2016年4月14日木曜日

新約聖書原典「コリントの人々への手紙二」12章の翻訳(私訳)

コリントの人々への手紙  

12章


1.有益でないかもしれませんが、わたしは誇らずにはいられないので、主から(与えられた)幻と啓示とについて話をはじめましょう。2.わたしはキリストにある一人の人を知っています。その人は十四年前に、それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかわかりませんが、神はご存知ですが、第三の天にまで連れて行かれました。3.わたしはそういう人のことを知っています。それが体のままであったか、体を離れてであったかはわかりません。神はご存知です。4.その人はパラダイスへ連れて行かれ、人には口にすることが許されていない、言ってはならない言葉を耳にしました。5.こういう人について、わたしは誇りましょう。しかし、わたし自身については、弱さ以外に誇ることはこれからもありません。6.わたしが誇りたくなったとしても、真実を語るのですから、わたしは愚か者とはならないでしょう。でも、わたしは(誇ることは)さし控えます。だれもわたしのことを見たり、わたしから聞いたりする以上に、わたしを過大に評価してはいけません。7.それらの啓示が余りにもすばらしいからです。こういうわけで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられました。それは高慢にならないように、わたしを打つためのサタンの使いなのです。8.このことのために、わたしから離れ去らせてくださるようにと、三度も、わたしは主にお願いしました。9.すると、主がわたしに言われました。「わたしの恵みはあなたには十分である。(わたしの)力は弱さの中に完全に成し遂げられる」。ですから、キリストの力がわたしの上に宿るように、むしろ喜んで大いに自分の弱さを誇りましょう。10.こういうわけで、わたしは、弱さにも、侮辱にも、困窮にも、迫害にも、行き詰まりにも、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしが弱いときにこそ、わたしは強いからです。
11.わたしは愚か者になってしまいました。あなたがたが強いてわたしをそうさせたのです。わたしはあなたがたから推薦してもらのが当然です。わたしが取るに足りない者であったとしても、あの大使徒たちになんら劣ってはいなかったからです。12.(わたしの)使徒としてのしるしは、数々のしるしと不思議と力とによって、忍耐強くあなたがたの間で行われました。13.では、わたし自身があなたがたに負担をかけなかったこと以外に、あなたがたがほかの諸教会よりも劣っていたこととは何ですか。不公正な点については、どうか許してください。
14.知ってのとおり、わたしがあなたがたのところへ行く準備は、これが三度目です。わたしはあなたがたに負担をかけようとしているのではありません。わたしが求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた(自身)だからです。子供たちが親たちに(宝を)蓄えるのではなく、むしろ親たちが子供たちに(宝を)蓄えるべきだからです。15.わたしはこれからも大いに喜んで(宝を)使い、また、あなたがたの魂のために自分をささげ尽くすつもりです。わたしがあなたがたを愛すれば愛するほど、わたしはますます愛されなくなるのでしょうか。16.わたしがあなたがたに負担をかけなかったとしても、わたしは悪賢くあなたがたをだまして(宝を)手に入れたのだということになっています。17.わたしがあなたがたのところへ派遣した人々の中のいったい誰によって、わたしがあなたがたからだまし取ったと言うのでしょうか。18.わたしはテトスに頼んで、一人の兄弟を同行させましたが、そのテトスがあなたがたをだましたのでしょうか。わたしたちは同じ霊によって歩いてきたではありませんか。同じ足跡を歩いてきたではありませんか。
19.あなたがたは、わたしたちが弁明しているのだとずっと思ってきました。神の御前でキリストにあってわたしたちは言います。愛する方々よ、すべてのことはあなたがたを建て上げるためなのです。20.実は、わたしが(そちらに)行ってあなたがたを見るとき、あなたがたが、わたしの期待している人たちではなく、わたしもあなたがたの期待している者ではないのではないかと、わたしは恐れています。争い、ねたみ、怒り、党派心、悪口、陰口、高慢、騒動などがありはしないかと(恐れています)。21.わたしが再び(そちらに)行くとき、わたしの神があなたがたの故に、わたしに恥をかかせることにならないでしょうか。また、以前に罪を犯した人々の多くが、自分たちの行った汚れた行い、みだらな行い、不道徳な生活を悔い改めないでいるのを(見て)わたしが悲しむことにならないでしょうか。



★「それらの啓示があまりにもすばらしいからです」(7)
この一文は「口語訳」では省かれている。写本の違いからであろうか。


★子供たちが親たちに(宝を)蓄えるのではなく、親たちが子供たちに(宝を)蓄えるべきだからです。(14)
唐突に現れた言葉のような印象を持つが、「子供たち」をコリントの教会の信者たち、「親たち」をパウロとその宣教者たちに譬えることで、パウロが決して彼らから物質的、金銭的負担をかけまいとする気持ちを表現しているのである。





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