2013年7月12日金曜日

新約聖書原典「ルカによる福音書」8章の翻訳(私訳)

ルカによる福音書 

8章


1.その後すぐ、イエスは町ごとに村ごとに、神の国を告げ知らせ、宣べ伝えながら巡回しておられた。十二人の弟子たちも一緒であった。2.またある婦人たち、すなわち悪霊どもや病気などから癒された人たちで、七つの悪霊を追い出されたマグダラと呼ばれるマリア、3.またヘロデの家令クーザの妻ヨハンナ、それにスサンナ、そのほか大勢の婦人たちもいた。彼女たちはみな自分たちの持ち物によって彼らに仕えていた。
4.方々の町から大勢の群衆が集まってきたので、イエスは譬えでお話しになった。5.種をまく人が種まきに出掛けた。種をまいていると、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥たちがそれを食べてしまった。6.またほかの種は岩地に落ちた。すると生え出たが、水分がないために枯れてしまった。7.またほかの種は茨の中に落ちた。すると茨も一緒に成長しそれをふさいで枯らしてしまった。8.またほかの種は良い地に落ち、成長して百倍の実を結んだ」。こう言って大声で言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい」。
9.そこで弟子たちがイエスに、「この譬えはどういう意味ですか」と尋ねると、10.イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されている。しかし、ほかの人々には譬えで語る。
『彼らは見ているけれど見ようとせず、
聞いているけれど知ろうとしない』
からだ。
11.譬えの意味はこうである。種は神の言葉である。12.道端にまかれたものとは、(御言葉を)聞く人たちのことであるが、そのあと悪魔が来て、彼らが信じて救われないように、彼らの心から御言葉を取り上げてしまう。13.岩地に落ちたものとは、御言葉を聞くとそれを喜んで受け入れる人たちのことであるが、根がないので、しばらくの間は信じていても、試練の時が来ると離れ去ってしまう。14.茨の中に落ちたものとは、(御言葉を)聞く人たちのことであるが、富の心配と快楽の生活によって歩んでいるので(御言葉が)覆いふさがれ、実を結ぶまでには至らない。15.他方、良い地に落ちたものとは、きれいな良い心で御言葉を聞く人たちのことで、それをしっかりと守り忍耐をもって実を結ぶのである。
16.だれも明かりをともして、器具でそれを覆ったり寝台の下に置いたりする人はいない。むしろ(家に)入って来る人々に光が見えるように、燭台の上に置くのである。17.だから、隠れているもので明らかにならないものはなく、秘密にされているもので知られず、明るみに出ないものはない。
18.だから、あなたがたはどのように聞くのか注意を払いなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思うものまでもその人から取り上げられるからである」。
19.さて、イエスのところに母と兄弟たちがやって来たが、群衆のため彼らはイエスに近寄ることができなかった。20.そこでイエスに、「あなたの母上と兄弟たちがあなたに会いたいと、外に立っておられます」と伝えられた。21.しかし、イエスは答えて彼らに言われた。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神の言葉を聞いて行う者たちのことである」。
22.ある日のこと、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り、彼らに「湖の向こう側へ行こう」と言われたので、彼らは出発した。23.一行が舟で渡っているとき、イエスは眠ってしまわれた。すると突風が湖に吹き降りて来て、舟が水浸しになり危険になった。24.弟子たちはイエスに近寄って起こし、「先生、先生、わたしたちは死にそうです」と言った。イエスは目を覚まし、風と荒波とを叱られた。すると止んで凪になった。25.イエスは彼らに言われた。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」。彼らは驚き恐れて互いに言った。「この方は一体どなただろう。風にも水にもお命じになると、この方に従うとは」。
26.そして彼らは、ガリラヤの反対側にあるゲラサの地へ渡った。27.イエスが陸に上がられると、この町の者で悪霊にとりつかれている男に出会われた。この男は長い間、衣服を着ず、また家にも住まず、墓場に住んでいた。28.しかしイエスを見て叫びながらひれ伏し、大声で言った。「いと高き神の子イエスよ、わたしとあなたと何の関わりがありますか。お願いだから、わたしを苦しめないでください」。29.それはイエスが汚れた霊に「この人から出るように」と命じられたからである。度々、汚れた霊が彼を捕らえていたので、彼は鎖や足かせにつながれて監視されていたが、鎖を引きちぎり悪霊によって荒野へ追いやられていたのである。30.イエスが彼に、「名前は何と言うのか」とお尋ねになると、彼は「レギオンです」と言った。大勢の悪霊が彼の中に入り込んでいたからである。31.そして悪霊どもはイエスに、自分たちを「底なしの淵へ行けと命じないでください」と懇願した。32.ところで、そのあたりには山で飼われている多くの豚の群れがいた。悪霊どもはイエスに、それらの中に入って行くことを許してくださるようにと願ったので、イエスはそれを許された。33.悪霊どもはその人から出て行き、それらの豚の中へ入った。すると、豚の群れは崖に沿って湖に向かってなだれ込み、水死してしまった。
34.飼育人たちはこの出来事を見て逃げて行き、町や村々に行って知らせた。35.人々はこの出来事を見ようと出て来てイエスのところに来たが、悪霊どもを出された人が衣服を着て正気になってイエスの足もとに座っているのを見て恐れた。36.これを見た人たちは、悪霊にとりつかれた人がどのように救われたかを人々に知らせた。37.ゲラサ地方の住民はみな、自分たちの所から出て行ってほしいとイエスに懇願した。なぜなら、彼らは非常な恐れを抱いていたからである。そこで、イエスは舟に乗って帰られた。38.ところが、悪霊どもを追い出してもらった男の人が、イエスにお供をしたいとしきりに願ったが、イエスはこう言って彼を帰された。39.「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをなしてくださったかを語って聞かせなさい」。そこで彼は町中に出て行って、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを告げ知らせた。

40.イエスが帰られると、群衆は喜んでイエスを迎えた。彼らは皆、イエスを待ち望んでいたからである。41.すると、見よ、ヤイロという名の男の人が来た。この人は会堂司であった。彼はイエスの足もとにひれ伏し、イエスに自分の家に来ていただきたいと懇願した。42.なぜなら、彼に十二歳位の一人娘がいたが、この少女が死にかけていたからである。しかし、イエスがそこに向かわれる途中、群衆がイエスに押し寄せ、息もできないほどであった。43.さて、ここに十二年間も血の流出を患っている婦人がいた。彼女は[医者たちに全財産を使い果たしたが]誰からも治してもらうことができなかった。44.彼女は後ろからイエスに近づき、その衣の裾のふさに触れた。するとすぐに、彼女の出血が止まった。45.するとイエスは言われた。「わたしに触れたのは誰か」。みんなの者が否定すると、ペトロが言った。「先生、群衆があなたに押し迫って、ひしめき合っているのです」。46.しかしイエスは言われた。「誰かがわたしに触れた。わたしから力が出て行くのがわかったからだ」。47.婦人は隠れていることができないと分かって、震えながら出てきてイエスにひれ伏し、イエスに触れた訳と、たちどころに癒されたこととを全ての民衆の前で告白した。48.そこでイエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのだ。安心して行きなさい」。49.イエスがまだ話しておられると、会堂司の家から人が来て、「あなたのお嬢様は亡くなられました。先生を煩わせるには及びません」と言った。50.イエスはこれを聞いて、会堂司に言われた。「恐れてはならない、ただ信じなさい。娘は助かるのだ」。51.イエスは家に行かれたが、ペトロとヨハネとヤコブ、そして少女の父と母の他は、誰もご自分と一緒に家に入るのをお許しにならなかった。52.皆は、娘のことで泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな、娘は死んだのではなく、眠っているのだ」。53.人々は娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。54.イエスは娘の手をしっかりと握り、声を上げて言われた。「少女よ、起きなさい」。55.すると娘の息が戻り、すぐに起き上がった。イエスは娘に食事を与えるようにお命じになった。56.娘の両親は大いに驚いた。しかしイエスは、この事を誰にも言わないようにと両親にお命じになった。






ὃς ἂν γὰρ ἔχῃ, δοθήσεται αὐτῷ· καὶ ὃς ἂν μὴ ἔχῃ, καὶ ὃ δοκεῖ ἔχειν ἀρθήσεται ἀπʼ αὐτοῦ (18)

持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思うものまでその人から取り上げられるだろう」(18)

イエスは種まきの譬えを使って「神の国の奥義」を話された。18節はその譬えの解き明かしの最後の結論と言うべき言葉である。神の国の真理の種は「どのように聞くか」で結果が違ってくる。実際持っている者と、持っていると思う者の違いは大きい。

★「イエスがそこに向かわれる途中、群衆がイエスに押し寄せ、息もできないほどであった」(42)
  「押し寄せ、息もできないほどであった」を意味する原語は συμπνίγω(シュンプニゴー)。一種の誇張表現で「押し合いへし合い」の意味があり、ため息もできないありさまを表現したもの(新約聖書ギリシア語小辞典ー織田 昭 編)

καὶ ἐπέστρεψεν τὸ πνεῦμα αὐτῆς (55)
すると娘の息が戻り」(55)

多くの訳では「娘の霊が戻り」となっているが、τὸ πνεῦμα はそれ以外にも「いのち」とか「息」という意味がある。例えばマタイ27:50では、同じ言葉を「イエスは息を引き取られた」(口語訳、新共同訳、新改訳)、のように「息」と訳しており、「いのち」と同義である。55節も上記のように「息が戻り」または「いのちが戻り」と訳すべきであろう。




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