2012年7月16日月曜日

新約聖書原典「マタイによる福音書」11章の翻訳(私訳)

マタイによる福音書

11章


1.イエスは、ご自分の十二人の弟子たちに命じ終えられると、そこを去り、彼らの町々で教え、宣べ伝えられた。
2.さて、ヨハネは獄中で、キリストの行ったことを聞いて、自分の弟子たちを遣わして、3.イエスに言わせた。「来るべき方はあなたですか。それとも、わたしたちは他の人を待ち望むべきでしょうか」。4.イエスは答えて彼らに言われた。「行って、あなたがたが見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。5.目の見えない人たちは見えるようになり、歩けない人たちは歩いている。重い皮膚病の人たちは清まり、耳の聞こえない人たちは聞いている。また、死者たちは生き返り、貧しい人たちは福音を聞かされている。6.わたしに躓かない者は幸いだ」。
7.さて、ヨハネの弟子たちが行ってしまうと、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは何を見に荒野に出て来たのか。風に揺らぐ葦か。8.では何を見に出て来たのか。柔らかな衣服をまとった人か。見よ、柔らかな衣服を着た人々なら、王たちの家にいる。9.では何を見に出て来たのか。預言者か。そうだ、わたしは言う。預言者以上の者だ。10.これはその人について書かれたものである。
『見よ、わたしはわたしの使いを、あなたの前に遣わす。彼はあなたの前に、あなたの道を備えるであろう。』
11.よく言っておく。女たちの産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大いなる者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。12.バプテスマのヨハネの時から今まで、天の国は激しく襲われ、激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。13.全ての預言者と律法が預言したのは、ヨハネまでである。14.もしあなたがたが受け入れようと望むなら、彼こそが来たらんとするエリヤなのだ。15.耳のある者は聞きなさい。
16.この時代を何に譬えようか。それは、広場に座って他の者たちに呼びかけている子供たちに似ている。17.子供たちは言う。
『私たちが笛を吹いたのに、
あなたたちは踊ってくれなかった。
私たちが弔いの歌をうたったのに、
あなたたちは悲しんでくれなかった。』
18.なぜなら、ヨハネが来て、食べることも飲むこともしないと、『あれは悪魔に取りつかれている』と言い、19.人の子が来て、食べたり飲んだりしていると、『見よ、暴食家、大酒飲み、徴税人たちや罪人たちの仲間だ』と言う。しかし知恵は、その業によって正しいことが証明される」。
20.この時イエスは、ご自分の数々の力あるわざが行われた町々を、責め始められた。彼らが悔い改めなかったからである。21.「悲しいかな、コラジン。悲しいかな、ベトサイダ。もし、おまえたちの中で行われた力あるわざが、ティルスとシドンで行われていたら、とうの昔に彼らは粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたことであろうに。22.しかし、わたしはおまえたちに言う。裁きの日には、おまえたちよりティルスとシドンの方がいっそう耐えられる。23.カファルナウムよ、おまえは天にまで上げられるとでも思うのか。ハデスへ下るのだ。もし、おまえの中で行われた力あるわざが、ソドムで行われたなら、(あの町は)今日まで残ったであろうに。24.しかし、わたしはおまえたちに言う。裁きの日には、おまえたちよりソドムの地の方がいっそう耐えられる」。
25.その時イエスは続けて言われた。「『天と地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者たちや賢い者たちから隠して、これらの幼子たちに現わしてくださいました。26.そうです、父よ、これはあなたの御前に御心にかなったことでした』。27.全てのことは、わたしの父から授かった。子をよく知る者は、父のほかには誰もいなく、また、父をよく知る者は、子と、子が現わそうとする者のほかには誰もいない。

28.誰でも疲れている者たち、重荷を負わされている者たちは、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう。29.わたしは柔和で心のへりくだった者だから、わたしのくびきをあなたがたの上に負って、わたしから学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みを見出すだろう。30.わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

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●「自然の中で聴く聖書」マタイによる福音書  11章

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μὴ ἕως οὐρανοῦ ὑψωθήσῃ; ἕως ᾅδου καταβήσῃ (23)

「お前は天にまで上げられるといでも(思っているのか)。ハデス(死)へ下るのだ」
ᾅδου(ハドゥー) は「地獄」や「黄泉」「陰府」とも訳されることが多いが、現実の場所を意味するものではなく、おそらく当時一般によく知られたギリシャ神話の言葉から来たものかも知れない。前半で、イエスは「お前は天にまで上げられるὑψωθήσῃ:受動態)とでも思っているのか」と言われた。この「天」と対をなす意味で ᾅδου が使われており、死者の眠るところ「墓」、ないしは「命」に対し単純に「死」を意味するものと考えられる。「上げられる」と「下る」も同様に一対をなす。
 
οἱ κοπιῶντες καὶ πεφορτισμένοι  (28)
「疲れている人たち、重荷を負わされている人たち
 
28は有名な言葉である。そのために、「重荷を負って疲れている人たち」のように、自分で自ら重荷を抱えこんでいる人々かのような誤解を与えかねない。イエスはここではっきりと「重荷を負わされている人々」(ずっと荷を負わされっぱなしの人たち/新約聖書ギリシア語辞典=織田 昭)に対して語られている。πεφορτισμένοι(ペフォルティスメノイ) という言葉が受動態、分詞、完了の形を取っていることからそれがわかるのである。重荷はこの場合罪を象徴している。罪は人間にとって自分の意思とは関係なしに入り込んでくるもので(ローマ7:20)、まさにそれは「負わされている」としか言いようのないものでもある。
 
ἄρατε τὸν ζυγόν μου ἐφʼ ὑμᾶς καὶ μάθετε ἀπʼ ἐμοῦ (29)

「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」

前半は直訳すると、「あなたの上に(ἐφʼ ὑμᾶς )くびきを持ち上げて」となる。ζυγόν(ズゴン・くびき)は、牛などの家畜に荷を引かせる時の道具である。これを牛の首にかけて重い荷を引かせると牛の負担を減らすのに役立つことから、イエスはこの比喩を用いられたのである。その他「天秤、計り」の意味も持つ。




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