人を)裁く者よ、あなたには弁解の余地がありません。あなたは他人を裁きながら、実は、自分自身に有罪宣告をしているのです。裁くあなたも同じことを行っているからです。2.わたしたちは、神の裁きが、このようなことを行う者たちの上に公平に臨むことを知っています。3.ああ、このようなことを行う者たちを裁きながら、同じことを行っている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思っているのですか。4.それとも、神の慈愛が、あなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。5.あなたの強情さと悔い改めない心のゆえに、あなたは、怒りの日における(神の)怒りと、神の正しい裁きの現れを自分の身に積んでいるのです。6.神は、『それぞれに、その行いに従って報いられる』。7.それにもかかわらず、神は、忍耐をもって良いわざを行い、栄光と誉れと不死を求める人々には永遠の命をお与えになりますが、8.党派心から、真理に聞き従わず、不義に聞き従う者たちには(神の)怒りと憤りをお与えになります。9.苦しみと苦悩は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、悪を行う人間のあらゆる魂に対して臨みますが、10.栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、善を行うすべての人に臨みます。11.神には分け隔てがないからです。
12.律法なしに罪を犯した者たちは、律法なしに滅び、律法があって罪を犯した者たちは、律法によって裁かれるからです。13.律法を聞く人々が、神の御前に義なのではなく、むしろ、律法を行う人々が義と宣言されるのです。14.と言うのは、律法を持たない異邦人が、自然のままで律法の命じることを行っていれば、この人々は、たとえ律法を持たなくても、彼ら自身が自分にとっての律法なのです。15.彼らは、律法の行いが自分たちの心に書かれていることを示し、彼らの良心も共に証しして、(彼らの)判断を互いに訴え、あるいは弁明し合っているのです。16.そのことは、わたしの福音によれば、神が、キリスト・イエスによって、人々の隠れたことを裁かれる日に(明らかにされるでしょう)。

17.もし、あなたがユダヤ人と名乗り、律法を拠り所とし、神を誇りとし、18.御心を知り、律法によって教えられ、(善悪)の違いをわきまえており、19。自分自身を盲人たちの案内者、闇の中の光、20.分別のない者たちの指導者、無学な者たちの教師、律法の中に知識と真理が具体的に形を宿していると自認しているなら、21.どうして、他人を教える者が、自分自身を教えないのですか。『盗むな』と宣べ伝える者が、どうして盗むのですか。22.『姦淫するな』と言う者が、どうして姦淫するのですか。偶像を忌み嫌う者が、どうして宮の物を盗むのですか。23.あなたは律法を誇りとしながら、律法に違反して、神を汚しているのです。24.『神の御名はあなたのゆえに、異邦人たちの間で汚されている』と書かれているとおりです。25.もし、あなたが律法を行っているのなら、割礼は役に立ちます。しかし、もし、あなたが律法の違反者であるなら、あなたの割礼はすでに無割礼となっているのです。26.だから、もし、無割礼の者が律法の規定を守るなら、彼の無割礼は割礼と見なされるのではないでしょうか。27.そして、生まれながらに無割礼である者が律法を守ることによって、律法の文字と割礼がありながら律法に違反しているあなたを裁くのです。28.というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、肉体における外見上の割礼が割礼なのではありません。29.むしろ、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、(律法の)文字ではなく、霊における心の割礼こそが割礼です。ユダヤ人の誉れは人々からではなく、神から来るのです。



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●「自然の中で聴く聖書」ローマの人々への手紙 2章


だから、ああ、すべて(人を)裁く者よあなたには弁解の余地がありません。(1)

1章では、呼びかける対象すべてが複数であったのが、2章は上記の太字ように、すべてが単数となる。そして、その内容は非常に厳しいものとなっている。この単数で呼び掛けられている者とは、1章19節以下で示された「不信心な者」に対する「神の怒り」とは無関係であると自分をみなす明らかに一つのグループ全体の人間の代表である。それは2章の17節にはじめてはっきりと現れるユダヤ人のことである。

★2章全体の要点は、9節~13節で要約することができる。『9.苦しみと苦悩は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、悪を行う人間のあらゆる魂に対して下りますが、10.栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、善を行うすべての人に与えられます。11.神には分け隔てがないからです』。福音の中に示される『神の怒り』も『永遠のいのち』も、実はすべての人間に平等に及び得るもので、それは人間の、悪を行うか、善を行うかにかかっている。神は平等である。

★『律法の下で
『12.律法なしに罪を犯した者は、律法なしに滅び、律法があって罪を犯した者は、律法によって裁かれるからです。』

多くの翻訳は12節の ἐν νόμῳ(エン ノモー) を、『律法の下で』と訳しているが、この訳は『律法に監視されて』というニュアンスを受けやすい。12節の用法は、律法があるかないかの違いを対比している文で、前文のἀνόμως律法なしに』に対比するもの。ちなみに、6:14、15の『律法の下(もと)』は ὑπὸ νόμον(ヒュポ ノモン) である。


          ローマ コロッセオの前で

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