2016年1月10日日曜日

新約聖書原典「コリントの人々への手紙二」 5章の翻訳(私訳)

コリントの人々への手紙  

5章


1.もし、わたしたちの地上の住み家であるこの幕屋が壊されても、神によって建てられた住み家、すなわち人の手によらない天における永遠の住み家があることをわたしたちは知っています。2.わたしたちは、天から与えられるこの住み家を上に着ようと切に願いながら、このことでうめき苦しんでいます。3.もし着たなら、わたしたちは裸ではないことに気付くでしょう。4.この幕屋にいる間は、わたしたちは重荷を負ってうめき苦しんでいますが、それを脱ぎたいと望むからではなく、かえって上に着ようと望むからで、死ぬべきものがいのちに呑まれてしまうためです。5.しかし、わたしたちをこのようになるのにふさわしい者としてくださったのは神です。神はわたしたちにその保証として御霊を与えてくださいました。6.だから、わたしたちはいつも心強いのですが、肉体を住み家としている間は、わたしたちは主から離れているのだ、ということを知っています。7.わたしたちは信仰によって歩んでいるのであって、見えるものによって歩んでいるのではないからです。8.わたしたちは心強い。しかし、わたしたちはむしろ、肉体を離れて主と共に住むことの方がいっそう喜ばしいのです。9.だから、(体を)住み家としているにしても、(体を)離れているにしても、わたしたちが熱心に努めるのは、主に喜ばれる者であることです。10.なぜならわたしたちはみな、キリストの裁きの座の前に必ず現れ、善であれ悪であれ、体を(住み家として)いる間に行ったことに対して、それぞれ当然の報いを受けねばならないからです。
11.ですから、わたしたちは主を恐れることを知っているので、人々を説き勧めているのです。わたしたちは神に完全に知られています。ですが、あなたがたの良心によっても完全に知られることを望みます。12.わたしたちは再びあなたがたに対し、自己推薦しているのではありません。むしろ、あなたがたが内面ではなく外面を誇る人々に対して、わたしたちのことについて誇るための口実を、あなたがたに与えているのです。13.わたしたちが、気が狂っているとすれば、それは神のためであり、正気であるとすれば、それはあなたがたのためです。14.キリストの愛が、わたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう判断します。すなわち、ひとりの人がすべての人に代わって死んでくださったので、すべての人は死んだのです。15.すべての人に代わって、その方が死んでくださいました。それは生きている者たちが、もはや自分のためにではなく、自分に代わって死に、そして甦られた方のために生きるようになるためなのです。
16.ですから、わたしたちは今後だれをも肉によって知ろうとはしません。もし、キリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をしません。17.ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、(その人は)新しく創造された者です。古いものは過ぎ去り、見よ、新しいものが生じました。18.すべてのことは神から出て、キリストを通してわたしたちをご自分に和解させ、かつ、わたしたちに和解の務めを委ねられました。19.すなわち、神はキリストによって世をご自分に和解させ、彼らの罪過を彼らに負わすことをしないで、わたしたちのうちに和解の言葉を確かなものとしてくださったのです。

20.神がわたしたちをとおして勧めをしておられるのですから、わたしたちはキリストのための使者なのです。わたしたちはキリストに代わってお願いします。神との和解を受けなさい。21.(神は)わたしたちの代わりに、罪を知らない方を罪とされました。それは、わたしたちがその方によって、神の義となるためです。





★「もし(それを)本当に着たなら、私たちは裸ではないことに気付かされるでしょう」3節

εἴ γε καὶ ἐκδυσάμενοι οὐ γυμνοὶ εὑρεθησόμεθα.(3)

ネストレ18版では上記のように、εἴ γε καὶ ἐκδυσάμενοι となっていて、そのとおりに訳すと、「(それを)脱いだなら」又は「(それを)脱いでも」と訳すべきで、実際、新共同訳はそのように訳している。上記の「着たなら」と訳したのは、ネストレ14版までは εἴ γε καὶ ἐνδυσάμενοι「(それを)着たなら」となっているからである。おそらく15版か16版時に上記のように修正されたと思われるが、当翻訳では上記のように、口語訳、新改訳、欽定訳が行っているように「着たなら」を採用した。他の翻訳にもそれに沿ったものが多くあり、「脱いだなら」を採用しているものはわたしの知るかぎりでは新共同訳以外にない。どちらが正しいかは写本上の問題もあるのでむつかしいが、当翻訳では2節の「上に着ようと切に願いながら」の文脈にも添うと思われるので敢えて上記のように訳した。


μὴ λογιζόμενος αὐτοῖς τὰ παραπτώματα αὐτῶν(19)
「彼らの罪過を彼らに負わすことをしないで」

  λογιζόμενος(ロギゾメノス・負わすこと)と訳されるこの言葉は、元来は会計用語で、「計上する」、「勘定に入れる」を意味する。ゆえに、「彼らの罪過を、彼らの負債として勘定に入れず」というのが本来の意味である。人間は神に対して本来、負債を追う者であるが、和解を受けて負債が帳消しになった今では、もはや従来の負債は清算されており、新たな負債は勘定書きには計上されないという。したがって、新たな負債を負うことはないというのが19節の趣旨である。






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