2010年6月16日水曜日

新約聖書原典「ヨハネによる福音書」12章の翻訳(私訳)

ヨハネによる福音書 

12章


1.さてイエスは、過越祭の六日前にベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者たちの中からよみがえらせたラザロがいた。2.そこで姉妹たちはイエスのために食事を作り、マルタは給仕をしていた。ラザロはひとり、イエスと一緒に食卓についている人たちの中にいた。
3.するとマリアは、純粋で高価なナルドの香油一リトラ《重さの単位で約326グラム》を携えて来てイエスの両足に塗り、自分の髪でイエスの足を拭いた。家は香油の香りで満ちた。4.ところがイエスの弟子たちの中の一人で、イエスを引き渡そうとしていたイスカリオテのユダが言った。5.「なぜこの香油を三百デナリオン《1デナリオンは労働者1日分の賃金》で売って、貧しい人々に施さなかったのか」。6.しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心配していたからではなく、彼が盗人であって、金入れを保管していながら、中に入れてあったものを盗んでいたからである。7.そこでイエスは言われた。「彼女のするままにさせておきなさい。わたしの埋葬の日に備え、それをとっておいたのだから。8.貧しい人々は、いつもあなたがたと共にいる。しかし、わたしはいつもいるわけではない」。
9.さて、大勢のユダヤ人の群衆が、イエスがそこにおられるのを知ってやって来た。それは、イエスを見るためだけではなく、死者たちの中からよみがえったラザロを見るためでもあった。10.しかし、祭司長たちは、ラザロをも殺そうと考えた。11.なぜなら、ラザロのことで、大勢のユダヤ人たちが離れて行き、イエスを信じるようになったからである。
12.翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来ておられると聞いて、13.なつめやしの枝をとり、イエスを迎えようと出て来て叫び始めた。
『ホサナ、主の御名によって来られる方に祝福があるように、イスラエルの王に。』
14.イエスはロバの子を見つけて、その上にお乗りになった。こう書かれているように。
15.『恐れるな、シオンの娘。
見よ、あなたの王が来られる。
ロバの子に乗って。』
16.イエスの弟子たちは、最初これらのことが理解できなかったが、イエスが栄光をお受けになった時、これらのことがイエスについて書かれたものであり、そのことを人々がイエスに行ったのだということを思い出した。17.ところで、イエスがラザロを墓から呼び出し、彼を死者たちの中からよみがえらせた時にイエスと一緒にいた群衆が、その証しをしたのである。18.群衆がイエスを出迎えたのも、このイエスがしるしを行われたのを聞いたからである。19.そこでファリサイ派の人々が互いに顔を見合せながら言った。「何をしても無駄だ。見よ、世はあの男について行った」。
20.さて、祭りの礼拝のために上って来ている人々の中に、数人のギリシア人がいた。21.そこで彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポに近づき、「旦那さま、イエスにお会いしたいのですが」と言って尋ねた。22.フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行ってイエスに話した。23.イエスは答えて彼らに言われた。「人の子が栄光を受ける時が来た。24.心をこめてあなたがたに言っておく。一粒の麦は地に落ちて死ななければ、それは一粒のままである。もし死ねば、豊かな実を結ぶ。25.自分の命を愛する者はそれを失い、この世において自分の命を軽視する者はそれを保ち、永遠の命に至るだろう。26.もしだれでもわたしに仕えようと思うなら、わたしに従いなさい。そうすれば、わたしのいる所にわたしに仕える者もいることになる。だれでもわたしに仕えるなら、父がその人を尊んでくださる。
27.今、『わたしのこころは騒いでいる』。何と言おうか。父よ、この時からわたしを救ってください。しかし、わたしはこのために、この時のために来たのです。28.父よ、あなたの御名が崇められますように」。すると天から声があった。「わたしは栄光を現わした。再び栄光を現わすであろう」。29.すると立っていた群衆が、これを聞いて「雷鳴がおきたのだ」と言い、他の人たちは「天使が彼に語りかけたのだ」と言った。30.イエスは答えて言われた。「この声があったのはわたしのためではなく、むしろあなたがたのためである。31.今はこの世が裁かれる時である。今こそこの世の支配者は追い出されるだろう。32.そしてわたしが地から上げられるならば、すべての人をわたしのもとに引き寄せよう」。33.こう言って、イエスはどんな死に方で死のうとしておられたかを、告げられたのである。
34.すると群衆がイエスに答えた。「わたしたちは律法によって、キリストはいつまでも生きておられると聞いています。それなのに、どうしてあなたは、人の子は上げられなければならないと言われるのですか。この、人の子とは誰ですか」。35.するとイエスは彼らに言われた。「まだ少しの間、光はあなたがたの間にある。闇があなたがたを捕らえることがないように、光がある間に歩きなさい。また、闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。36.光がある間に光を信じなさい。それは、あなたがたが光の子となるためである」。イエスはこれらのことを話されてから立ち去り、彼らから身を隠された。
37.イエスがこれほど多くのしるしを彼らの前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。38.預言者イザヤの言葉が成就するためである。彼はこう言った。
『主よ、誰がわたしたちの説くことを信じましたか。
主の腕は誰に現わされましたか。』
39.こういうわけで、彼らは信じることが出来なかった。イザヤはまた、こうも言ったからである。
40.『神は彼らの目を見えなくし、
彼らの心を石のように硬くされた。
それは目で見ず、
心でも悟らず、
悔い改めることがないためである。
また、わたしは彼らを癒さない。』
41.イザヤがこう言ったのは、彼がイエスの栄光を見たからである。彼はイエスについて語ったのである。42.それでもなお、指導者たちの中の多くの者がイエスを信じた。しかし、会堂から追放されないために、ファリサイ派の人々の手前、公には言い表さなかった。43.彼らは、神の称賛よりも、人々の称賛の方を、よりいっそう好んだのである。

44.イエスは叫んで言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしを遣わされた方を信じるのである。45.また、わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。46.わたしは光として世に来た。それは、わたしを信じる者がだれも、闇にとどまることのないためである。47.もし、わたしの言葉を聞いて守らない人がいても、わたしはその人を裁かない。わたしが来たのは世を裁くためではなく、むしろ世を救うためである。48.わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者には、その人を裁くものがある。わたしが話したその方の言葉が、終りの日にその人を裁く。49.なぜなら、わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身がわたしに、何を言うべきか、何を話すべきかを命じられたからである。50.父の命令とは、永遠の命であることをわたしは知っている。だから、わたしは父がわたしに語られたとおりのことを話しているのである」。

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●「自然の中で聴く聖書」ヨハネによる福音書 12章
https://www.youtube.com/watch?v=km7LtBLmRlc


ή ψυχή μου τετάρακται (27)
 「わたしのこころは騒いでいる」

イエスはヨハネ14:1で、「あなたがたは心を騒がせないように」と言われた。しかし、12:27で、イエスご自身「わたしのこころは騒いでいる」と言われた。「この時」とは十字架の時である。そのことを目前にして、イエスは「こころが騒いでいる」と言われたのである。「騒いでいる」のギリシア語 τετάρακται(テタラクタイ)は14章1節のそれと同じである。ただ違いは「こころ」 (ψυχή・プシュケー 27)と「心」(καρδία ・カルディア 14:1)の違いにある。両者の意味は大体似ているが、27の ψυχή(プシュケー)は、「①いのち、生命(マタイ2:20、ヨハネ10:11、15、17、1コリント15:45など)②人格的主体、人 (マルコ8:36、ロマ2:9、13:1など)③こころ、精神、肉的生命の主体、自己、魂(たましい・なまの人間の人格生命の本質的部分)」(新約聖書ギリシア語小辞典より)で、それに対し、14:1のκαρδία(カルディア)は、人間の精神活動の主体である「心」、「人格」、感情の主体、英語の heart に大体相当する。

★「終わりの日」εσχάτη  ημέρα(エスカテー ヘーメラ)(48)
     この「日」は単数
    


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