2012年10月12日金曜日

新約聖書原典「マタイによる福音書」16章の翻訳(私訳)

マタイによる福音書 

16章


1.ファリサイ派の人々と、サドカイ派の人々がイエスに近づいて来て、イエスを試そうとして、「天からのしるしを自分たちに見せていただきたい」と願った。2.そこで、イエスは答えて彼らに言われた。[「あなたがたは、夕方となって空が真っ赤だと『晴れだ』と言い、3.早朝に空が赤く曇っていると『今日は嵐だ』と言う。あなたがたは、空模様を見分けられるのに、時のしるしを見分けられないのか。]4.邪悪で背信の時代はしるしを求める。しかし、ヨナのしるし以外には、この時代にしるしは与えられないだろう」。そして、イエスは彼らを残して立ち去られた。
5.弟子たちも(湖の)向こう岸へ行ったが、パンを持って来るのを忘れた。6.そこでイエスは弟子たちに言われた。「ファリサイ派の人々と、サドカイ派の人々のパン種に注意し警戒しなさい」。7.弟子たちは、「これは、自分たちがパンを持って来なかったからだ」と言って、互いに論じ始めた。8.イエスはそれに気づいて言われた。「信仰のうすい者たちよ、パンを持っていないことで、なぜ論じ合っているのか。9.まだ分からないのか。五つのパンを五千人に配って、(余ったかけらを)いく籠集めたか思い出さないのか。10.また、七つのパンを四千人に配って、(余ったかけらを)いく籠集めたか思い出さないのか。11.わたしがパンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。しかし、あなたがたはファリサイ派の人々とサドカイ派の人々のパン種に警戒しなさい」。12.その時、弟子たちはイエスがパンの種のことを警戒するように言われたのではなく、「ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えに警戒しなさい」と言われたのだと悟った。
13.さて、イエスはフィリポ・カイサリア地方へ行かれたとき、弟子たちに、「人々は人の子を誰だと言っているか」と言ってお尋ねになった。14.そこで彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人々、ほかにエリヤだと言う人々、またほかにエレミヤ又は預言者の一人だと言う人々もいます」。15.イエスは、彼らに言われた。「それでは、あなたがたはわたしを誰だと言うか」。16.シモン・ペトロが答えて言った。「あなたは生ける神の子キリストです」。17.イエスは答えて彼に言われた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。これをあなたに現わされたのは、肉と血ではなく、天におられるわたしの父である。18.わたしもあなたに言う。あなたはペトロである。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てよう。ハデスの扉も彼女に打ち勝つことはできない。19.わたしはあなたに天の国の鍵を与えよう。あなたが地上でつなぐことは天でもつながれ、地上で解くことは天でも解かれるだろう」。20.その時イエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることを、誰にも言わないようにとお命じになった。
21.この時から、イエスは、ご自分が必ずエルサレムへ行き、長老たちや祭司長たち、律法学者たちからも多くの苦しみを受け、そして殺され、三日目に甦るべきことを、弟子たちに示し始められた。22.すると、ペトロがイエスを脇に引き寄せ、いさめ始めて、「主よ、とんでもないことです。そんなことは決してありません」と言った。23.しかし、イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタンよ、引きさがれ。わたしを躓かせる者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。

24.それからイエスは、ご自分の弟子たちに言われた。「誰でも、わたしについて来たいと思うなら、自分を否定し、自分の十字架を負うてわたしに従いなさい。25.自分の命を救おうとする者はそれを失い、わたしの為に自分の命を失う者は、それを得るだろう。26.たとえ人が全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得になるだろうか。あるいは、人は自分の命を買い戻すのに、どんな代価を払えるだろうか。27.人の子は、その父の栄光の内に天使たちと共に来ようとしているが、その時、その行いに応じてそれぞれに報いるだろう。28.あなたがたによく言っておくが、ここに立っている者たちの中に、人の子が王として来るのを見るまでは、決して死を経験しない者たちがいる。」

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●「自然の中で聴く聖書」マタイによる福音書 16章



πόσους κοφίνους ἐλάβετε; (9)   「(余ったかけらを)幾籠集めたか」    
     πόσας σπυρίδας ἐλάβετε; (10)   「(余ったかけらを)大籠でいくつ集めたか」
  9節の κοφίνους も、10節の σπυρίδας も「籠」という意味では同じであるが、10節の σπυρίδας は9節の κοφίνους に比べ大型の籠を意味する。      

ἠρώτα τοὺς μαθητὰς αὐτοῦ λέγων· τίνα λέγουσιν οἱ ἄνθρωποι εἶναι τὸν υἱὸν τοῦ ἀνθρώπου; (13) 
イエスはご自分の弟子たちに繰り返し尋ねて(尋ね始めて)言った。「人々は人の子について誰だと言っているか」     上記はイエスが弟子たちと共にフィリポ・カイザリア地方へ行かれた時に、弟子たちに尋ねられた質問である。しかしこの問いかけが何度か繰り返して行われたか、または尋ね始められた事が、ἠρώτα(エーロータ・ἐρωτάω ”尋ねる”の未完了過去形)が使われていることから分かる。ギリシア語で未完了過去は、過去における動作の継続、反復、または開始を意味するからである。
       
σὺ εἶ Πέτρος, καὶ ἐπὶ ταύτῃ τῇ πέτρᾳ οἰκοδομήσω μου τὴν ἐκκλησίαν καὶ πύλαι ᾅδου οὐ κατισχύσουσιν αὐτῆς(18)
「あなたはペトロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てよう。ハデスの扉も彼女に打ち勝てないだろう」

18節は鍵を与えられたペトロの「権威」の問題に関して、これまで論争を生じさせる部分となって来た。Πέτρος(ペトロス) は確かに「岩」を意味するが、これは明らかに男性名詞としての岩である。次の ταύτῃ τῇ πέτρᾳ (ペトラ)「この岩」は女性名詞の岩であって、文法上、ペトロを指し示すものではない事は明白である。では女性名詞として、「この岩」が特定された使い方をしているのは、その上に建てられることになっている τὴν ἐκκλησίαν (教会)が女性名詞であることによるのかも知れない。従って、
ταύτῃ τῇ πέτρᾳ (ペトラ)「この岩」は教会の頭であり土台であるキリストを意味すると考えられる。これは16節のペトロの告白 「あなたこそ生ける神の子キリストです」という文脈の中で理解しなければならない。なお、「ハデスの扉」または「死の世界の扉」という表現は、「生」から断絶する「死」の拘束力を指すヘブライ的比喩的表現か(ヨブ38:17、イザヤ38:10参照)。

οἵτινες οὐ μὴ γεύσωνται (28)
「決して死を経験しない人たちが…いる」

上記は明らかに死を経験(ヘブライ的表現)しない人たちが一人ではなく、複数いる事を示している。キリストによって永遠の命が約束された者たちのことであろうか。
 



 

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