2010年2月26日金曜日

新約聖書原典「ヨハネによる福音書」5章の翻訳(私訳)

ヨハネによる福音書 

5章


1.これらの後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。
2.さて、エルサレムには羊の門のそばに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる五つの柱廊をもつ池があった。3.それらの柱廊に、目の見えない人、足の萎えた人、中風の人たちなど、大勢の病気の人たちが身を横たえていた。5.さて、そこに三十八年も病気を持った人がいた。6.イエスは、この身を横たえている人をご覧になり、すでに長い間、病気でいるのを知って彼に言われた。「良くなりたいか」。7.この病気の人がイエスに答えた。「主よ、水が動く時に、わたしを池に入れてくれる人がいないのです。わたしが入って行こうとすると、ほかの人がわたしより先に降りて行くのです」。8.イエスは彼に言われた。「起きて、あなたの床を取り上げて歩きなさい」。9.すると、この人はたちまち良くなり、自分の床を取り上げて歩いた。
その日は安息日であった。10.そこでユダヤ人たちが、この癒された人に言った。「今日は安息日だ。だから、おまえの床を取り上げるのはよくない」。11.しかし、その人は彼らに答えた。「わたしを癒してくださったあの方が、わたしに言われたのです。『あなたの床を取り上げて歩きなさい』と」。12.彼らはその人に尋ねた。「おまえに『床を取り上げて歩きなさい』と言った人とは誰か」。13.しかし、癒された人は、その人が誰であるか知らなかった。何故なら、イエスは群衆がその場所にいる間に、(彼らの中から)そっと出て行かれたからである。14.その後、イエスは神殿の庭でこの人に出会われて、彼に言われた。「ごらん。あなたは良くなった。もう罪を犯さないように。もっと悪いことが起こるといけないから」。15.この人は立ち去り、自分を癒してくださった方がイエスであることをユダヤ人たちに告げ知らせた。16.このことでユダヤ人たちは、イエスを迫害するようになった。これらの事を、イエスが安息日に行われたからである。
17.イエスは彼らにお答えになった。「わたしの父は今に至るまで働いておられる。だからわたしも働くのである」。18.このことのゆえに、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと図るようになった。なぜなら、安息日を破っただけでなく、神を自分の父と言い、自分を神と等しくしたからである。
19.そこでイエスは答えて彼らに言われた。「わたしは心をこめてあなたがたに言う。子は父のなさることを見てするのでなければ、自分からは何もできない。だから、その方がなさることは、子もそれと同じようにするのである。20.父は子を愛しておられるので、父がなさることはすべて、子に示される。またあなたがたが驚くような、これより更に大きな業を子に示されるだろう。21.父が死者たちをよみがえらせ、命を与えるのと同じように、こうして子もまた与えようと望む人々に命を与える。22.だから、父は誰をも裁かれない。しかし、裁きのことはすべて子に委ねられた。23.それは、すべての人たちが、父を敬うように子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子を遣わされた父をも敬わない。
24.わたしは心をこめてあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は永遠の命を持ち、また裁きに遭うことがないばかりか、死から命に移っているのである。25.わたしは心をこめてあなたがたに言っておく。死んだ人々が神の子の声を聞く時が来ている。今がその時である。そして聞いた人々は生きるだろう。26.なぜなら、父がご自分の内に命を持っておられるのと同じように、子にも自分の内に命を持つことを許されたからである。27.また、裁きを行う権威も子にお与えになった。なぜなら、彼は人の子だからである。28.このことで驚いてはならない。墓の中にいる者たちがみな、彼の声を聞く時が来るからである。29.すなわち、善を行った人々は、命に甦るために(墓から)出てくるが、悪を行った者たちは裁きに甦るために出てくるだろう。
30.わたしは自分からは何もできない。(父から)聞くままに裁くのである。そして、わたしの裁きは義しい。なぜなら、わたしは自分の思いを求めているのではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めているからである。
31.もしわたしが、自分自身のことを証しするなら、わたしの証しは真実ではない。32.わたしについて証しなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについて証しなさるその証しが真実であることをわたしは知っている。33.あなたがたはヨハネのもとに(人を)遣わしたが、彼は真理について証しした。34.しかしわたしは、人からの証しを受け入れない。けれどもわたしは、あなたがたが救われるためにこう言うのである。35.その人ヨハネは、燃えて輝く灯りであった。あなたがたは、彼の光によってしばらくの間、喜び楽しもうとした。
36.しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる更に大いなる証しがある。父が成し遂げるようにとわたしに委ねられた業、すなわちわたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。37.わたしを遣わされた父、その方がわたしについて証ししてくださっている。あなたがたは、その声を未だかつて聞いたこともなければ、その姿を見たこともない。38.また、あなたがたは、父の言葉を自分の内に持ち留めてはいない。その方がお遣わしになったその者を、あなたがたが信じないからである。39.あなたがたは聖書を調べ、それらの中に永遠の命があると思っている。しかし、聖書はわたしについて証しするものである。40.それなのに、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとに来ようとはしない。
41.わたしは人からの賞賛を受けない。42.それだけでなく、わたしはあなたがたの内に神の愛がないのを知っている。43.わたしが自分の父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受け入れない。もしほかの人が自分の名で来たなら、あなたがたはその人を受け入れるだろう。44お互いの賞賛は受け入れ、唯一の神からの賞賛を求めないのに、どうしてあなたがたは(わたしを)信じることができるだろうか。

45.わたしが父にあなたがたを訴えるだろうと思ってはならない。あなたがたを訴えるのは、あなたがたが望みとしてきたモーセである。46.もし、あなたがたがモーセを信じたなら、わたしをも信じただろう。なぜなら、その人はわたしについて書き記したからである。47.しかしもし、その人が書いたことを信じないなら、どうしてわたしのこれらの言葉が信じられるだろうか」。

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●「自然の中で聴く聖書」ヨハネによる福音書 5章


κολυμβήθρα πέντε στοας έχουσα (2)
「五つの柱廊を持つ池」

「柱廊」στοας(ストアス)とは、「一面が列柱によって支えられた長い建物」で、列柱に支えられた側は広場に面し、ここで人々は陽光や微風を楽しみながら集まって談合した。ギリシアの町々にはこのような建物がいくつもあり、柱廊の奥は商店街にもなっていた。アテネやコリントの市場にはこのような建物がいくつもあったことが知られている(新約聖書ギリシア語小辞典・織田 昭 編 参照)。ヨハネ5章2節の「池」κολυμβήθρα(コルンベートラ)は、水に浸れるような池、泳げる場所。



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