2010年7月19日月曜日

新約聖書原典「ヨハネによる福音書」13章の翻訳(私訳)

ヨハネによる福音書 

13章


1.過越祭の前、イエスは、この世を離れ去って父のところに行くべきご自分の時が来たことを知って、世にいるご自分の者たちを愛し、彼らを最後まで愛された。2.夕食となり、悪魔はすでにイスカリオテのシモンの子ユダの心に、イエスを引き渡そうとする思いを入れていた。3.父が全てのものをご自分の手にお与えになり、また、神のもとから出て来て、また神のもとへ去って行こうとしていることを知って、4.イエスは夕食の席から立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰に巻き、5.それから、洗い桶に水を入れて弟子たちの足を洗って、腰に巻かれた手ぬぐいで拭きはじめられた。6.さて、シモン・ペトロのところに来られたので、彼はイエスに言った。「主よ、あなたがわたしの足を洗われるのですか」。7.イエスは答えて彼に言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにわからないが、あとでわかるようになる」。8.ペトロがイエスに言った。「決していつまでも、わたしの足を洗わないでください」。イエスは彼に答えられた。「もし、わたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしと何の関わりもなくなる」。9.シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、わたしの足だけでなく、手も、頭も」。10.イエスは彼に言われた。「既に洗った者は、足のほかは洗う必要がない。その人は全身が清いのだから。あなたがたは清い。しかし皆がそうなのではない」。11.イエスはご自分を引き渡そうとしている者を知っておられた。だから、「あなたがたすべての者が清いのではない」と言われたのである。
12.さて、弟子たちの足を洗い終わって、イエスは上着を着て再び食事の席についたとき、彼らに言われた。「わたしが、あなたがたにしたことがわかるか。13.あなたがたは、わたしを先生、また、主と呼んでいる。あなたがたがそう言うのは正しい。わたしはそうだからである。14.そこで、主であり、先生であるわたしが、あなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いの足を洗い合うべきである。15.わたしがあなたがたにしたように、あなたがたもするようにと、わたしはあなたがたに模範を示したのである。16.わたしは心をこめてあなたがたに言う。僕はその主人に優る者ではなく、遣わされた者は彼を遣わした方に優る者ではない。17.もし、そのことがわかっていて、これらのことを行うなら、あなたがたは幸いである。
18.わたしはあなたがたすべての者について言っているのではない。わたしはどのような者たちを選び出したかを知っている。しかしそれは『わたしのパンを食べている者が、わたしに対して、そのかかとを上げた』という聖書の言葉が成就されるためである。19.そのことが起こる前に、今からわたしはあなたがたに言っておく。それが起こった時に、わたしがそれであることを、あなたがたが信じるようになるためである。20.わたしは心をこめてあなたがたに言う。わたしが遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」。
21.こう言われて、イエスはこころを騒がし、証言して言われた。「よくあなたがたに言っておくが、あなたがたの中の一人が、わたしを引き渡そうとしている」。22.弟子たちは、誰の事を言っておられるのか、当惑しながら互いに見つめ合った。23.弟子たちの中の一人で、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で食卓に寄りかかって座っていた。24.そこでシモン・ペトロがこの弟子に、その人が誰なのか、誰の事を言っておられるのか尋ねるよう合図した。25.するとその弟子は、イエスの胸の方に向き直って言った。「主よ、それは誰のことですか」。26.イエスは答えられた。「わたしが一切れのパンを浸して彼に与える、それがその人である」。そこでイエスは一切れのパンを[取り、]浸してから、イスカリオテのシモンの子ユダに与えられた。27.その時、一切れのパンと共に、サタンがその人の中に入った。そこで、イエスが彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、急いでしなさい」28.食卓についている者たちは誰も、なぜイエスが彼にこう言われたのか理解できなかった。29.ある弟子たちは、ユダが金入れを保管していたので、イエスが彼に「祭りに必要なものを買いなさい」とか、「貧しい人々に何か施すように」と言われたのだと思った。30.するとその人は、一切れのパンを受け取るとすぐに出て行った。夜のことであった。
31.さて、彼が出て行った時、イエスは言われた。「今、人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった。32[神が彼によって栄光を受けられたのであれば]、神もご自身によって、彼に栄光をお与えになるだろう。すぐにも彼に栄光をお与えになるだろう。33.子たちよ、わたしは、今しばらくはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。わたしがユダヤ人たちに『わたしが行く所に、あなたがたは来ることができない』と言ったように、今、あなたがたにも言っておく。34.わたしは新しい戒めをあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35.互いの間に愛があるならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、多くの人たちが知るようになるのである」。

36.シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ去って行かれるのですか」。イエスが[彼に]答えられた。「わたしが去って行くところに今はついて来ることはできないが、あとでついて来ることになる」。37.ペトロがイエスに言った。「主よ、どうして今はあなたについて行くことができないのですか。あなたの為ならわたしの命を投げ出します」。38.イエスが答えられた。「わたしの為にあなたの命を投げ出すのか。よくよく言っておくが、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。


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●「自然の中で聴く聖書」ヨハネによる福音書 13章


★「イエスはこころを騒がし」(21)
   εταράχθη  τω  πνεύματι (エタラクテー トー プニューマティ)

12章27節において、「わたしのこころは騒いでいる」を取り上げて説明したが、ここで使われている「騒ぐ」のギリシア語は12:27のそれと同じ。違いは「こころ」に使われているギリシア語である。12:27では ψυχή(プシュケー)だが、ここでは πνεύμα(プニューマ)である。ここで両者の違いを述べておこう。新約聖書ギリシア語小辞典(織田 昭・編)の解説がわかりやすいので紹介しておきます。
ψυχή」(プシュケー)は肉的人間の主体であり、人格の中心部分、自己、自我を形成するものであって、思考し、情緒を感じ、意思し、行動する主体である。それは心理学の研究対象となるものである。それは思想を生み、美を理解し、文化を生み出す主体であるが、聖書的立場から見れば、『肉』であって、必ずしも人間を(本来の)人間とする『神のかたち』ではない。それらの能力は甚だしい程度の差はあっても、動物にも備わっているものであろう。
これに対して「πνεύμα (プニューマ)は人にだけ備わっているもので、人を本当に人とし、神のかたちに造られた人間の本質的部分である。πνεύμα(プニューマ)は ψυχή(プシュケー)を離れて存在しないが、それの内奥にあって人を本当に人として生きさせる可能性である。πνεύμαとは、すなわち『神を知る能力』であり、『神と交わり、神の愛を喜ぶことができる能力』言い換えれば、生きておられる神と『あなたとわたし』という人格的関係に立つことができる能力である。」
この意味から解釈すると、21節の「イエスはこころを騒がし」は、ユダの裏切り~十字架という「父と子の関係が絶たれるほどの」恐怖の念を抱いて耐えておられるイエスの心中を読み取ることができる。

★34節を原文どおりに訳すと次のようになる。
「わたしは新しい戒めをあなたがたに与える。それはあなたがたが互いに愛し合うためです。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたもまた、互いに愛し合うためです」

Ἐντολὴν καινὴν δίδωμι ὑμῖν, ἵνα ἀγαπᾶτε ἀλλήλους, καθὼς ἠγάπησα ὑμᾶς ἵνα καὶ ὑμεῖς ἀγαπᾶτε ἀλλήλους.(34)

上の原文中には「あなた方は互いに愛し合いなさい」という命令形では書かれていない。ただ掟を与える理由(ἵνα ἀγαπᾶτε 愛するため)が述べられているだけで、(愛しなさい)とは述べれれていない。しかし、後半の(καθὼς ἠγάπησα ὑμᾶς わたしがあなた方を愛したように)、また、35節の(ἐὰν ἀγάπην ἔχητε ἐν ἀλλήλοιςもしあなた方が互いに愛し合うならば)という文脈から、(愛することへのイエスの願い)が表わされている。したがって、34節は「あなたがたもまた互いに愛し合いなさい」と訳すことが許されるであろう。34節で使われている(ἵνα ἀγαπᾶτε )(ἵνα καὶ ὑμεῖς ἀγαπᾶτε )と同様の使用例では、エフェソ5:33( γυνὴ ἵνα φοβῆται τὸν ἄνδρα.妻も夫を敬いなさい)があり、ここも命令形として訳されている事に注意。34は新共同訳、口語訳、新改訳はいずれも「愛し合いなさい」と命令形で訳していることも参照。

★27節後半は、λέγει οὖν αὐτῷ ὁ Ἰησοῦς· ὃ ποιεῖς ποίησον τάχιον. (するとイエスが彼に言われた。「あなたがしていることを、急いでしなさい」)である。ここで使われているὃ ποιεῖς あなたがしていること)は現在形が使われており、これからしようとすることではなく、現在すでにその行為が行われていることであり、「あなたが行いつつあることを、急いでしなさい」という意味である。新共同訳、口語訳、新改訳共に「あなたが(これから)しようとしていること」と訳しているが、原文には「あなたが(今)していること」のニュアンスがあることに注意。これはマタイ25:14~16、マルコ14:10~11、ルカ22:3~6とも整合性があるのではないだろうか。ユダは事実すでにイエスを裏切っていたのである。




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