2016年4月7日木曜日

新約聖書原典「コリントの人々への手紙二」11章の翻訳(私訳)

コリントの人々への手紙  

11章


1.わたしの少しばかりの愚かさを、あなたがたが我慢してくれていればいいのですが。いや、あなたがたは我慢してくれています。2.わたしは神の熱い心をもってあなたがたを熱愛しています。わたしはあなたがたを聖なる乙女として、一人の夫であるキリストに捧げるために婚約させたのです。3.わたしは、へびが、その悪巧みによってエヴァを欺いたように、あなたがたの思いが腐敗し、キリストに対する純真さ[また誠実さ]が損なわれはしないかと心配しています。4.確かにあなたがたは、だれかがやって来て、わたしたちが宣べ伝えてもいない他のイエスを宣べ伝えても、あるいは、あなたがたが受けたことのない別の霊を、あるいは、あなたがたが受け入れたことのない別の福音を受け取っても、よくそれに耐えています。
5.わたしは、(あの)偉大な使徒たちに何ら劣る者ではないと思っています。6.たとえ、言葉の上では素人であっても、知識の上ではそうではありません。むしろ、わたしたちはすべての点で、すべての面であなたがたに明確に示してきました。7.それとも、あなたがたが高められるために、わたし自身、身を低くして、あなたがたに神の福音を無償で宣べ伝えたことで、わたしは罪を犯したのでしょうか。8.わたしはあなたがたに仕えるため、他の教会から奪い取ってまでして報酬を手にしました。9.わたしがあなたがたのところにいて窮乏した時、だれにも負担をかけませんでした。マケドニアから来た兄弟たちが、わたしの窮乏を補ってくれたからです。また、あらゆることで、わたし自身があなたがたの重荷にならないようにしてきましたし、これからもそうしていきます。10.これがわたしの中にあるキリストの真実ですが、わたしにとってのこの誇りは、アカイア地方において封じられることはないでしょう。11.どうしてでしょうか。わたしがあなたがたを愛していないからでしょうか。神はご存知です。
12.わたしが行っていることは、これからも行っていきます。それは、わたしたちと同じように、誇れる機会を見つけようとしている者たちのその機会を取り除くためです。13.こういう者たちは偽りの使徒たち、人をだます者たちであって、キリストの使徒たちを装っているのです。14.驚くには及びません。サタンでさえ、光の天使を装うのです。15.ですから、サタンに仕える者たちが義の奉仕者を装っても大したことではありません。彼らの終わりは彼らの業に即したものとなるでしょう。
16.もう一度言いますが、だれもわたしを愚か者と思わないでください。しかし、もし、愚か者と思うなら、わたしを愚か者として受け入れてください。わたしも少しは誇れるようになるでしょうから。17.わたしが話していることは、主(のみ心)に従ってではなく、むしろ、それによって誇れると確信しているので、愚か者のように話しているのです。18.多くの人々が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにします。19.思慮深いあなたがたですから、喜んで愚か者たちのことを我慢してくれるでしょう。20.事実、あなたがたは奴隷にされても、食いつぶされても、捕らえられても、威張られても、あなたがたの顔を叩かれても、それに耐えているからです。21.言うのも恥ずかしいのですが、わたしたちは弱すぎたのです。
誰かが何かのことで大胆に振る舞うなら、愚か者として言いますが、わたしも大胆に振る舞いましょう。22.彼らはヘブライ人ですか。わたしもそうです。彼らはイスラエル人ですか。わたしもそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。わたしもそうです。23.彼らはキリストの僕ですか。わたしは気が狂ったように言いますが、わたしはそれ以上です。苦労したことは余りにも多く、牢にいたことは余りにも多く、打ち傷を負ったことは数知れず、死に瀕したこともたびたびありました。24.ユダヤ人たちから四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度、25.(ローマ人たちから)杖の鞭で打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、船の遭難が三度、一昼夜、大海原を漂ったこともありました。26.幾度も旅をし、川の危険、盗賊たちからの危険、同胞たちからの危険、異邦人たちからの危険、町での危険、荒野での危険、海上での危険、偽兄弟たちからの危険に遭い、27.労苦し、苦難し、幾度も眠ることができず、飢え渇き、しばしば食べる物もなく、寒さに震え、裸でいたこともありました。28.その上さらに、日々、わたしに迫って来る諸教会のあらゆる心配事があります。29.だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれるでしょうか。だれかがつまずいているのに、わたしも燃え上がらないでおれるでしょうか。30.誇らねばならないのなら、わたしの弱さを誇りましょう。31.主イエスの父でもあられる神、永遠にほめたたえられる方は、わたしが偽りを言っていないことをご存知です。
32.ダマスコで、アレタ王の長官がわたしを捕らえようとダマスコ人たちの町を見張っていた時、33.わたしは窓から壁つたいに籠で吊り下ろされて、彼の手から逃れたのです。




★「わたしの少しばかりの愚かさ」(1)
  μου μικρόν τι ἀφροσύνης

おそらくコリントにやってきたユダイストたちが、パウロを「愚か者」のように吹聴していたのだろう。10章の冒頭の「面と向かってはあなた方の間では腰が低いが、離れているとあなた方に対して気が強くなる」も同様だが、、パウロはこうしたユダイストたちの吹聴を逆手にとって持論を展開するというのがパウロの自己弁護の特徴ともなっている。このことは16節から展開される彼の弁明に一層よく現れ、本当は「愚か者」のように思われたくはないが(16節)、かえってユダイストたちが言うように「愚か者のように」なることでユダイストたちとは違った「誇り」を主張することができた。その誇りとは、ユダイストたちが諸教会を廻ってはその報酬として金銭的要求をしていたのに対し、パウロはコリントの教会の人々のだれにも生活上の金銭的、物質的負担をかけず、無償で福音を宣教したという誇りである(9.10節)。

★「他のイエス」(ἄλλον Ἰησοῦν)と「別の霊」(ἢ πνεῦμα ἕτερον)、「別の福音」(εὐαγγέλιον ἕτερον)について。
「他の」ἄλλονは、同種のものでほかのもの、「別の」ἕτερονは他種のもので種類の異なるもの。ゆえに、「他のイエス」とは、同じイエスでも違ったイメージのイエス、イエスを誤って宣伝すること。「別の霊」、「別の福音」とは、パウロの伝えたのとは異なる、違った霊、違った福音のこと。ユダイストたちが伝えたのはそういうものだった。違った福音についてはガラテヤ1:6の解説を参照。

★「他の諸教会から奪い取ってまでして、報酬を手に入れました」(8)

これもユダイストたちが吹聴したうわさを逆手に取った言い方。

★ユダヤ人から受ける鞭(24)と、ローマ人から受ける鞭(25)

τρὶς ἐρραβδίσθην(枝の鞭で打たれたことが三度)。ここで使われている動詞ῥαβδίζωはローマ人が鞭うちの刑で使用する棒(枝)で作られた鞭のこと。ゆえに原典にはないが(ローマ人たちから)を挿入して訳した。「使徒たちの働き」16:22でパウロがローマ人から鞭打ちの刑に遭っているが、そこでもῥαβδίζω(枝の鞭)が使用されている。「ユダヤ人たちから四十に一つ足りない(鞭を)受けたことが五度」(24)の方では、「鞭」を意味する言葉は原典では使われていないが、「受けた」ということでその言葉自体は省略されている。









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